老人の専門医療を考える会 - 全国シンポジウム - 内容
第27回 『終末期をどう生きるか』  平成17年3月12日 銀座ガスホール

総合司会 山上 久
老人の専門医療を考える会 副会長

13:30 開会挨拶 平井基陽 老人の専門医療を考える会会長
13:45 基調講演T「最後まで口から食べることを大切に〜口のリハビリテーションのすすめ〜」
   栗原正紀 近森リハビリテーション病院院長
 講演資料(PDF:630KB)
14:05 基調講演U「ターミナル期における医療ソーシャルワーカーの対応課題」
   大石桃子 信愛病院医療ソーシャルワーカー
 講演資料(PDF:332KB)
14:25 基調講演V「在宅における終末期医療−ガンの痴呆症の二症例」
   照沼秀也 いばらき診療所理事長
 講演資料(PDF:69.3KB)
15:45 基調講演W「在宅ケアからの報告−訪問看護師・ケアマネジャーとして関わって−」
  櫻井栄子 居宅介護支援事業所きずな所長
 講演資料(PDF:85.1KB)
15:20 シンポジウム〜終末期をどう生きるか〜
シンポジスト:栗原正紀、大石桃子、照沼秀也、櫻井栄子 
座長:齊藤正身 霞ケ関南病院理事長
 
17:00 終 了
 
開会挨拶 平井基陽 老人の専門医療を考える会会長

皆様、こんにちは。当会の会長を仰せつかっております平井でございます。今日は土曜日の午後でございますが、多くの方にご参加いただき、誠にありがとうございます。

今、山上先生から、今回のテーマが「終末期をどう生きるか」ということを発表していただきました。私どもの「老人の専門医療を考える会」は、昭和58年(1983年)に結成いたしました。会員は非常に少なく、60にも満たない任意の団体でございます。当会を結成以来、終始一貫掲げてまいりました基本的な理念と申しますか、目標というのは、老人医療をよくしたい、そして、とにかく老人医療に専門性をということと、ただひたすらに老人医療の質の向上、あるいはサービスの向上ということです。この全国シンポジウムも、結成以来、終始一貫、「どうする老人医療これからの老人病院」というテーマで行なってまいりました。そして、サブテーマとしまして、そのときそのときの重大と思われる事柄を取り扱ってまいりました。

実は、この終末期医療あるいは終末期に関連いたしましては、13回目の平成9年に、「高齢者の終末期医療」というテーマで、このガスホールでシンポジウムをさせていただきました。そして、その翌年の平成10年には、回数的には15回目ですが、「高齢者の終末期医療パート2」ということで、同じテーマで開催させていただきました。

今回、約7年、8年経過して再び終末期というのを取り上げた背景を申し上げます。国の終末期医療のあり方検討会というのも、実はすでに4回開かれているわけですが、終末期というと、どうしても悪性腫瘍の末期に代表される終末期のあり方というのが主なテーマでございました。私どもが日常、診療あるいは医療をしておりまして、終末期と申しますのは、老人医療の範囲、あるいは高齢者に深く関わるテーマであります。「終末期」という言葉には少し抵抗を感じるのですが、最近では「エンド・オブ・ライフ」ということで、「晩年期」とか「最終章」というような言葉も使われているようです。そして、終末期医療ということでいきますと、医療の提供側、あるいはサービスの提供側の発想でございました。しかし、今回は、終末期をどう生きるかを利用者の立場に立って考えてみたいということがございます。

もう一つの、「終末期をどう生きるか」ということを取り上げた理由といたしまして、介護保険制度が始まり、いろいろなサービスが出てきております。在宅でいろいろな医療・介護サービスを受けられているのですが、どこの施設も、あるいはどこのサービス提供者も、終末期ケアを提供するということを盛んに言われております。そのようなところで、終末期をどのように受け止めればいいのか、あるいは、私どもサービス提供者側といたしましては、もう一度サービスの提供の仕方ということを、利用者の皆様、市民の皆様方と一緒に考えて、いろいろなご示唆なりをいただき、それを糧にして、よりよく、より質の高い老人医療の実践を目指したいというように思います。本日は利用者の方もいらっしゃると思うのですが、どのようなことでも結構ですので、いろいろなご発言を賜ればと思います。

今回のシンポジウムは、さまざまな立場で終末期あるいは人生の最期に関わっていらっしゃる専門家の方、例えば、医師、ソーシャルワーカー、看護師。そのような方々に、現場からの報告も含めてお話しいただいたあと、少し休憩をいただいて、4名の方をシンポジストとして、齊藤正身先生の司会でシンポジウム形式で進めさせていただこうと思っております。

今日は、ほんの数時間でございますが、有意義に過ごしていただければと思います。そのような願いを込めて、ただいまから始めたいと思いますので、よろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。

基調講演T「最後まで口から食べることを大切に〜口のリハビリテーションのすすめ〜」 
   栗原正紀(近森リハビリテーション病院・院長)

皆さん、こんにちは。栗原でございます。私の話は、終末期の、もう少し手前の「どう生きるか」。日常の生活、病院、そして、在宅の生活を含めて、少し皆さんと、口のことを視点として一緒に考えようということで、このタイトルを選ばせていただきました。       

まず、私の経験した症例を皆さんにご紹介いたします。もう随分昔のことですが、私が口のことを非常に大事だと学ばせていただいた症例でございます。もうご高齢で、私がまだ脳神経外科医として救急医療を行なっていた頃の方ですが、頭の血管が詰まって意識が昏睡状態になって運ばれてきた患者さんです。何とか命は取り留めたのですが、スライドをごらんになってお分かりのように、自分で座ることができない。それから、自分で食べることもできないし、おしゃべりをすることもできないという、非常に重度の状態になられた方です。

家族が、「先生、もう治療をすることがなければ家に連れて帰りたい。みんなで一緒に暮らしていきたい。ただ、鼻から管を入れられているのは非常に忍びない。何とか口から食べさせてもらえないだろうか」と言われました。当時、私は口のことをあまり知りませんでしたが、何とかしなければいけないということで、看護、あるいは親しくしておりました歯科の先生と一緒になって、在宅に向かえるように努力した症例です。

私たちがやりだしたのは、とにかく寝かせていてはどうしようもないということで、まず座っていただきました。しかし、座った姿は、後ろから支えていないと首もガクンと下に落ちてしまいます。つまり、赤ちゃんが、まだ首が据わらないのと同じ状態に、病気によって戻ってしまったということです。それで、後ろから支えてあげる。もちろん言葉もしゃべれません。とにかく、鼻から管を入れるのを何とかしてくれという訴えについて、確かにそうだと思いました。鼻から物は、普通は入りませんね。鼻からは空気しか入りません。物が入るのは口からだということで、口から管を入れました。経管栄養ですから朝・昼・晩に入れて、流動食を提供したあとは抜いてしまうという方法です。さらに、一生懸命座っていただくことをやったわけです。これは救急病院での話でございます。

(スライド)少し反応が出てまいりまして、口から流動食が入っている状態です。次のスライドは、何を口の中にふくんでいるかというと、たまたま看護師さんが工夫して、割りばしの先に普通のパイナップルを冷凍して刺したものです。そうすると、パイナップルの酸っぱいといいますか、甘いといいますか、そのような味がしたのでしょう。唇が非常にうまく動き出したのです。そして、赤ちゃんがお乳を吸うように、チュッチュ、チュッチュと吸われているという状態を示しています。非常に豊かな反応が出てきました。そして、何とかお昼だけ口から食べていただくようになりました。さらに、ご家族には口から管を入れるという訓練をしていただき、家に帰っていただきました。

スライドは、家に帰った状態でのご本人でございます。いかがでございましょうか。この方(入院されていた頃の写真)がこの方(在宅生活での写真)でございます。全く違う。この影響には、一つにはお孫さんの力が非常に大きいです。朝晩、お孫さんが学校に行くときに、おばあちゃんに声をかける。そうすると、非常に豊かな笑顔が出てきたそうです。もちろん、訪問看護あるいはご家族の手によって、ベッドの上に寝かせっきりということはありませんでした。このようなことを経験いたしまして、一つのきっかけではございますが、口を大切にするということは、その人の尊厳といいますか、その人を守ることにつながるということを非常に強く意識しました。

さて、人間というものを私は少し考えてみました。いろいろな本を読みました。われわれ人間の体というのは直立2足です。大先祖が4本足で歩いていて、たまたまかもしれませが、2本足で歩いたときに、人間は重力と闘いながら生きるという宿命を持たされたということに気づきました。よくよく考えてみますと、人生のうちの3分の2は重力と闘うものだというように宿命づけられているのを、皆さんお分かりだと思います。つまり、起きる、座る、立つ、歩く、これが大体24時間のうちの3分の2です。こればかりやっていると疲れてしまいますので、8時間ぐらいは横になって寝ておけと、このような感じではないかと思うのです。

ただし、重力と闘っていますが、重力をうまく利用して生活をしているということもあります。例えば、寝たまま大便をするのは非常に難しいです。ところが、座ると大便は出やすいのです。それは、重力で引っ張られているからという解釈もできると思います。もう一つは、使わなければ退化する。私は高知から参りましたが、有名な坂本龍馬は、当時、江戸あるいは京都まで歩いて行っていたのです。とんでもない話ですが、私にはそれはできません。われわれは、もう文明によって退化していっている。それから、もう一つは外界からの情報と応答の関係。何かといいますと、自分1人では何も自分を認識できないということです。外からいろいろな情報が入ると、われわれは応答する・反応するということで存在していることが分かります。

すなわち、これら三つの原則を、もし一つでも逸脱していくと、とんでもないことが起こるということが、最近、多くの病院で警告されています。それは何かといいますと、われわれの体は寝かせきりになるとガタガタになる。これを廃用症候群といいます。例えば床擦れ。あるいは関節が固くなる拘縮。筋肉が委縮し、骨もまた委縮します。それだけではなく、肺あるいは心臓、消化器の動き、しまいには精神活動さえだんだんと衰えていくということです。

つまり、病院で治療をする時は、安静にしなければいけないと昔からいわれてきましたが、どうも安静ということが、人間のあるべき姿を完全に逸脱した状況の中で治療をする。それが、先ほど言いました、重力とは闘わないということ。そうすると体はフラフラになっていく。大体、われわれでも丸2日ぐらい寝ていて、突然起きるとフラフラしますね。ましてや、お年寄りはこれが強烈にくるということが、まだまだ病院の中では認識が薄い状態です。

先ほどの症例の、座っていただく、口からきれいに食べられるように訓練をする、刺激を与える、このようなことが、結果として、この方がきちんと車イスにも座れる、表情がしっかりするというところまでいったのではないかと思います。

さて、口の話のスライドを少し見てみましょう。先ほど言いましたように、4本足から2本足になったときに、人間あるいは人類は三つの働きが口に備わるようになりました。その働きは、息をする、話す、そして食べる。この三つの働きを口でするようになりました。決して4本足の動物は話すことはできません。息をする、ものを食べることはできます。唯一、2本足の動物が言葉を話せるようになりました。人間以外で言葉を話せる動物は何でしょう。つまり2本足の動物です。九官鳥、オウム。言葉を話せるということは、「あいうえお」がきちんと区別できるかどうかといわれています。 

(スライド)この、たまたまいただいた乳児の写真ですが、この頃、お乳を飲む頃は、息をしながら飲んでいます。皆さん、試してみませんか。われわれは、ゴックンとツバを飲むときは必ず息を止めています。もしも何か飲み込むときに一緒に息が吸える人は、私がフランス料理をごちそういたします。ありえないのです。われわれの体は2本足で立ったときから、そのようになっております。2本足で立つ頃に、だんだんと口が進化していきます。呼吸と嚥下というのは、物を食べる・飲み込むということですが、息をするのと飲み込むのは完全に区別するようになりました。

そして、きちんと2本足で立てたあとから話ができるようになりました。ですから、赤ちゃんは、この頃「おいで」と言えばきちんと来ますね。けれども、話せません。最初に話す言葉は「ママ」ですね。決して「パパ」ではないです。これは寂しい話ですが。いずれにしても、このような進化の過程と成長の過程は非常に相関しています。これに、口の三つの機能が備わった。2本足での備わり方。これが非常に複雑にできているわけです。脳の発達によって、これが支配されています。

けれども、唯一困ることは、息をすること、言葉を話すこと、物を飲み込むことは、それぞれが別々ではありません。例えば、息があまりできない状態では、肺が悪くて呼吸が非常に悪い人は、おいしい物を上手に食べることはできません。つまり、ゴックンとするとき、人間は息を止めなければいけませんから、止める間がないほど息が苦しい人はうまく食べられません。あるいは、上手に食べられない人は言葉の張りを良くすることはできません。例えば、のどの奥でゴロゴロいっている人、湿っぽい言葉を出す人は、必ず何かの形でだ液が肺のほうに入っていったりします。このような三つの働きをきちんと見定めて少しでも安心して食べられるように支援することを、口のリハビリテーションという考え方でまとめました。

これは、少し皆さんにご理解いただければと思います。物を食べるときは、「おいしいのかな」「食べられるものなのかな」「みんなで一緒に食べられたらいいな」というような格好で、目で見て、それがおいしい物、好きな物というのを認知する。そして、もしも唇をかんだり、歯が悪い人は、口の中に入れたときにボロボロッとこぼれますね。それもまた困る話です。舌が動かないと、なかなかのどの奥までは行きませんね。のどの奥に行ったときにきちんとゴックンとできるかどうか。このゴックンとするときに、飲み込んだものが肺に入ってしまうととんでもないことになります。普通ならせきをしますね。そして肺に入った物を出しますが、もしもそれができない状態、つまり、脳梗塞、あるいはお年寄りになっていくとだんだん体力が弱っていって、肺炎を起こしてしまう。

つまり、この三つの機能が発達したために、ある意味では、気管に物が入っていきやすくなったという、逆にいえば危険性までも持つようになったというのが人間の宿命です。そういう意味では、このような、物を詰めて命が危なくなるということは、チンパンジーなどにはあまりないということです。

そのようなことを認識して、われわれは、最後まで少しずつ口から食べられるようにするために、いろいろ工夫をするわけですが、どうも今までの医療の流れの中で、今でもそうですが、鼻から栄養をとるということを随分私もやってまいりました。これはこれで悪くはないのですが、残念ながら、本来あるべき姿ではありません。鼻から物を入れるものではありません。できるだけこれを抜こうではないかと、いろいろとみんなで頑張っております。まず、問題は、鼻から管を入れてしまうと口がほったらかしになってしまうのです。口がほったらかしになると、ここで、先ほど言いました「使わなければ退化する」というように、口の中がどんどん退化してまいります。

まず第一に当たり前のこととして考えてみましょう。どのような障害があっても、あるいはお年寄りになったとしても、体力が失われていったとしても、われわれは本来、寝たままで物を食べるものではありません。寝たままで食べてもおいしくない。そうであれば、経管栄養、つまり管で栄養をおくるとしても、やはり座って栄養をするものだという考え方をみんなで認識しようではないかということです。そうでなければ、結局、体がガタガタになります。これは廃用症候群の話です。

では、座らせるというのはどのようなことか、座るというのはどのようなことかといいますと、ただ車イスに乗せるものではありません。 

スライドの麻痺の患者さんの座っている姿は、「座らせる」あるいは「座らされている」という格好です。皆さんは、まだ元気でそれなりにリラックスされているから、いろいろな格好ができます。本来、座る姿は美しいものです。スライドの様に、背筋は真っすぐになっている。横から見てもこのように真っすぐです。麻痺のある患者さんでも、このような座らせ方、あるいは座っている姿を呈する方法がきちんとあります。これがある意味でリハビリの考え方、あるいは技術です。そのようなものをいろいろ利用すると、どのような患者さんでも真っすぐな姿勢ができるようになります。例えばクッションを入れたり、座りやすいものを敷いて、傾かないようにするという座り方です。

もう一つ、健康なときはだれでも口をきれいにしようと努力します。若い人ほど、朝・昼・晩、もしかすると寝る前まで歯を磨きます。年を取ってくると口にだんだん気を遣わなくなるのは、少し問題です。年をとればとるほど口をきれいにしなければいけない。口の中に雑菌がだんだんたまってくると、肺に転がっていきます。これで肺炎を起こしてしまう。これが誤嚥性の肺炎として、今、非常に問題です。年を取っても口の中をきれいにしようということを、みんなで注意し合いましょう。元気で若いから口をきれいにするのではありません。

例えば、このような問題は医療の中に沢山あります。非常に寂しい話ですが、例えば、舌が非常に汚い状態は非常に危険です。年を取っても口の中がきれいであるように、「おばあちゃん、口が臭うから嫌い」と言われないようにしなければいけません。老人会で、皆さんに気をつけていただきたいと、よく言っています。

(スライド)このような口の中を呈している患者さんが入院されている病院は困ったものだと思います。われわれの病院ではできるだけこうならないように、みんなが頑張ってくれています。放置しておくと、しまいにはカビが生えてしまいます。このような状態は、ほとんどが鼻から管が入った状態の患者さんです。鼻から管を入れても、「将来は何とか口から食べてもらおう」とみんなが思えば、このような状態にはしないはずです。もうあきらめてしまったのかと思うくらいです。非常に危険な状態です。

いろいろな方法があります。今は、歯科の領域では、非常に工夫されたブラシがありますし、舌をきれいにする物もあります。皆さん、歯を磨く時に舌までブラシをかけられていますか。タバコを吸う人は、ぜひ舌を磨いてください。

それから、もう一つは入れ歯がうまく使われていないということがあります。例えば、病院に入院すると入れ歯が紛失してしまうことがあります。非常に困ります。入れ歯紛失事件というのは沢山あります。ご家族が注意してあげてください。何しろ入れ歯は固い物ですから、1週間入れていないと、もう合わなくなってしまいます。使わないとダメになるということと同じです。残った歯がグラグラになってくるし、全部入れ歯だと歯肉が委縮してしまいます。そうすると、もう合いません。せっかく時間をかけて作った入れ歯が合わなくなっては、どうにもならない。病院に別の病気で入院していて入れ歯が合わなくなるのは、どうも話がおかしいですね。

もう一つは、病院に入院しなくても、健康な頃からうまく入れ歯を使われていないことが結構あります。非常に心配です。時には、仏壇に入れ歯が飾ってあるということがあります。これは非常に困ったものです。入れ歯をきちんと作っていただいて、うまく使うということを、もっともっと皆さんが注意しなければいけないと思っています。

いかがでございますか。(スライド)一見すると、恐らく80代、あるいはもう90ぐらいに見えますね。しかし、入れ歯が入ると70代ぐらいに見えますね。単に見た目だけではなくて、入れ歯をきちんと入れてあげると、おいしい物はおいしく食べられるはずです。歯科の先生、歯科衛生士さん、病院のスタッフたちが一緒になって、このようなことを大事にするということがスタートラインではないかと、皆で今、議論をしています。また、何とかしようと言っています。

高知では、口のリハビリテーション研究会まで作りました。なんと、会員が1,000人います。すごいと感激していますと、ある人が、「先生、高知では、人がいっぱい集まるのは情熱があるからです。ただし、熱しやすく冷めやすいですから注意してください」と言われました。

もう一つは、食べる物の話です。どうしても口がうまく使えない人、脳卒中で使えなくなった人、少しだけうまく工夫すれば食べられる人には、見た目に食べたいと思えるような食事を食べていただくという提供の仕方がございます。非常に寂しい話ですが、食べたくならないような物を提供しているということが、結構あちらこちらであります。おいしそうな物を、安心しておいしく食べていただく。この心を、どのようなステージでも、ステージというのは、病院でも、在宅でも、施設でも、少しでも工夫ができるような時代になってくればと考えています。

私は、これからの老人医療の基本というのは、栄養を豊かに取って、なおかつおいしい物を安心して口から食べられるように、そして体がどんどんダメにならないようにという、廃用症候群の予防、これがまず基本にあって医療が成り立つのではないかと思います。この口のリハビリテーションというのは、「どのような障害があっても、最後まで人としての尊厳を守り、『諦めないで口から食べる』ことを大切にする」というように書いてみました。恐らく、医療従事者に「あなたは、鼻から管を入れられて治療をずっと受けなくてはいけないとなったときに、それを望みますか」と聞くと、99%答えは「No」です。「でも、あなたは患者さんにそうしてますよね」と言うと、言葉に詰まりますね。「でも、忙しいから」と言ってしまいます。なかなか難しい事情があります。急には、みんな変わらないかもしれませんが、患者様からいろいろなものを学びながら少しずつやっていくことが大事だと思います。

最後に、私がものすごく沢山の事を教わった患者さんをご紹介します。これは、もう十数年前の症例です。私が脳神経外科医として、救急の病院で仕事をしていた頃ですが、(スライド)これは頭の中の写真です。脳がスッポリやられてしまい、障害があります。これは左の脳ですから、言語に関わる脳がほとんど障害を受けてしまっている患者さんです。命は助かりましたが、ご主人が定年と同時に家に連れて帰ると言われ、本当に寝たきりの植物状態の患者さんでした。その当時は、私はまだ何も知りませんでしたから、鼻から管を入れて訪問看護をお願いしていました。歯科の先生と仲良くなり、その先生が「少しでも」ということで、口をきれいに、いろいろ試しにということで関わっていただいた症例です。

時々私も訪問しましたが、情けないことに、私自身は聴診器を当てて、あとは何もすることができませんでした。けれども、歯科の先生には、一生懸命口の中を診ていただきました。歯科衛生士さんが口をきれいにして、いろいろな刺激を与えていってくれました。グラグラしている歯をすぐには抜かないで、できるだけその歯を固定できるようにと、いろいろな工夫をしていただきました。

さらには、車イスに乗せて、いろいろ言葉をかけました。もちろん声も出ません。そのうち、少しずつ、何か動きがよくなるのです。このような症例ばかりではありませんが。そうすると、歯科の先生は、口の働きを、単に歯の治療だけではなくて、息の仕方を本人の前で行なっているのです。(スライド)ストローをくわえて「フーッとやってください」と声をかけています。すると、歯科の先生の言うことには、何となく息が届くのだそうです。

そのように関わっていただいて、好きなメロンを左手で、完全に右は動きませんが、スプーンですくうようになりました。そして、音楽が非常に好きだったらしいですが、何となく、おもちゃのピアノの鍵盤を押して、音を出すようになりました。字を拾うようにもなりました。

そして、最後に、これは本当に驚いたことですが、たまたま別の病気を併発して入院された時のことです。ご主人が、ご本人が好きな歌を隣で歌っていたらしいのです。この方はSさんというのですが、そのころは、「Sさん、おはよう」と私が声をかけると、「うんうん」と、このぐらいはされました。ところが、ご主人が1番の歌詞を歌って、2番の歌詞を忘れてしまった。すると、Sさんが歌い出したのです。最初に、スライドで頭の写真を見せましたね。言葉が出るはずがないのです。この出来事だけは、私はもしかしたら奇跡かもしれないと思います。けれども、座れるようになったのは、私が知らなかったからできなかったのです。みんなが寄ってたかってやった結果がここまでだったのですが、最後にご主人に「ありがとう」と言ってあの世に行かれました。

そのプロセスをご主人が書かれて、自分たちで本を作られました。そのご主人ももうお亡くなりになっておりますが、最初の症例とこの方を見たときに、単に医術だけではなくて、みんなで、少しでも豊かにしようではないか、ほったらかさないということに努めていくと、ここまでにはなるのだということを教えていただきました。

  以上です。ご静聴ありがとうございました。
基調講演U「ターミナル期における医療ソーシャルワーカーの対応課題」 
   大石桃子(信愛病院・医療ソーシャルワーカー)

よろしくお願いします。今回は、医療ソーシャルワーカーの立場で、患者さんのターミナル期にどのように関わっていく必要があるかということで、お話をさせていただきます。

まず始めに、私が勤務している信愛病院の概要についてお話しします。当院は、介護療養型医療施設136床、一般病棟43床、緩和ケア病棟20床、全体で199床の病院です。職種は、医師、看護師、ケアワーカー、リハビリ、管理栄養士、薬剤師、宗教が母体になっている病院なのでチャプレン、音楽療法士、医療ソーシャルワーカーなどがチームで仕事をしています。この中で、医療ソーシャルワーカーは医療社会事業部として独立しており、院長直属の部門として配置されています。(スライド)これは相談室の様子ですが、執務室以外に、相談室が一部屋あります。主にこちらでご相談をお受けしています。

次に、平成15年と16年、ここ2年間の入退院状況をお話しします。

まず、当院には緩和ケア病棟というのがあり、1996年9月に承認を受けて開設されました。当院の場合は、悪性腫瘍で余命6ヶ月以内と推測される末期の患者様が入院の対象となっています。積極的な治療が終了して、疼痛や苦痛の緩和が必要な方が対象となります。最近の傾向としては、医療が進んでいるので、ぎりぎりまで治療して、入院相談のときにはかなり厳しい状態であることが多く、平均在院日数も短くなってきています。一般病棟の場合、外来患者さんは、内科・整形外科の治療目的の方以外に、急性期治療を終えられたリハビリ目的の方が対象となっています。

次に療養型病棟ですが、当院の場合は全て介護保険適用の病棟で、入院期間の制限は特に設定していません。このため、入退院ともに平均して月数人程度です。平均在院日数も2年から3年と長期になっているので、平均介護度も徐々に上がってきています。当院の療養型病棟において、平成15年に30名、平成16年に31名、合計61名が亡くなって退院されました。

これを今回、年代別、男女比、入院時の病名、退院時の死因、ターミナル期の日数で集計しました。平成15年のデータですが、60代、70代、80代のかたがほぼ同数で、この年代の方が大半を占めています。平成16年の場合、80代で亡くなった方が非常に多いということが分かりました。男女比で見ると、男性が4割で12名、女性が6割で18名。平成16年も、ほぼ同数の割合を見せました。次に入院時の主な病名ですが、平成15年では脳こうそくと認知症で7割。平成16年でも同じような結果が出ました。この方々の死因を分類すると、平成15年は、肺炎・呼吸不全といった呼吸器疾患で亡くなった方が7割。平成16年も同様に、ほぼ7割弱の方が呼吸器疾患でお亡くなりになっています。最後に、この方々のターミナル期の日数ですが、平成15年では、8日以上1ヶ月未満という方が半分で、次に1週間以内という方が多いです。平成16年の場合、1週間以内の方が半分を占める結果で、あとの半分は1ヶ月未満と1ヶ月以上がちょうど同じ数で分かれています。

次に、療養型病棟におけるターミナルケアの取り組みについてお話しします。(スライド)まず、2000年9月に「信愛病院における慢性期疾患患者ターミナルケア指針」というものを作り、このように四つの、ターミナル期の定義、ケアの選択、選択者の優先順位、治療およびケアの選択肢ということを示し、リビングウィルの対応やインフォームドコンセントの際の指針として、現在、病棟で使われています。この指針を作った同じ2000年9月から、勉強会を発足しまして、病棟の担当ドクターと師長がメンバーとなり、そのときに必要な検討事項について話し合っています。1例を挙げますと、その指針を基にして、病状悪化時、ご家族に治療方針を確認する所定の用紙を作ったりしています。

次に、「療養型病棟のターミナルケアの現況」ということで、今回、私が各病棟に「ターミナルケアの現況について教えてください」と聞き取りをしました。その中で聞かれた特徴的なことを、お話ししたいと思います。まず一つ目は、ご家族との信頼関係の構築ということですが、在宅介護当時のご苦労を十分に聞く。それから、ご家族のつらさを理解する。あとは、患者さんとのエピソードを通して、患者さんご家族の考えや思いなどを理解する。それを通して、最期をどのように過ごしていただくかということをご家族と一緒に考えています。

二つ目の「インフォームドコンセント後のご家族へのケア」ですが、ドクターがご家族に説明してはいても、ご家族がイメージしている患者さんの状態の把握とズレがあることがあります。一度で十分な理解をすることは難しいので、そこにナースが介入して、患者さんの体を実際に見せたり触ったりしてもらいながら説明することや、面会のときには必ず患者さんの様子を伝えるということで、病状の理解を深めてもらうことや看取りの準備ができるような作業をしています。

三つ目の「残された時間の過ごし方・看取りの仕方」についてですが、緩和ケア病棟に簡易ベッドのレンタルや宿泊用の家族室があるので、それを療養型のご家族に利用していただくこともできます。それから、2人部屋を、同室者の方にご理解をいただいて、個室にして最期の時間をご家族と一緒に過ごしていただくというような工夫もしています。(スライド)参考までに、これが緩和ケア病棟の家族室です。設備として、キッチン、6畳和室のお部屋とクローゼット、ユニットバスがあります。

また、ある患者様は、嚥下障害があって、通常はお口から物を食べること・飲むことができなかったのですが、ご本人様とご家族の強い希望で、お好きだった日本酒をお飲みになって、ご家族・ご本人様ともに満足されたということがありました。これは、ご希望をケアに反映させたという一コマだと、お話を聞いて思いました。

四つ目は死亡退院者の見送りの方法についてですが、ご本人がお好きだった洋服や着物を着てお帰りいただくこともありますし、病棟に飾ってあるお花や花壇のお花を摘んでブーケを作って、手に添えてお見送りするなど、最期のときも丁寧に、個別性を尊重して、結果としてご家族に、大事にしてもらえたと感じていただけるようなケアに努めているということでした。

次に、病棟スタッフがターミナルケアをしている中で、私たちソーシャルワーカーがターミナル期にどのような関わりをしたのかをまとめてみました。平成15年、16年の2年間で61名の方が亡くなっておりますが、その中で私たちが関わった件数は11件でした。具体的にお話しますと、日常生活援助をしました。それから、入院中から退院後に至るまでの心理的なサポートが主たるものでした。

日常生活援助というのは、例えば身寄りのない単身者の方に対して、入院時から、病棟から介入依頼をされることが多くあるので、日用品の買い物、支払い、制度利用の申請など、ご家族に代わることをしています。亡くなった後も、そのご家族に代わって、退院の手続き、役所の手続き、あとは葬儀社とのやり取りもありますし、火葬について行ったこともあります。それに関連した金銭管理などもしています。これは、私たちにとっては患者さんの療養生活を支える大事な仕事だと認識しています。

心理的な援助・サポートということですが、ターミナル期の状態になると、ソーシャルワーカーの対象者がほとんどご家族だけになります。院内で見かけたときにお声をかけたり、かけられたりする中でサポートをしているわけですが、改まって病棟に出向くというよりは、自然な形で出会ってお話をするほうが構えずにお話しできることもあるので、そのような場面でお話をさせていただいています。

例えば、ご家族の不安に耳を傾けることはもちろん、うまく表現できない感情を表出するように働きかけること、連日のお見舞いをねぎらうことなどをしています。あとは、ご家族が、例えば別れが近づいている悲しみであるとか、不安であるとか、そのような感情があるわけですが、その中でも毎日面会に来て頑張っていらっしゃる様子とか、ご本人様にしているケアの中で前向きにしているなと思われる点があれば、そこを肯定化してそれが継続できるように後押しすることだとか、そのような働きかけをしています。ソーシャルワーカーが病棟から離れた職種であることから話せる内容もあります。ご家族は、スタッフと同じ、ご本人様を支えるケアの提供者ということでもありますが、別れが近づいて不安や混乱を抱えてケアを必要としている人、ということを認識して家族に関わらなければいけないと考えています。

家族問題援助というものもあります。そのような事例もありました。遠方にいらっしゃるご家族なのですが、面会は一度もありませんでした。しかし、最期は教えてほしいというご希望を事前に伺っていたので、状態が悪化してきたときに、こちらから連絡を入れました。亡くなった後にいらっしゃったとき、ご本人の生前の様子などをお話ししました。ご家族には、身内の死として受け止めていただくための働きかけとして必要な作業と考えています。ソーシャルワーカーの業務は数字で表現できるものではないと考えていますが、あえて今回、なぜターミナル期において介入が少ないかと考えると、ターミナル期の日数が少なく、病状の悪化に伴い、これまで以上にドクターや病棟スタッフと家族との関わりが多くなり、医療が主体になるためと考えます。

次に、当院には、先ほどもお話しさせていただきましたが、同じターミナルケアを提供している緩和ケア病棟があるので、そこでソーシャルワーカーがどのような役割をしているかというのを見ていきたいと思います。対象者を「ご本人・ご家族」というように大ざっぱな書き方をしてしまいましたが、緩和ケア病棟の場合、入院相談の段階から患者さんのほとんどがターミナル期であります。入院までの待機期間が短いことと、入院待機後の連絡調整や窓口がすべてソーシャルワーカーになっていることから、継続した関わりがあります。

また、入院後も、不安や心配事を抱えていたり、病気をきっかけに生活のあらゆる面で問題が生じるということもあるので、関わりは多いです。また、先ほどの介護療養型医療施設と同じように、生活保護の方との関わりも多いですし、家族問題の援助も多いです。緩和ケア病棟の場合は、ターミナルケアを前提とする側の基準として、入院中はもちろんのこと、退院されたあとも、遺族へのケアというのもケアの対象としており、「遺族ケアは入院時から始まる」という基本的な考え方があります。遺族ケアの研究なども沢山あります。当院の場合は、年に1回、年度ごとにご遺族をお呼びする家族会、月に1回、自由参加型なのですが、茶話会、あとは、亡くなって3ヶ月経過した頃にメッセージカードをスタッフがお送りするなどしています。

ここで、ご家族へのケアの例を幾つかお写真で見せたいと思います。これは先ほどお話しした家族会の様子です。1部をセレモニーで、2部を茶話会としています。ソーシャルワーカーも、準備の段階からメンバーとなり、当日の運営まで関わっています。これは、ご自宅で飼っていた愛犬をご家族が病棟に連れてこられ、面会している場面です。こちらは、病棟で患者様の結婚式を挙げたときの記念写真です。これはお花見です。ご家族、スタッフ、患者さんでバスを貸し切って出かけます。これは父の日の様子です。お花見と同じように、紅葉狩りもあります。これはクリスマス会の様子です。このように、ご家族と一緒に過ごしていただく時間を提供しています。

緩和ケア病棟には毎月行事があるのですが、それ以外に、日々の中で思い出に残る時間を過ごしていただきたいということで、様々な取り組みをしています。緩和ケアも療養型もどちらの病棟でも、それぞれが工夫を凝らして、ターミナル期にある患者さんやご家族にケアを提供して、ソーシャルワーカーもチームの一員として援助を行っていますが、ここからは、療養型病棟と緩和ケア病棟におけるソーシャルワーカーの援助内容について比較をしていきたいと思います。

まず援助内容の共通点ですが、どちらの病棟でも、ソーシャルワーカーの役割として期待されるものは、生活保護受給者、単身者など、様々な問題を抱えている方のケースへの介入です。単身者の患者さんが亡くなった場合、亡くなった後の整理も退院援助の一部として関わっています。

そして、二つ目は、心理的なサポートが非常に多いということです。心理的なサポートは、もちろん他職種もしていることですが、職種によって表出する感情や不安の訴えの内容が違うことがありますので、心理的なサポートを複数の職種がするということは、非常に大切なことだと思っています。

三つ目は、亡くなった後もソーシャルワーカーの援助があるという点です。ご遺族が来院されたときに、ご遺族から聞かれる感情を傾聴して、そのような感情というのは起こりうる感情であるということ、それから、ご遺族が精一杯やったとか、患者さんのためによかったと思えるような働きかけをすることで、生活を立て直していく過程の一助になればと、関わっています。

相違点を二つ挙げました。その要因としては、療養型病棟の患者さんの場合は、ご家族が、病気を発症して間もない頃の心理的な危機の状態からは脱して、様々な経験の中でご本人の病状を理解していくこと。介護をしてきたという実感を持てる材料があること。それから、生活の様々な問題、経済的な問題なども、軽減・解決されていることが多いことです。

それから、当院の場合、入院期間の制限がないために、ご本人の生活の拠点が決まっていること。それに伴って、支えるご家族の生活パターンも作られているということから、ある種、生活面の安定ということが考えられて、それによってソーシャルワーカーの介入は少なくなってくると考えます。このような安定した療養生活から、徐々に、または急にという形で病状の悪化や生命の危機を伝えられたご家族への心理的なサポートは、必要であるというように考えますが、ソーシャルワーカーの心理的なサポートが基本的に継続した関係性の中で提供できうる援助であると考えますので、ソーシャルワーカーが介入していない、ターミナル期の日数が短かった患者さんに対しては、ソーシャルワーカーの視点であるとか心理的なサポートを展開することが困難です。

二つ目の相違点ですが、遺族ケアもケアの一部として明文化されて、緩和ケア病棟の分野では多く知られている遺族ケアについて、当院の場合、まだ具体的な取り組みがありません。来院されたご家族にそのつど対応しているというのが現状であります。

最後に、今後の課題を述べたいと思います。病棟スタッフが、今回私が話を聞いていく中で、個別のケアやご家族への精神的なケアも含めたケアをしていること、それから、ご家族との信頼関係の構築ということに積極的に取り組んでいるということが分かりました。このことは、患者さんご家族にとって非常に大切な存在であると考えると同時に、私は、病棟スタッフの財産でもあると感じました。疾病や経過などが違っても、大切な人と別れる悲しみや不安は病棟を越えて同じだと思います。ケアを提供する者という以外に、患者さんの状態をよく知る理解者と考えるならば、心理的なサポートや必要な情報を提供する場になれないだろうかということ。

もう一つ、課題として、提供したケアの評価・見直しをする死亡退院後のカンファレンスがまだ整備されていません。ケアの質の確保や向上が目的ということもありますが、病棟スタッフが様々な不安や疑問を抱えながらケアをしていることを聞きますし、また、スタッフが喪失感からストレスを抱えていることもあります。これをカンファレンスで話し合って、スタッフの満足感を得られるという意味でも、そのような場を設けられないだろうか。これらを、今後、病院で考えていければと考えています。

最後に、ソーシャルワーカーの課題ということですが、元々、ソーシャルワーカーの業務というのは他職種に見えにくいのが実状です。これは、ソーシャルワーカーの援助がプライバシーの観点から面談室で行われることが多いことや、心理的なサポートは即効性の高いものではなく、継続した関わりの中に変化を期待できるものであること、ソーシャルワーカーが援助の中で大切にしているプロセス、相手の心の動きや反応といったことよりも、結果がどうなったのかということが他職種にとって先行する傾向にあること、それから、守秘義務の観点から情報提供できる限度があるということが考えられます。患者さんご家族を中心に考えたとき、ソーシャルワーカーがどのような援助をしているのか。ソーシャルワーカーだけがそれを知っていればいいということではなくて、患者さんご家族の心理・社会的側面はどのような状況にあるのか、何を目的にどのような心理的・社会的サポートをしたのか、他職種にも理解できるような方法というのを検討できればと思っています。

今回、発表に当たり、自分の援助内容を振り返って、ターミナル期において、ソーシャルワーカーでなければできない援助とは何かと考えました。自分の考えとしては、専門的なコミュニケーションを通して心理的なサポートを行っているという以外に、生活保護受給者・単身者の方の家族に代わった療養生活、それから退院後までも関わり支えること、家族問題援助に介入しているということがそれに当たるのではないかと考えました。そして、それが重要な仕事であるということを再認識しました。今回の発表を今後の自分の仕事に生かしていけるように、また努力していきたいと思います。

  最後に、今回使わせていただいた写真の公表は、患者さんやご遺族の方に承諾をいただいておりますので、念のためご報告させていただきます。以上で私の話を終わります。
基調講演V「在宅における終末期医療−ガンと痴呆症の二症例」 
   照沼秀也(いばらき診療所・理事長)

茨城から参りました照沼と申します。

私どもの診療所は、在宅医療がどのようなものかということを、この10年間、トライアル的にやらせていただいたのですが、なかなか結論が出なくて、いまだにあれやこれや間違いだらけの在宅医療を行なっている現状があります。その中で、痴呆の患者様でも、ご自宅でずっと過ごしたい、例えば、おむつに手を突っ込んでウンチを触ってしまったというおばあちゃまとか、そのような方でもご自宅で最期まで過ごしたいというご希望、もしくはご家族が過ごさせたいというご希望がある場合は、実際にしてもらっています。あとは、ガンの患者さんで、ご自宅で最期を過ごしたいという方には、そのような在宅ケアのサービスを提供しておりますので、それを若干検討し、報告させていただきます。

そのうえで、どのようにすれば在宅医療がうまくいくのか、もしくは終末期を在宅で看取れるのかということで、いろいろな条件を考えて、18名の患者様のご家族と患者様にアンケートをしました。

その際わかったことは、これは病院でも在宅でも一緒ですが、その人らしい時間を過ごせるということです。今までずっと元気で暮らしていて、いきなり状態が悪くなって寝込んでしまった、もしくは食べられなくなってしまったとしても、その人らしい時間を過ごせるということが、やはり一番大事なのではないかと思います。

次は、やはり何といっても、痛い、苦しい、不安だというのは誰でも嫌ですね。そのようなことは完全にフリーにしたい。

あとは快適な環境です。特に在宅の場合は、行ってみると、畳が傾いていて、ちょっと足を踏み外すとズルズルと落ちて、下に水がたまっていたなどということが結構あるのです。めったにないですが、100人に1人ぐらいあるので、そのような場合は、ある程度住宅改修などもしてあげます。快適な環境が大事であると思います。

もう一つは「ストレスを感じたくない」。これは結構多いのです。特に介護者に多いです。やはり、ずっと毎日、3ヶ月とか4ヶ月一緒にいると、最後の最後でバテてしまうご家族がいらっしゃいます。ちょっとイライラしたり、そして、ショートステイといいますか、有床診療所とか近くの病院で預かっていただくと、何か悪いことをしたのではないかと、介護者が寂しくなってしまったりします。

もう一つは「親しい人たちと一緒にいたい」。これはわれわれが経験したことなのですが、「最期に誰でも会わせてください」と言うと、在宅の場合は「仲良かった友達に来てもらいたいんです」と言って、4人ぐらい同級生が来て一緒に過ごした方がいました。

6番目として、できるだけ自分と一緒に暮らした動物と一緒にいたい。これは多い話です。それまで庭で飼っていたワンちゃんを家に上げて、ベッドサイドに連れてくる。たくさん毛玉があって、その方のお宅に行くと靴下がワンちゃんの毛だらけになって帰ってくるという困ったことが結構あります。

最後です。7番として、「やりたいことをやりたい」というのはどのようなことかといいますと、これも患者様から教わったのですが、ガンの末期で、大腸ガンが肝臓に転移して、20個ぐらい肝臓に転移性の腫瘍があった患者さんがいたのです。病院で「あと3ヶ月だから、もうやることないから家帰りなよ」と言われて戻られました。その方は、最初は診療所の外来に来てくださったのです。「本当にもうやることがないのかなぁ」と思い、とりあえず超音波で見たら、もうめちゃくちゃで、ほとんど正常な肝細胞がないぐらいでした。「20個じゃなくて50個ぐらいあるんじゃないの?」と言ってしまい、後で「ごめんね」と誤り、ご家族ともお話ししたのです。

その方は、歴史が好きでした。ご自宅に帰って近くの歴史サークルに入りたいと言って、コミュニティの歴史研究会の愛好家と一緒に歴史をやり始めたら、それまで食べられなかったご飯を食べ始めたのです。それで、大変元気になりまして、途中で「実は故宮博物館に行きたいのです。台湾に旅行したいのだけれど、いいですか」とおっしゃいました。「でも、モルヒネを山ほど飲んでいる。これを持っていっても大丈夫なのだろうか。」ということで、われわれが厚生労働省に聞いたら、役所で小さい書類を発行してくれました。「麻薬持ち出し書」という書類があるのです。それを成田で見せて、台湾に行かれました。

転移して1年半ぐらい経過していたのですが、旅行後に意欲が出まして、今度は「本物の北京の故宮(紫禁城)を見たい。万里の長城を見てきたいんだ」とおっしゃる。「それは無理じゃないの」と言ったのですが、「まあ、行きたいって言うなら行ってもいいよ」と言いました。そのときは、さすがに疲れて帰ってきまして、それから2、3ヶ月で亡くなってしまったのですが、結局、2年ぐらい楽しくおうちで過ごしたのです。やりたいことをやることも結構大事だと思いました。

最後は宗教なのですが、宗教というものはすごく難しいです。キリスト教の方は「絶対キリスト教じゃないと嫌だ」と言われます。仏教の方はそこまで言わない方が多いのですが。しかし、ここで言っても結論は出ないし、あまり触れないことにしたいのですが、何となく最近分かってきたことは、日本人というのは自然なのがいいのかなということです。「最期は、いろいろやるより、まあ自然に診ていこうかな」というと、「ああ、そうですね」と家族も言ってくださって、「じゃあ、自然でいきましょう」という話になります。自然教のようなものがあったらいいのにと思っています。

では、早速、症例に移ります。最初の症例は、大正3年生まれの方です。ご夫婦2人暮らしで、老老介護です。息子さんが3人いらっしゃいます。皆さん、結構遠くの町に就職して、なかなか帰って来られなくて、おばあちゃんがおじいちゃんを看取ったというケースです。7年ぐらい前から物忘れが激しくなってきて、2、3年前からだんだん歩けなくなってしまった。平成15年の2月中旬に転倒し、肋骨を骨折して入院しました。家の近所の病院です。当然、痴呆症があったので、入院中にせん妄状態が生じて、かなり危ないので、その病院では、手足をギュッと縛って動けないようにしたらしいのですが、相当暴れて、ケンカをして帰ってきてしまったのです。自宅で寝ていたが、痛みが取れないということで、診療所に「何とか痛みを治してくれないか」と訪れてくださいました。

初診時は、第8肋骨の辺りに痛みがありました。そのとき、布団の上で寝たきり状態でした。これでは介護するのも大変だということで、ベッドを入れようとか、痛みを取りましょうと、神経ブロックをしました。また、かゆがっていたので、軟こう等を少しつけました。聴診したら肺炎がありました。それで、レントゲンを担いでいって撮影しました。血液検査もしました。数日後に良くなりました。やはり、少し打ったりして痛みがあると、呼吸状態が悪くなるし、飲み込みも悪くなるので、肺炎は結構起こります。特に在宅の特徴かもしれませんが、寝込んだあとに肺炎を起こすということは結構多いです。

次に、痴呆症状が若干あるので、痴呆症状を抑えるお薬を出したのですが、しばらく経っても全然良くなりません。ご家族が「お薬を飲ませたくない」とおっしゃったので、やめてしまいました。

そのあと、しばらくしてまた肺炎を起こしてしまいました。このときは、水戸にある急性期の病院に預かっていただきました。奥さんがかなり混乱していました。たまたま私が出張でいなかったので、当直の先生に診ていただきました。その先生から私に電話がかかってきて、「入院していただいたほうがよい」と言うので、入院していただきました。

そのあと、またおうちに帰ってきてもフラフラする状態だったのですが、それでも気持ちが元気なので、立ったりします。それで、立ったときに障子に頭をぶつけて切ってしまいました。おうちというのは結構危ない場所が沢山あるので、そのようなことが多いのです。何とか抜糸できて、治ったのですが。

この方で、大変驚いた事があります。平成16年の11月15日に、長男の方に来ていただいて、もうそろそろご飯も食べられないし、今後どのようにしていこうかということで、「急変もあり得ます」と、話をしていたところ、その相談中に呼吸が止まってしまいました。ちょうどそこに、定期的に来ていた訪問介護のヘルパーさんが「先生、大変です!呼吸が止まりました」と教えてくれました。アンビューバックを取り出して蘇生したところ、再び呼吸し始めました。中心静脈栄養ライン(CVライン)も取ってしまいました。15分ぐらいで戻りましたが、ただ、本当に状態が悪かったもので「あと2、3日ですよ」と話をしました。その後、11月18日にお亡くなりになりました。

とても印象に残っているのですが、ご主人が亡くなった後、奥さんが一過性のPTSDのようになってしまったのです。「お父さん、ご永眠されました」と奥さんにご説明したところ、「お父さん死んだの?」と、私に何回も聞くのです。「ご永眠されました」と言うと、「ああ、そうなんだ。お父さん死んじゃったんだ」と言われ、数分経つと、また「お父さん死んだの?」と聞くのです。1時間ぐらい「お父さん死んだの?」とおっしゃっていました。近所の方が「これではバテてしまうから、奥さんも少し寝かせないと」とおっしゃったので、風邪薬を注射し、安定剤を使い、その日はお休みになりました。

 数日後、息子さんと一緒に診療所にご挨拶に見え、「お父さん死んでから何も覚えてないのです」と言って、ニコニコ笑いながら話してくれて、「ああ、そうだったんだ。あのときの1時間半は何だったのだろう」と思った覚えがあります。

 次はガンの患者さんです。この方は喉頭ガンです。平成12年に都内の大学病院で手術をして、その後、肺転移を起こしました。放射線療法・化学療法を受けましたが、なかなかうまくいかない、どうしようかと、いろいろご家族と相談して、とりあえず、田舎が茨城だったので、田舎に帰って過ごそうかと、ご自宅に帰ってくることを決意しました。そのとき当院に相談があり、在宅で診させていただくことにしました。

 たしか退院は4月ぐらいにされたと思うのですが、その後おうちでのんびりされていました。ところが、5月22日になって「ご飯が食べられない。医者を呼ぼう」ということになり、ご家族が病院に連絡して、私が伺いました。便秘があり、舌がカラカラになっていて、少し干からびてしまった状態でした。左の前胸部の辺りに、ちょうどアンパンぐらいの、少し固い10センチぐらいの腫瘍が隆起している状態でした。かなり脱水がひどかったので、脱水を補正するところからやりましょうと点滴を少し行いました。そして、24日にお通じが出ました。 

ところが、5月28日に「苦しくてしょうがないから、すぐ来てくれ」と言われ、伺いました。「少し酸素を吸ってみようか」と、酸素を吸い、事なきを得ています。

6月4日に、尿量が多くなり、1日に2,800から3,000ぐらい出てしまうと言われました。おむつを何度替えても仕方がない、どうしてだと、私に電話が来ました。血液検査をしたところ、血清のナトリウムが112Meqしかなく、「ADHのホルモン異常かな」とお話ししました。「薬は出ないのですか」とおっしゃるので、「薬好きなの」と聞くと、「薬は好きじゃない」とおっしゃる。「じゃあ、梅干しでも食べてよ。朝・昼・晩、沢山食べてね」と言ったら、4つか5つ食べていました。しばらくして、少し尿量も安定してきて、「これで少し様子を見ましょうか」となりました。

6月7日になり、今度はおなかが痛いということで往診しました。診察したら、腹部がかなり張っていて苦しく、かなり熱もありました。おなかが痛いというので、少し大きいのですが、ポータブルのエコー(超音波)を担いで伺いました。この頃から、少し薬を出しました。利尿剤も飲み始めています。

 このとき、まだ痛みがかなりありました。痛みは即効性のモルヒネの飲み薬で対処していたのですが、24時間持続的に使ったほうが痛みが少ないのではないかということで、お話ししました。当初は「それがいいね」と言ったのですが、「点滴するのはもう少し待ってくれないか」ということで、結局やめてしまいました。

 そのあとは、熱が少し出ましたが、腫瘍熱かなと思い、「少し解熱剤で下げましょう」とお話をしています。それから、「食事は好きな物を食べてください」という話をしました。このときに少し怒られまして、「好きな物を食べてくださいというのは、もうすぐ死ぬということですか」と言われて、「そういうことじゃないよ。おいしい物を食べることが体を丈夫に強くするんだよ」と言いました。少し失敗したかなと思いながらも、すごすごと帰ってきました。

24時間モルヒネを使うことはやめました。6月8日になり、また痛みがきました。このときは夜中の2時30分でした。時計を見て「ああ、こんな時間か」と思いながらも往診に行ったのですが、左の下腹部に圧痛がありました。さすがにモルヒネを飲んでも治まらない。夜中だし、眠ったほうがよいと思い、軽い風邪薬、抗ヒスタミン剤を点滴に入れて、「少しお休みしようか。」と言いました。「そのほうがいい」と本人も言うので、少しセデーションをかけました。

 次のスライドに移ります。そうこうするうちに、大学から詳しい内容の紹介状が届いたので、お返事を書くことにしました。紹介状のお返事というのはあまり目にする機会がないものです。私が書いたお返事なのですが、少し紹介させていただきます。「患者様ですが、便秘で悩んでおります他は、比較的元気に過ごされております。時々アルコールを楽しまれており、特に入浴は毎日楽しみにされております。一時、息苦しさを訴えたために、在宅酸素の導入をおこないましたが、現在は、ほとんど酸素は使っておりません。今後、当院でフォローアップさせていただきたいと思いますが、何かありました際はご相談申し上げたく存じます」という、簡単なのですが、普通のお返事を書きました。

6月21日になり、食事が取れなくなってきました。家族に「中心静脈栄養という点滴があって、これをやるとあまり飢餓感もなくて、おなか空いたという感じもなく楽しく過ごせるのだよ」と言いました。楽しくということは、楽に過ごせるのではないかとお話ししました。「それはいい方法ですね。やってください」と一度は言われましたが、結局「2、3日相談してみます」というお返事でした。翌日伺ったところ「やっぱり、点滴は好きじゃないから食べてみるよ」とのお返事で、また食べていただくことにしました。

6月29日の9時10分ぐらいに、腫瘍の部分が痛いのだが、点滴も嫌だという状態でした。「夜だし、少し鎮静・鎮痛剤を点滴してお休みしたほうがいいかな」と話したのですが、「点滴は絶対嫌だ」ということで本人に拒否されました。「筋肉注射を肩に1回注射するのだったらいい?」と言ったら、「ちょっとだったら痛いの我慢するよ」と言うので、少し多めの量を、30ミリぐらいペンタジンを使い、休んでいただきました。15分ぐらいして、少し楽になったとおっしゃったので、診療所に帰りました。

7月2日、今度は転移巣の痛みが再び出てきました。よく見ると、第8、第9肋間に、肋骨に沿って、肋間神経痛にすごく似た症状がありました。ビリビリしびれるような痛みだというので、これは肋間神経ブロックをやれば効くかなと思い、10ccぐらいキシロカイン、これは神経ブロックのときに使う痛み止めのお薬です。例えば手などを切ったときに縫いますよね。そのときに使うお薬なのです。それを注射して、肋間神経に当てたところ、1、2分で効きました。1、2分で痛みが取れて、「もう全然痛くないよ。ご飯食べられるよ」と言うので、帰りました。

 その後は、モルヒネのシロップやペンタジンの筋肉注射、いろいろな痛み止めを使って落ち着いていました。7月16日になり、今度は痔の痛みが出てきました。痔は仕方がないと思いましたが、軟こうで治まればと思い、少し軟こうを使っています。肋間神経ブロックは結構有効で、7月5日の9時と、7月27日の10時、それから7月30日の夕方6時半に使いました。

7月16日になり、またご飯が食べられなくなってきて、今度はご家族から「先生、ご飯食べられないとき、あれやったら楽だっていう点滴があったよね」と言われ、診察に伺いました。脱水があるので、「では、点滴しましょうか」ということになりました。そして、点滴の準備をしているときに、本人が「点滴嫌だ」と言うので、「じゃあ、やめましょう。栄養剤があるからこれ飲んでね」と言い、栄養剤のサンプルを置いて帰ってきました。

7月23日になり、元気がなくなり、呼んでも返答しない、かなり衰弱した状態でした。本当に返答もできないくらいぐったりしていたので、中心静脈ラインという、肩からの点滴を入れました。そのときに、「点滴が入っていても、中心静脈栄養だとお風呂も入れるし、抜いてもティッシュペーパーか何かで押さえといてくれればいいよ」とか、「出血することはほとんどないから、そんなに心配しなくていいですよ」という説明もしてあります。点滴は大体1、2分で入ります。危険はあります。肺などを突いてしまうかもしれませんが、「そんなに心配ないですよ」と説明しました。口からほとんど入らない状態で、痛み止めも飲めませんので、点滴から使いましょうという話をしました。

8月4日に、夜眠れないということで、少しセデーションをかけています。14日には、不安な様子を何とか取ってほしいと言われました。本人が、かなり不安がっていたのです。「もう、これで死ぬんじゃないか」と言って、夜寝られないのです。これは本当にかわいそうでした。ご家族が「この不安を何とか取ってくれないか」と言われ、ご家族やご本人と相談しました。「少し寝ちゃってもいいかな」とお話ししたら、「うん、寝てるほうが楽だよ」と本人が言ってくれて、「セレネースってお薬があって、それを使うと眠ることが多くなってしまう。だから、お話しする時間は少なくなるけれど、それでもいいですか」とお話したところ、承諾されました。この時期から少し眠る時間が多くなってきました。

8月16日に、腫瘍部から出血があったので、処置をしています。17日に、脈が弱くなり、かなり力がなくなってきました。8月20日3時24分に、ご家族に囲まれながら息を引き取りました。

  病院から自宅に替えた理由というのは、幾つかありました。余命3ヶ月ぐらいだろうと説明を受けると、本人は「最期の3ヶ月は自宅で過ごしたいな」と思ったそうです。家族も「3ヶ月だったら見てもいいかな」と思ったと言っています。もう一つは、本人の自宅が日立市で、生まれ故郷に帰りたいということでした。そこにたまたま私の診療所があったのです。奥さんの他に、もう1人、妹さんが熱心に手伝ってくれました。あともう一つ、これが一番大事なのですが、本人と家族の関係がよくないと、なかなか在宅で過ごせません。やはり、奥さんを大事にしていたご主人の徳があったのかなと思っています。わたしの発表は以上です。ご静聴ありがとうございました。
基調講演W「在宅ケアからの報告−訪問看護師・ケアマネジャーとして関わって−」 
   櫻井栄子(居宅介護支援事業所きずな・所長)

櫻井と申します。よろしくお願いいたします。私は、訪問看護を6年、そして、ケアマネジャーとして5年やらせていただいております。その中で終末期の方々と関わらせていただき、看護師としてだけでなく、人間として大切なものを、利用者様、そしてご家族から教えていただきました。その一部をここで紹介させていただきます。

(スライド)終末期についてですが、このオレンジの部分が在宅で過ごす部分なのですが、在宅に入る前の準備期、それから亡くなったあとの死別期も含めて、ここでは終末期と考えていきたいと思います。

まず、終末期を在宅で過ごされる方々の、ここが素晴らしいというところをお話します。一つは、ご夫婦・ご家族で過ごす時間があるので、今まで生きてきた人生を一緒に振り返る時間があるということです。そして、共通していることは、自然な形で感謝の言葉を伝えているということです。介護してもらう側だけではなくて、介護する側も、相手が返答できないレベルであっても、一方的に思い出を話したり、また、私が訪問看護に行くと、介護者の方に、体を一緒にふいてもらったり、足を一緒に洗ってもらったり、背中をふくときに体を支えてもらったりしているのですが、そのようなときに思い出を話してくれて、「あのときは、こういった良い思いをさせてもらったんですよ」と感謝する方が多いです。仲がそれほど良くなかったケースでも、最初はたくさん愚痴や苦労話を並べるのですが、最期は穏やかに、気持ちを整理し、感謝して逝く人が多いです。

それから、終末期を在宅で過ごされる方の素晴らしいところは、余命を告知されているケースは、1日1日を大切に感謝しながら生きていくということです。そして、共通していることは、健康であれば気がつかなかった幸せに気がついているということです。

40歳前半の、卵巣ガンから全身に転移していた方でしたが、腹水があり、足のむくみもかなりあって、起き上がりや移動の動作が困難になり、お部屋の真ん中にソファーを置き、そこをベッド代わりにして寝起きされていました。全身倦怠感もかなり強くなり、昨日まで持っていたコップさえも持てなくなって、「もうヤクルトの容器しか持てなくなったんだよ」とおっしゃいました。「ここにこうして横になっていると、台所にいても、居間にいても、庭にいても、みんなの事が見えるでしょ。家族が居てそれぞれが別のことをやっている。健康であれば普通のことだったけど、こういう病気になると、家族がいて何かしているのがすごく幸せなことに感じるんだよ」とおっしゃいました。この方だけでなく、家族がそこにいる事が幸せとおっしゃる方がよくいらっしゃいます。健康であれば気がつかない幸せに気がついて、お話ししてくださるのを聞くと、こちらもすごく温かい気持ちになれます。

それから、在宅ケアのいいところは、「最後までその人らしい生活」と考えたときに、在宅にはその人らしさとは何なのかを探す材料がたくさんそろっている、そして、ご家族や親戚の人たちと一緒に考えられるということです。

ターミナルケアとは少し離れますが、私が初めて訪問看護を体験した時、体験したというよりも見学実習させてもらったのですが、かなり印象的でした。介護保険が始まる前だったこともあって、サービスとしては週3回の訪問看護と往診だけでした。ほぼ寝たきりで、決して暖かいとはいえないお布団に寝ていて、その隣に小さいテーブルがあって、菓子パン1個と高カロリーの飲み物とお薬が置いてありました。全く訪問者がいない曜日もありました。私は、この方をすごくかわいそうだと思いました。でも、ご本人は「やっぱり家がいい」とおっしゃいました。最初は、きっと家族に気遣って言っているのだなと思いました。周りを見渡すと、家具にはたくさんキズがついている。多分、そのキズ一つ一つに、例えばお孫さんとの思い出だったり、いろいろあるのだろうなと思いました。ですから、ポツンと1人で寝ているのではなくて、いろいろな思い出の中に横になっていらっしゃるのだろうなと思いました。そして、人の生き方を自分の価値観で決めてはいけないと思いました。

このときの印象が、私にとってはかなり強烈で、今も、ケアマネジャーとしてマネジメントさせていただくときに、本人の価値観、本人はどのようにしたいのか、今までどのようにして生きてこられたのかということを大切にしようというのが、この実習で私に植えつけられたような気がします。そのように、本人の価値観を知る材料が在宅には沢山そろっています。そして、その方に合った個別のケアを、在宅のほうが、家族を含めて徹底して行えます。

今、ケアマネジメントをさせていただいている方ですが、元々喘息があって、1月に肺炎を合併して入院されました。一時かなり危ない状況もあったのですが、1カ月後に軽快退院されました。先日、そろそろ入浴サービスをと思って訪問したのですが、そのとき、奥さんが今まで見たことがないくらいニコニコした顔でおっしゃったのです。高齢のご夫婦お2人暮らしだったのですが、介護者の奥さんが、「おじいちゃんがどうしてもビールを飲みたいって言うから、今日、先生が往診に見えたときに、ビールを飲ませてもいいかって聞いた」というのです。そうしたら、先生は「そうか、ビールを飲めるぐらい元気になったか」と、とても喜んでくれたと、ニコニコしておっしゃったのです。その笑顔というのは、例えば病院でビールを1本提供しても作れないなと思いました。1ヶ月前に、もうダメだと思ってベッドも全部返しました。そのような状況があったからこそ今の笑顔があるのだ。同じことをやっても、長年一緒に生きてきて、苦労とか楽しいこととか、一緒に経験した家族に勝るものはないのです。そのように、在宅では、家族と一緒に本人が望む介護を徹底して行えるのです。

それから、終末期を在宅で過ごされる方の素晴らしいところは、亡くなった後のことも話をしているということです。すべてのケースではありませんが、葬儀の仕方や亡くなった後の生活のことを話されて逝きます。ある方は、自分の戒名を決めたり、葬儀の挨拶を残したり、四十九日の法要の挨拶まで残して亡くなられた方もいました。そのご家族は、「亡くなった後のことを本人と話しているところに、親戚の人が来て、『本人の前で、そんな縁起でもない』と怒られたのですが、私たちにとっては、これは本当に大切なことなんだよね」とおっしゃいました。

また、亡くなって少し落ち着いたころ、焼香させてもらいに行くのですが、「本人が、家族だけの音楽葬にしてほしいという希望があったので、音楽葬にしてみましたけど、すごくよかったですよ」ということや、「本人から『白い菊の花とかは嫌だから、バラとか、そういうお花でいっぱいにして』と頼まれたから、こんな葬式にしました」と、写真を見せていただいたこともあります。このように、終末期を在宅で迎えられる方は、亡くなった後の事も話されているご家族が多いです。

それから、在宅で看取った後の、残された方々のケアも継続しやすいです。こちらの電話番号をご存じなので、電話がかかってきたり、こちらからついでのときに気になる人を訪問したり、お花が咲いたときなど、「ああ、あの人の庭にもこのお花咲いていたな」というように思い出して、ちょっとハガキを出す程度なのですが、気になる方には継続して関わることができます。

次に、「在宅で終末期のQOLをより高めて生きてもらうためには」ということでお話します。私は、訪問看護やケアマネジャーとして関わって、素晴らしい看取りをたくさん見てきました。ですから、みんなが在宅で終末期を迎えたほうがいい、在宅で過ごしましょうというのではありません。ご本人やご家族の「おうちで過ごしたい」「過ごさせてあげたい」という思いを、みんなで支えましょうということです。

在宅で終末期を過ごす条件としては、在宅ケアをご本人が望んでいること。そして、家族も望んでいることがすごく重要になってきます。本人だけが望んでも、また家族だけが望んでも、ゆくゆく不安感が強くなって、継続することが困難になっていきます。

そして、QOLを高めて生きてもらうためには、まず、終末期であることを告知してくれる先生がいるということです。終末期のQOLを考えたとき、これはとても重要になります。先生からの告知という形でなくても、ケアする過程で徐々に死が近づいていること、そして、1日1日を大切に生きてもらう関わりを分かってもらうこともあります。

それから、QOLを高めて生きてもらうには、当たり前のことですが、痛みとか苦痛の症状がコントロールされていることです。それから、いつでも往診してくれる先生がいること、緊急時にはいつでも入院できる病院があることです。在宅ケアは、介護者がいなければ成り立ちませんが、介護者がいても、終末期は肉体的にも精神的にもかなり大変になります。肉体的な大変さは訪問看護とか訪問介護等で埋められたとしても、夜目覚めたときに、息をしているだろうかと思う、ドキドキするようなストレスも、かなり大変なものです。終末期で、レスパイトで入院するケースは今までほとんどなかったのですが、いつでもショートステイが使えるのだというのは、介護者の安心感につながります。それから、いつでも連絡できて訪問してくれる訪問看護ステーションがあることです。

そして、関係者がチームで連携して関わるということが、私は一番大切だと思っています。関わる分野が、医療であったり、家事援助であったり、違うとしても、利用者さんの「こういうふうに過ごしたい」とか、ご家族の「こういうふうに過ごさせてあげたい」というのを、みんなが同じように分かっていることが実感できることです。それに加えて、ケアの方針も大切です。可能であれば、ご本人やご家族と、すべての職種で話し合って決めると、不安やモヤモヤがなくてとてもいいです。末期になると突き当たるのが、食事が食べられなくなることです。点滴をやるかどうかということになるのですが、一方的な先生の指示だけでなく、先生の考えを話してもらって、こちらからは今まで看取った方々のご様子等をお話しして、ご家族に決めてもらう。

死や生に対する考え方というのは、人それぞれ違います。でも、話し合うことで、モヤモヤがなく、みんなで同じ方向を向いてケアできます。そうでなければ、ちょっとしたトラブルや予想外に症状が悪化した場合など、訪問看護師やケアマネジャーが、1人で空回りしているのではないかという挫折感に襲われるときがあります。でも、連携してうまくいっていると、それが軽く収まって、バーンアウトすることも少なくて済みます。

それから、チーム間の情報交換ですが、電話や担当者会議等でやることも大切なのですが、「在宅ケア連携ノート」を使って行なっています。このノートに、バイタルとか、やったことだけが書かれているうちはまだダメで、訪問中に気がついた変化とか言葉、「こうしたい」に関するような言葉も書かれるようになると、みんなでやっているという実感ができて嬉しくなります。限られた訪問時間で、やるべきことを済ませるほかに、「今日はこんな変化があったよ」と書けるように関わる、そのような効果もこのノートにはあります。

在宅連携ノートと同じく、試験的にやってみてよかったのが、インターネットの掲示板を使った情報交換です。ご家族の承諾を得て、利用者様1名に対して一つの掲示板を使いました。どなたか分からないように、お名前も頭文字を使って行いました。訪問のあと、その日のうちに書き込まれるので、すぐに皆が情報を共有できるし、このようなところが気になるとか、このような状況でも何かできないかと書き込むと、それなりに注意深く見てくれたのでよかったです。ホームヘルパーさんも、携帯電話で掲示板を見てから訪問すると、不安が少なく訪問できるということでした。

在宅で終末期を迎えるのが困難だったケースですが、認知症で昼夜逆転している場合は家族の負担が大きくて難しいです。このような状況ですと、ご本人やご家族の関係も最悪の状態なので、本当は、認知症の薬の調整を含めて病院でと思うのですが、なかなか受け入れてもらえないのが現状で、家族がくたくたになりながら介護をされています。

介護者がいない場合もありました。独居で、告知されていて、最後まで自宅療養を希望されたのですが、親戚の方の不安が強く、ぎりぎりまで在宅で過ごしたのですが、結局入院となりました。症状が重くなってからの入院で、在宅ケアのスタッフと築いたような信頼関係を、病院のスタッフと築けないまま、不本意のまま、「家に帰りたい」と言いながら亡くなられてしまいました。

それから、積極的な延命治療を希望された場合です。抗ガン剤を病院で行なってIVHを入れて在宅に戻るのを、訪問看護で受けましたが、副作用がつらい中でのターミナルケアは難しかったです。往診の先生も、看護師さんも薬剤師さんも、すごく頻回に訪問してくれて、病状や抗ガン剤が効いているかどうかという数値を、ご家族と一緒に何回も何回も説明してくれました。でも、私たちが目指すターミナルケアはできないうちに、再入院して亡くなられてしまいました。ステーションから遠いと、やはりちょっとしたことで不安になってしまって、救急車で入院という形になってしまいました。

最後ですが、家で最期を迎えるために望むこと。これは私からの提案です。訪問看護の緊急時訪問の体制を整えるということです。緊急時に連絡が来ると、必要に応じて訪問看護で訪問することになるのですが、大抵のステーションは、日中普通の仕事をして、夜間は自宅待機で携帯電話で対応するという形になっています。いつ電話が来るか、いつ訪問しなくてはいけないか分からないので、常に緊張状態にいるわけです。夜勤体制で組めればいいのですが、ステーション自体が小規模なので、人的にも経営的にも今の状況ではかなり難しいです。今の状況では、緊急時の訪問は、看護師の善意に支えられている部分だと、私は思っています。ぜひ、ゆとりがある緊急体制が整えられるようにしてほしいと思っています。

(スライド)「末期がんも介護保険の適用を」ということで、ここに、末期療養にかかる費用の一部を比較してみました。大体使われるのが、訪問看護とヘルパーさんとベッドとエアマット、車イス、吸引機が多いのですが、訪問看護は末期になるとすべて医療保険での訪問になるのですが、ホームヘルパーさんなども介護保険が使えないと10倍の費用になり、かなりの金額になってしまいます。ベッドやエアマット、車イスなども10倍かかるようになり、大変になってしまうので、ぜひ末期ガンも特定疾病に加えていただいて、介護保険が使えるようになってほしいと思っています。

看取った経験がある人との交流も大事だと思います。看取った経験がある人は、看取る人の気持ちをよく理解しているので、交流ができたらいいなと思います。ボランティアの育成になると思いますが、これは本当に大切だと思っています。

  家で最期を迎えるにあたって望むことは、病院や介護老人保健施設でのショートステイをスムーズにしてほしいということです。それから、当たり前のことですが、ケアの質の向上です。訪問看護も訪問介護もケアマネジャーも、関係者全員です。福祉養護関係者も同じで、末期においては、マットレス一つをとっても、その人の苦痛を増したり、安楽にしてくれます。そのような情報を沢山持って、相談に乗ってくれて、種類も沢山そろえてくれる。そのようになってほしいと思います。以上で発表を終わります。
シンポジウム〜老人病院にリハビリテーションの風を〜
山上

では、時間になりましたので、シンポジウムを始めさせていただこうと思います。先ほどご登壇いただきました4人の先生方に、シンポジストとして前段に並んでいただきました。「終末期をどう生きるか」という題でさせていただきます。司会は、霞ヶ関南病院の理事長でいらっしゃる齊藤正身先生です。よろしくお願いいたします。

齊藤

皆さん、こんにちは。ご紹介いただきました齊藤でございます。当会の事務局長をしております。

ご承知のように、「終末期」は、「ターミナルケア」といったり、「最終章」といったり、いろいろな言い方をされます。皆さん、100%死を迎えますから、100人いれば100パターンの死があります。こうあるべきだということは言えても、なかなかそのとおりにいかなかったりして、ある意味、難しい。

先程の、講師の皆様のご発表にもありましたように、それまでどう生きるかというのが大事なことであると思います。よく「天寿を全うした」とか「悔いのない人生」とか言いますが、本人がそう言ったのを私はあまり聞いたことがありません。ただ周りの人がそう感じているわけですね。しかし、今はご本人が、どのように死にたいか、どのような最期を迎えたいかということを書き残していくということもありますが、まだすべての方がそうできるわけではありませんし、突然起こる死というのもあります。

今日、この後1時間半弱になりますが、皆さん方と討論をしていく中で、まとめ上げることができるとは、私はさらさら思っておりません。なぜならば、このテーマのシンポジウムは引き続き行われていかなければいけないことだろうと思うからです。しかし、できるだけいろいろな意見を出していただいて、皆で考える機会ができたことを明日から生かしていければ、というような気持ちで司会をしていくつもりですので、よろしくお願いします。

まず始めに、皆さん方からご質問・ご意見をいただく前に、4名のシンポジストの方々から、ご意見を伺いたいと思います。本当に、4名のお話を聞いていると、職場が人を作ったのか、人が職場を作ったのかというくらい、適材適所という印象を受けました。まだまだ言い足りないということ、これだけはもう少し言っておけばよかったということがあれば、先にお伺いしておきたいと思います。栗原さん、何かございますか。もう言いきってしまいましたか。
栗原

もうだいぶ言ったのですが。私が言いたかったのは、人のあるべき姿というのはどういうものかと思ったときに、どんどん単純化していくと、人生のうちで3分の2は起きているのだよという話になってしまうということが一つ。それから、お2人の患者さんを見ていただきましたが、1人でやったわけではない、いろいろな人たちが、ご家族もそうですが、それぞれの立場でといいますか、専門的な部分も含めて、みんなでやったのだというところを強調したかったのです。つまり、1人では何もできないし、人間は1人では生きられないということです。

ところが、非常に寂しいことに、私は長崎にもおりましたし、今は高知におりますが、町中でありながら1人でお亡くなりになるということが、まだまだ結構あります。あまりにも寂しすぎまして、そのようなことが起こらないような町に住みたいということを、私は言いたかったのです。

齊藤

ありがとうございます。では大石さん、お願いします。

大石

私は病院に勤めている者ですが、他の3人の先生のお話を聞いて、やはり在宅のほうができることが多いな、広いなと思いました。私の病院も、先ほどお話ししましたようにいろいろ取り組んでいますが、やはり在宅というのは、発見する材料が多いという感想を持ちました。

それから、これは補足ですが、私のレジュメで、今日は一般の方もいらっしゃるので、一応言葉の説明をしたほうがいいかなと思うことがあるのでお話します。「グリーフワーク」とか「グリーフケア」ということを書いていますが、「グリーフ」を日本語に訳すと「悲嘆」ということになります。漢字のとおり、悲しむ・嘆くという意味があります。感情であるとか行動という反応ですが、それを意味します。「グリーフワーク」というのが、ご遺族のお気持ちの変化や行動と行為を表します。「グリーフケア」は、提供する側が、言葉のとおりケアを提供するという意味です。

最後に、信愛病院がどこにあるかを言うのを忘れてしまいました。東京都の清瀬市にあります。以上です。

齊藤

ありがとうございます。では照沼先生、お願いします。
照沼

私も、栗原先生のお話と少し重なるところがあるのですが、実は在宅で見ていると、一番、このシンポジウムのような場所に出てきてほしい人というのは絶対に出てこないのですね。どのようなことかといいますと、在宅で寝たきりになる方は閉じこもってしまう方なのです。われわれの地域のコミュニティでアンケート調査をしたところ、65歳以上の方で、週に1日、もしくは週に1日も外出しないという方は、3割ぐらいいらっしゃいます。そのような方というのは、間違いなくこのような場所には来られないのです。

ですので、そういう方をいかに引っ張り出すかという試みを、今後われわれは続けていきたい、もしくは、そういった芽を育てていきたいなということを感じています。そのような事をうまくできるようになれば、最終的に孤独死が少なくなって、住みやすい地域になるのかなと思っています。

齊藤

ありがとうございます。では櫻井さん、お願いします。

櫻井 今日の報告は、主に2年前まで行なっていた訪問看護の中で出会った人たちはどうだったのか、どのような思いだったのかということを整理して発表させていただいたので、抽象的な話が多かったです。このような看取りといいますか、終末期を過ごしている人もいらっしゃるということを分かっていただきたいと思います。
齊藤

ありがとうございます。

そうしましたら、まず4名の中で、お互いにおのおのの発表を聞いて、ここのところはどうなのですかということや感想でも結構ですが、ございませんか。櫻井さん、お願いします。

櫻井 大石さんに質問です。私もケアマネジャーとして関わっている中で、本当に、看取った人のグリ−フケアは大切だと思っています。看取った人がお互いに集まってお話をしましょうというだけではなくて、その人たちが何か行動を起こしてくれるような関わりをしたいといつも思っています。大石さんの遺族のケアも、親和会といいますか、そのような形でやっていらっしゃるというのは聞いたのですが、もう少し行動を起こせるような関わりなどは考えてはいないのでしょうか。
大石

先ほどの、緩和ケア病棟で行なっているケア以外にということでしょうか。

櫻井 遺族ケアとしてみんなに集まってもらって、懇談のような形でやっていらっしゃるということで、場を提供して集まって話をしてもらうというだけではなく、看取った人がもう少し行動するような関わりが必要ではないかと時々思うのです。ただ集まって「お互いに慰め合いましょう」というだけではなくて、看取った人同士、気持ちがよく分かるから、もう少し行動を起こすような関わりをすればいいのではないかと思っているのですが、何もできない状態なのです。そのようなところで考えることはないですか。
大石

療養型病棟を退院されたご家族で、長期療養の中で自然発生的にといいますか、仲のいいご家族ができて、そこで退院後も連絡を取り合ったり、というお話を聞いたことはあります。そのようなサポートグループのような、ピアグループという感じのものは自然発生的にできているのだなと思うのですが、結局、私たちが現状でできている範囲というのは、先ほども言ったように、計画的にというよりは、その時その時というのが今までの限界なのです。こちらが専門的な視点で、もう少し行動化できるような関わりというのは、私も必要だとは思います。お答えになっているかどうかわかりませんが。

櫻井

ありがとうございます。

齊藤

ありがとうございます。では照沼先生、お願いします。

照沼

的外れかもしれないのですが、残された方にとって、実は死というのを完結させるということは結構大事な事なのです。死を完結した後に次の一歩を歩き出せるということは、残された方にはすごく大事だと思います。私の病院の美術スタッフが、おうちにある木とか花とか、石とか、何でもいいのですが、それを箱に入れてボックスアートにして、思い出の品と一緒に置いておきます。例えばテレビの上に置いておくと、それだけでその方の死が家族の中で完結しているときがあるのです。そうすると、家族はおじいさまの死をいったん受け入れて、次からまた新しい生活を始めていける、というのを経験して、美術スタッフもいいことをやっているなと感じたことがあります。
齊藤 ほかにどなたかございますか。栗原さん、今「死を完結」という話がありましたが、完結するべきなのかどうかと思いました。私の母は、一昨年亡くなった父のことを、いまだに死んだとは思っていないと、完結しないのだと言っています。いろいろパターンはあると思います。栗原さんは今、急性期から回復期の時期の患者様たちと関わっていらっしゃると思います。脳外科にいらっしゃったときに、脳外科から患者さんが次のリハビリのほうへ行くと、その後リハビリから在宅に帰られて最後に亡くなるということの中で、何とか命は守れた。ただ、そのあとの状況は、他のところへ行ってしまうので分からない。脳外科にいたスタッフやドクターが、リハビリをやって元気になった患者さんを見てとても感激したというお話をされていましたよね。脳外科からリハビリへ移り、在宅に帰って、その後どのような亡くなり方をしたかということまで、日本の場合、医療者側はそのような場面になかなか遭うことがないですよね。
栗原

私が、4年くらい前まで、長崎にある民間の救急病院にいた頃の話です。その病院で十何年救急をやってきましたが、年間200例ぐらいの手術があって、37ベッドある中で入院患者が年間630人という壮絶なところでした。入院中にお亡くなりになるのが年間50人ぐらいです。

私は非常に強烈な看護師さんたちと仕事をしてきました。大体年に1回は吊し上げを食っていたような。どうしてこのような忙しい状況の中で、また患者を入れるのか、いつもけんかをしていました。今思うとすさまじい看護師さんたちでした。通常、夜勤が終わって朝になると帰っていくわけですが、夜中に働いているので、大体すぐには眠れないのですね。そうすると、たまたま私に手術の予定がないと、「先生、暇だったらどこどこの在宅の患者さんを見に行こう」と誘われるのです。介護保険が始まる前の話です。看護師さんたちというのは、われわれ以上に患者さんを気にするのですね。特に重度で在宅なさっている方々には、介護保険制度とかそのようなものとは関係なく動いていました。たまたま、その病院は昔から保健師さんたちが在宅訪問をされていたのですが、それとは別個の形で行なっていたのです。

もう一つ驚いた事は、そういう看護師さんたちというのは、新聞を開くとまず死亡欄を見るというのです。どうしてあの病院に送ったのかという事を問い詰められたことがあります。他の病院に送って2週間以内に亡くなった方というのが結構いました。

そのような流れの中で、リハビリの病院に移っていただくと、当然のように看護師さんたちがついていくのです。そして、必ず、リハビリ病院に入院中の、われわれが転院をお願いした患者さんを見舞いに行って、情報を持って帰ってくるのです。

そのようなスタッフたちと仕事をしていました。病院の機能分化とか連携とかネットワークとか、そのような言葉は今なら言われますが、そういう意識下にない時代は、それがネットワークとなっていたのです。お互いに情報交換はその場でできているという格好です。

そういう中で、もう一つは、歯科の先生に入ってきていただいて、救急病院で患者さんに関わっていただいたのです。それも、歯の治療だけではなく、口から食べられるように関わっていただくのです。患者さんが転院しますね。そうすると、その歯科の先生に、転院先まで、もちろん家族の了解のもとに行っていただきます。継続的に口をきちんと診ていただく。しかも、患者さんが在宅に行かれると、歯科の先生も在宅まで行かれます。その歯科の先生は救急病院に患者さんが来られた時から、1人の患者さんを継続的に見ているのです。われわれは動かなくても、次の病院あるいは在宅でも、歯科の先生が情報を全部こちらに持ってきてくださる。それが連携のつなぎ手のような格好になって、システムができ上がったというのが、長崎の病院の一つの特徴でした。

さきほど、齊藤先生が言われたように、外科医、特に私ども脳神経外科医という世界は、救急車で運ばれてきて、脳卒中などで手足が動かない、麻痺があるという状況で、命のやり取りをする段階で手術をしますが、手術をすると、必ず家族は「成功した」「失敗した」ということを言われます。失敗するような手術はしないのです。手術をしても9分9厘命を食い止められないような患者さんというのは、やってはいけないというような教えがあります。もちろん交通事故等は別です。できるだけのことをやりますが、脳卒中などはそのような部分がありまして、今手術をしてはならないと。外科医ですから、あるいは救急をやっていますから、どのような患者さんでも手術をしたいのですが、そのような教えがありました。しかし、ご家族は、いずれにしても手術が終わるとソワソワして、あちらこちらで「成功した」「失敗した」という話題になってしまうのです。

ところが、麻痺は残ってしまいます。脳外科の手術というのは、手術をすれば麻痺が治るというものではないのです。そうすると、家族、あるいは本人も、ある意味ではまだ治っていないという現実を突きつけられるのです。しかし、それに対する手術のやり方とか、あるいは特効薬などはないのですね。極端に言いますと、その患者さんあるいは家族に対し、医者としてギブアップせざるをえないのです。「いや、麻痺は治りませんよ」とは言えない。そうすると、やはり同じ思いを理解していただける専門の病院にお願いするわけですが、実は当時、長崎にはそのような病院がほとんどなかったのです。今も十分とはいえませんが。

しかし、そのような思いを持って送り出してといいますか、他の専門病院にお願いした患者さんが、そこを退院されるときに、こうこうこのような経過で退院となりましたという手紙を持って、私どものところに挨拶に来られることがあります。すると、その患者さんが歩いておられます。もう本当に、何といいますか、病棟の中に日が射したような光景があるのです。救急病院の中というのは、みんな殺伐としています。そのような中に、「ああ、頑張ってよかったな」と、ホッとする出来事があります。しかし、患者さんは覚えていません。命のやり取りの頃の話ですから。われわれのことを覚えていないのです。リハビリの先生がとうとうと教えてくれてはいますが。救急病院に入院しているときのことは覚えていないほうが幸せなのですがね。

そういう中で、一つの病院だけでは、あるいは一つの科だけでは何ともならない構造というものがあります。ただ、救急隊は一生懸命この患者さんの命を助けたいと思って連れてきてくださる。それに対してみんなが寄ってたかって何かをするというときに、その思いをつないでいただく病院がなければ、救急車を相手にしながらでも、片方では一生懸命リハビリを一緒になってやらなければいけないということになる。それは今の医療の状況ではもう不可能になってきていますが、実はスライドでお見せした2人の患者さんは、その救急病院のすさまじい病棟で立ち上がった患者さんです。

      ですから、今の医療のようにいろいろな役割分担ができてくると、手のつなぎ方がうまくいっていれば、随分よくなってきている部分もあると思います。地域の中に役割分担を、きちんと自分たちはこれを専門でやるのだというところ、あるいは在宅を専門でやるのだというような人たちが、それぞれの地域に明確にあれば、より安心して住めるような場所になるのではないかという気がします。
齊藤 私が言いたいのは、現状では恐らく、脳外なりで手術した患者さんが、それからどのような経過をたどって最期を迎えたかという情報、あるいはどうだったという話し合いをする場がないですよね。例えばそのときの手術はこうだったが、そのあとリハビリをやってこのような人生を最期に送られたということが、もし情報としてしっかりしていて、急性期の病院に入ってきたとしたらどうなのでしょうか、ということなのです。あったほうがいい情報なのかという。
栗原

ありがたいとは思います。ここだけの話にしておいていただきたいのですが、実は、救急病院で勤務していると大変忙しいのです。過重労働は今でも変わらないと思います。皆さんの地域ごとにある、本当に頑張っている救急病院というのは、命を減らすぐらいの仕事をしているはずです。医者も看護師もそうです。日本の病院には、アメリカの6分の1ぐらいしか医者も看護師も勤務していないのです。そういった中でやると、殺伐としている状況の中で、確かにいい家族に恵まれて、温かく、いわゆる大往生まで遂げられたような話題でしたら非常にありがたい。心が豊かになります。

ただ、われわれが欲しい情報は、やはりお亡くなりになるまでの間、救急病院を出たあと、そして家の生活。このプロセスの情報というのは、入ってきたときは本当にありがたいです。どうしてかというと、結局、自分たちがどのような役割を果たしたのだろうというのが見えないのです。もちろん、幸い命が助かって、障害も残らないで、歩いて救急病院を出て行かれる患者さんからはものすごく感謝されます。けれども、ある意味、これは運命として歩いて帰れる方です。その裏には、運命として裏口からあの世に帰っていかれる方もいるのです。その真ん中の患者さんというのは、本来、非常に気になるところです。重度の障害も含めて、われわれには何ともしようがないような部分はありますね。そのような方々がどうなっていかれるかというのは本当に大事な部分です。

やっと最近になって、脳神経外科医もそのようなところをきちんとした形で表現しないと、われわれの役割というのは単発的に終わってしまうということを言いだしました。正直に言いまして、自分たちの手術成績は自分たちの病院を出る瞬間のところで終わっていました。ですから、重度の障害の人は重度の障害で終わってしまった。重度の障害の人がそのあとどのような生活をしていくかということは、さらさら考えていなかった部分がある。考える余地がなかった、ゆとりがなかった部分があります。そういった意味では、何のために治療をするかということなりますね。何のために手術をするかということを含めて、随分今は変わってきつつあります。

齊藤

どうもありがとうございました。

それでは、皆様からご質問あるいはご意見をお伺いしたいと思います。どのようなことでも結構でございます。はい、どうぞ。

発言者1

心温まるようなお話をありがとうございました。病院に勤務しているAと申します。

私の病院では、今栗原先生が言われたように、重度の方がどうなったかというのは、入院時や退院時については、報告を書面でお返しするようにしておりますが、リハビリをしておうちに帰られる方については、「急性期の病院の先生方や看護師さんに、その姿を退院したあと見せてあげてね」と言っています。そうすると、その患者様も「そうね」と明るい顔になって、「ぜひとも見せたいわ。命を助けていただいた方々にこの姿を見せたい」とおっしゃいます。

話は違うのですが、信愛病院さんの素晴らしい取り組みを聞き、少しご質問をさせていただきます。ターミナルケアの中で、リハビリスタッフの取り組み、関わり方というのは、どのようにされているのでしょうか。

大石

かなり厳しい状態の方がいらっしゃいますので、オーダーが出る数としては、今は少ないと思います。ただ、例えば骨転移がなかったり、ご本人様のご希望があって、例えばベッド上での可動域訓練だとか、あとは病室でのレクリエーション的なものだとか、そういったことは、数としては多くないですがあります。

発言者1

先ほどのお話の中で、ターミナルに入ってきたときに、療養中の事だと思うのですが、ドクターと看護師で話し合いがされて、方針を立てる機会を持たれているという発表があったと思うのですが、そこにリハビリの方は関わることがあるのでしょうか。

大石 今回の私の話は、少し分かりにくかったかもしれないのですが、本当にターミナル期の短い期間を限定したやり取りというところの話をさせていただきました。そうすると、結局、残された時間をどう過ごすかということになったときに、私が知る範囲で、あまりリハビリのスタッフがそこに関わって、一緒に、ミニ・カンファレンスなどに加わっているという話は、聞いておりません。
発言者1 期間が短いですものね。
大石 はい、そうなのです。
発言者1

どうもありがとうございました。

齊藤 ほかにございませんか。
栗原 一つよろしいですか。
齊藤 はい。栗原先生、どうぞ。
栗原

はい、皆さんに質問です。せっかく終末期というお話なのですが、ちょっとお聞きしたいのです。私はよく老人会でお話しして、その後質問するのですが、皆さん、ポックリ逝きたいと思う方、手を挙げてください。失礼しました。では逆を言います。ポックリ逝きたいとは思わない方、手を挙げてください。ありがとうございます。非常に数人です。

大体の老人会で、一番多い年代は70代です。非常に元気な老人会ですが。高知では1,500人ぐらいに私が話をしましたが、約9割以上はポックリ逝きたいと反応されました。でも、皆さん、本当にポックリ逝きたければ、絶対に救急車を呼ばないこと、あるいは山奥に1人で住むことです。現実は、よほどの山奥でない限りは、日本はポックリ逝かせるような救急医療ではありません。しかし、それでも皆さんポックリ逝きたいと言う。

私もポックリ逝きたいのです。なぜだろうと考え、議論したことがあります。やはり迷惑をかけたくない、ある意味、ああはなりたくないという。もう一つは、脳卒中で命をなくしたいか、ガンで命をなくしたいかという話があります。いかがでしょう。ガンで命をなくしたい方は手を挙げてください。では、脳卒中で命をなくしたい方は手を挙げてください。あれ、どちらも手を挙げていない方がいるのではないですか。では、ガンという方だけ手をしっかり挙げてください。あまり人数は変わらないですね。

ありがとうございます。
齊藤

老衰で死にたいのですよ、みんな。

栗原

そうですね。理想的な形ですね。老衰でポックリ?欲張りですね。もう諦めて下さい。ポックリ逝けないのですよ。救急車が来ますから。それだけ日本はお金をかけています。高規格救急車という、今ほとんどの地域を、全国を走っている非常に格好いい救急車があります。ご存じでしょうか。乗ったことがある人もいるかもしれませんが。1台4,000万円します。非常にフル装備で「PARAMEDIC」と書いてあります。それから、その中に1人は高度の医療行為ができる救急隊がいるのです。これは「救急救命士」といいます。

開き直って思ったのです。もう「ポックリ逝きたい」と言うのはやめようと。思うけれども言うまいと。つまり、障害があっても、神様が本当に呼ぶまでは必死になって生きようと。あるいは、みんなで生きられるような構造をやはり地域で作らなければというのが私の思いです。    

先ほどの、看取りをやった経験のある方々がサポートをしてという話題がありましたね。けれども、よくよく考えてみると、人の死というのはある部分は個人的であり、ある部分は家族の問題という気がします。それがもしも地域住民との問題になれば、恐らく生活が随分変わってくるのだろうと思います。「ポックリ逝きたい」と、誰も言わないのではないかという気がします。そのような社会性というのは、今すごく大事な視点で、何とかしなければいけないと思うのです。ついでの話で申し訳ございません。

齊藤 ありがとうございます。はい、どうぞ。
発言者2

初めて参加させていただきました。本当に一般の、今まで何も病院との関わりがなかった者です。私の父は81歳で、両親2人だけで住んでいます。今年のお正月に、2人が風邪を引き、心配で実家に帰りました。そうしたら、父はトイレができていない状態で、母は体があまり丈夫でなかったので、垂れ流しのようになった状態をどうしていいか分からなくて、洗濯物が山のようになった状態でお正月を迎えていました。私が行って驚いて、父に「ちょっと、これは入院したほうがいいんじゃないの」と言って、初めて病院に電話して緊急に入院したのです。

専門医の話では、神経因性膀胱炎と言われたのですが、母も私もその意味が全然分からなくて、とにかく尿がたまっていると言われ、導尿してカテーテルをしています。ですが、それをずっとしたほうがいいのか、やめたほうがいいのか、自立したほうがいいのかさっぱり分からなくて、とりあえず母にどうするか聞いたら、「私はもうおしめの世話ができないので、とても自宅では見られない」と言いました。父は家に帰りたいと言いました。先ほど櫻井先生は、在宅ケアというのは本人が望んで家族が望まないと不可能だとおっしゃいました。私のところは父と母と2人だけで、娘は2人とも遠くにいます。

そのような状態の中で、それでは施設を、ということで探したら、施設は「特別養護老人ホームはいっぱいです。いつ入所できるか分かりません」との回答でした。では有料のところはどうか、何とか払えそうだと思うところに行ったら、そこでは「導尿カテーテルをされていらっしゃる方は、入所する資格がありません」と言われました。そうすると、お金を払っても、あるいは施設を探しても、自宅でない場合はどうしていいか分からないということです。そのような率直な気持ちで、どのようにお世話になったらいいのかと思い、今日参加しました。
齊藤 勇気をふりしぼってご相談してくださっているので、照沼先生、どうでしょうか。
照沼

バルーンが入った状態で、いわゆる管が入った状態でご家庭で過ごせないかというと、それはお母さんがお体が弱いということを踏まえてですが、どちらかというと過ごしやすいのではないかと考えます。尿失禁などが多くて、洗濯物が山のようになってしまって、それを洗濯することを考えれば、バルーンが入っていてその管理をするだけのほうが、どちらかというと、お世話をするという意味ではすごく楽な状態なのです。

ただ、お父さんがバルーンの入った状態でずっとそのままでいていいのかどうかと、やはりきちんと普通の自然な形でトイレへ行きたいというご要望があるのかどうかとか、その辺りのことも踏まえますと、やはりその神経因性膀胱炎の原因をもう少し調べてもいいのかなと思います。なかなか治らない場合もあるのですが、逆に少しお薬とか、さじ加減をすることによってよくなる場合もありますので、主治医の先生とその辺りのことを少しご相談されてみたらいいのではと思います。うまく答えになっていないかもしれないですが、そのようなことです。
齊藤

櫻井さん、そういう人はいますよね。

櫻井

はい、います。今のお話を伺って、お母様が在宅で見られないというのは、やはりいろいろな情報不足で、不安感で見られないという可能性があるのではないかなと、少し思いました。まず在宅介護支援センターなどへ行くと、介護保険のサービスとかいろいろと生活についても相談に乗ってくれますので、そこで相談されて、本当に在宅で過ごせないのかどうかというのをもう1回検討してみてはどうかと思うのです。

バルーン・カテーテルが入っているだけで在宅で見られないということもないし、ショートステイとかいろいろあって、要介護度にもよりますが、半分ぐらいをおうちで、半分ぐらいを施設でというような事もあります。ショートステイも、バルーンが入っていると受け入れてくれないところもあるのですが、そこはケアマネジャーの力で、交渉してもらうと何とか大丈夫というのもありますので、やはり支援センターや介護保険課などに行って、まず相談してみてはどうかと思います。

齊藤 残りのお2人は何かありますか。
栗原 両親が遠くにいらっしゃるし、恐らく、かなり情報が得られていないですよね。支援センターがどこにあるかも分からないということですよね。分かりますか。
発言者2

一応、今までも訪問介護ステーションからサービスを受けていました。けれども、風邪を引いたため緊急に入院してしまったこともあって、病院が替わったのです。ただ、それらはみんな近くにあります。私としては、痴呆性による心因で、もうこのままトイレはダメなのだということなら、カテーテルは仕方がないと思うのですが、ホームドクターは、そこの病院がカテーテルをつけさせているのはよくないとおっしゃいました。元々のホームドクターが、それは最新医療ではバルーンか何かで、自宅ですべきだとおっしゃいました。療養中、ずっと入れっぱなしにしている病院はよくないので、転院したほうがいいのではないかと母に言ったり、いろいろな意見を言うので、私たちはさっぱり分かりません。バルーンとただの導尿カテーテルは種類が違うのかも分からなくて。

それから、私としては、痴呆性といってもどの程度の痴呆なのかも分からなくて、例えば努力すれば自分でできるようになるのなら、はずしてリハビリか何かでできるものなのか、年取った人にそのような排尿のリハビリなどしても何の効果もないのか。だめなのか。私は父があまりにも動かないから、「リハビリをすれば、元気になるし、トイレもできるようになるかもしれない」と言うと、父は「リハビリ」と聞くと拷問のように思っていて。私がメールでお医者さんに頼んだら、父にちょっと言ってくださったのです。でも結果として「リハビリは」と言ったら、父は、即「しない」と言ったと。

ですから、娘や母親が、父が回復するためにいろいろな期待を込めて言っても、本人がなかなか「もう80歳で、男の平均余命は済んだんだから、早く逝きたい」というような、そのような老人性うつ病をベーシックとして、もう10年以上早く死にたいと言っている感じもあるのです。男の人の場合、家事もしないので、仕事がなくなってしまうとただぼうっとしていて動かないのです。それで、「早く死にたい、死にたい」と言う。私としては精神的なトラブルもどうしていいか分からないし、母のトラブルもどうしていいか分からないので、そのようなときにどこへ頼んだらいいのかと思って、今日参加しました。

栗原

何か身につまされるような話ですね。実は、高知では男の自立運動をやろうと、当事者になりつつある人たちに呼びかけをせざるをえないというのです。私も、自分がそうなる恐れがあると思っていますが。一般的に言えば、救急病院でご主人が亡くなると、ご家族は、奥さんを含めて、本当にこの世もないぐらいに悲しまれるのです。けれども、3ヶ月たつと奥さんはものすごく元気になるのです。逆に、奥さんが亡くなると、男は呆けてしまうのですね。大体70歳過ぎです。これは蛇足ですが。

80歳といっても、高知の80歳は若いです。ですから、年齢ではない。ただ、本当に、目的を持っていない生活というのはどんどん落ちていきますね。肉体的にも、それから精神的にも。やはり、本当にお父様の楽しみというのは何なのだろうというのを、いろいろ考えてあげなければいけません。

それでは、誰に相談すればいいか。一般的には、まずケアマネジャーがいらっしゃるのなら、ケアマネジャーとゆっくり話をすることだと思います。それから、やはり主治医の先生がいろいろ提案してくれるのであれば、少し時間を費やして主治医の先生とゆっくり話をされたらどうでしょう。恐らくその主治医の先生というのは、その地域の病院とか施設とか、何かを網羅されていると思うのです。その辺りがわれわれにとってなかなか見えないところがあって、変なことは言えないのです、正直に言いまして。

高知市内にいらっしゃれば、「じゃあ、ちょっとうちの病院にいらっしゃいよ」と言えます。意外とバルーンが外れる方もいらっしゃいます。ですが、お父様を直接診たことがないですね。あと、住んでいる場所が違うということになると、やはり一番身近なのは、恐らく今聞いた限りでは、ご両親以外の人で出てきたのはケアマネジャーのような人と主治医の方ですよね。やはり、ゆっくり時間をかけて話をしないと通じない部分があると思います。極端に言うと、東京弁で話しても土佐弁の人とは話が通じないことがあります。恐らく生活習慣が全然違うでしょうから。貴方は、東京に長く暮らしている。ですから、その時間を少し費やさないと見えてこないのだと思うのですが。このような言い方で申し訳ありません。

齊藤

ありがとうございます。先ほどお話ししてくださったことは、実はかなり大きなことで、介護保険サービスを使っているときに医療行為が必要になると、介護保険サービスが切れてしまうのですね。ですから、その後が続かなくなる。また一から作り直さなければいけない。これを制度として何とかしようと国は動き出しました。恐らく来年の4月からの制度の中ではうまく相乗りできるような気がします。例えば、ショートステイ中に肺炎を起こしたら、それで介護のサービスはもう終わり、ということがあるのですね。それを何とかうまくいくようにしようという動きはあります。でも、今何とかしたいのですものね。

先ほど栗原先生が言われたように、主治医の先生ともう1回お話しすることがまず第一でしょうね。

そのほかに何かございますか。はい、どうぞ。
発言者3

私はF県に住んでいます。病院とはあまり近くない場所です。私は全くの素人の介護者で、介護をしたという体験からお話ししたいと思います。

私は今70歳で、去年の春、98歳と5ヶ月の母を看取りました。100歳近くまで生きて、戦後父を戦争で亡くしたりして苦労して子育てをした母ですから、私も一生懸命母の介護といいますか、母と一緒に暮らしてきたわけなのですが、その中で一番困っていたのは、年を取るにしたがって、素人の介護者がどう介護したらいいか分からないということでした。このような場所で申し上げたら失礼かと思うのですが、たまに病院に行くと、「お年ですから」という言葉を2、3回聞いたのです。母は、それがすごくショックでした。

それから、骨折をして、リハビリ等いろいろやっていただいて、介護保険で入浴サービスやリハビリに連れて行っていただく運搬のサービスをしていただき、とても助かりました。その介護保険で一番素晴らしかったのは、「おばあちゃん、おばあちゃん」という呼びかけではなく、近所の友達がみんな亡くなっていって独りぼっちになっていくときに、介護の人が「○○さん」と名前を言ってくれたことで、母が社会に蘇ったような表情になったのを今でも忘れません。

病院でも、このように素晴らしい病院や先生方がいらっしゃるということを今日初めて聞いて、本当に大感激なのですが、素人の介護をする者にとって、食べ物から体の事から精神的な事から、どうやっていいか分かりません。たまに保健士さんにお聞きしても、「こんなふうに食べさせたら」という言葉ぐらいで、本当に困ってしまいます。でも、最後は亡くなる日までリハビリに通っておりました。

そして、ある日突然亡くなってしまったのですが、亡くなる前日に病院に連れて行きましたら、夕方だったので5時間ぐらい放置されて、翌日、「もう、ダメです」と初めてお医者さんに言われて、そのままになってしまったのです。介護する者にとっては本当に長く生きてもらいたいという気持ちだったのですが、病院でそのように投げ出された事が、私はとても悲しいです。ですが、亡くなる、目を閉じるまで意識がはっきりしていて、「お花見にみんなで行ってきなさい」、それから「私の一生はね」と言って、若い頃の事から戦後の事から全部話して、眠るように亡くなりました。

今日初めて櫻井先生のお話をお聞きして、介護の方が、亡くなった遺族にその後まで目を留めていてくださるということを聞いて感激したのですが、この1年、わたしは仏壇に「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝っているのです。最近、その母に感謝して「ありがとう」と言うようになっているのですが。介護保険は契約制度ですよね。ですから、契約のあるうちはきちんと見ていただけるのですが、亡くなってしまうと切れる。先ほどの介護施設と病院との関係と同じように、とても寂しい思いがありました。そのように後のことまで考えてくださるということを、私はとても嬉しく思いましたし、このような素晴らしい老人医療がもっと日本中に広まっていってほしいと思います。

私の町の近くにも「老人病院」があります。ですが、これは私たちが見ると、「姥捨て山」といって、その病院に入ったら訪問する人もいなくて死ぬまで入れられっぱなしという、暗いイメージなのです。そうではなくて、老人病院といえば、本当に老人の専門医療をして、そして広めていただける、そのような病院であればいいなと考えております。

今日は本当に来てよかったと思います。もっと早く貴会を知りたかったです。ありがとうございました。

齊藤

どうもありがとうございました。私たちの活動はまさに、そのような病院が少なくなって、私たちのような、と言ってもまだまだ力が足りないのですが、頑張っていきたいという思いで活動をしています。

今のお話はどうでしょう。どなたかございますか。会長、お願いします。

平井

ありがとうございました。当会の会長を務めさせていただいている平井です。私たちにとって、利用者の立場でいろいろ発言していただくのが非常にありがたいと思っています。それで、老人の専門医療というのは、今のお二人の方たちの話された事、まさにそれができなければ老人の専門医療とはいえないわけでして、今回、当会の会員病院を公表することにしました。今まで公表しなかった理由というのは別にあるのですが。

まだ会員数が60に満たないのですが、どうしていいか分からないときはそういう病院に声をかけていただくということです。声をかけていただいて、反応が悪ければ事務局がございますし、私に直接でも結構でございます。恐らく反応がないというようなことはなく、今、お答えしているような範囲のことはお助けできるのではないかと思います。

確かに、お年だから、年を取っているのだからということで済まされるようなことではなくて、年を取っているから取っているだけの方法というのをわれわれは勉強しているつもりでございます。ですから、この公表を機に少しでも利用していただければいいと思います。

齊藤 ありがとうございました。はい、どうぞ。
発言者4

本日は貴重なご講演をありがとうございました。

私は療養型病院をやっている者です。先ほど、最初の方や2番目の方、ご家族の方が悩みを訴えられたのですが、私の町も大学病院・都立病院は山のようにありますが、介護療養型病院は私の病院一つだけです。

栗原先生の病院も先ほどおっしゃっていましたが、脳外科などで手術をされ、後遺症がありながら在宅に帰られる患者さんはいっぱいいます。その一方で、意識障害になったり、そのような急性期の病気ではなくても重度の痴呆で寝たきりになってしまった人、そのような方々で、特に東京都は、在宅に戻りたくても、見てあげる家族が遠くにいたり、独居だったりで、帰りたくても帰れない方がいっぱいいる。地域のクリニックの先生たちは、一生懸命在宅医療をやっていますが、とてもそれでは間に合わない。

そのような中で療養型の病院が出てくるのですが、一つ問題なのは、一般の皆様、患者さんの家族たちにとって、病院というとまだまだ一つの単位なのです。いわゆる急性期の病気を治していく病院と、急性期の病気の後にその患者さんたちを支えていく療養型の病院という、二つの大きな、「支えていく医療」と「攻める医療」といいますか、流れが出てくる中で、療養をどうしようと。療養型病院の取り組みといいますか、先ほどの方がおっしゃったように、療養型病院は、昔は「老人病院」といわれていたのかもしれませんが、私は、単に「姥捨て山」ではなくて、縁あって当院に入院してくれた、目の前の景色を変えられないような高齢者の方々に、ただ単に長く生きるだけではなくて、豊かに生きられるような療養環境を整えようと、毎日頑張っています。

ただ、その区別がつかないでさまよっている家族が沢山いるという現実があります。そういう中で、療養病床・療養型病院、老人の専門医療を考える会もそうですが、そのような、まさに在宅に帰れない患者さんたちの、豊かなエンド・オブ・ライフ・ケアを考える場を提供できる療養型病院をアピールして盛り立てていければ、さまよう患者さんの家族も少なくなるのかなという印象を持ちました。ありがとうございました。

齊藤

ありがとうございます。はい、どうぞ。

発言者5

よろしくお願いします。私は、2年ほど前に献体登録を主人ともども済ませました。そして、5年前に尊厳死協会に入りました。お聞きしたいのは、尊厳死協会に入り、登録カードを持っていますが、現実に、いざというときにどの程度それが活用されるのかなと思っています。櫻井先生にお聞きしたいのですが、登録をした方の終末期にお会いなったことがあるのかどうか、あるいは先生方も、登録をした方がどのように活用なさったのかご存知でしょうか。多少は知っているのですが、実際にどのように役立つのかという不安もあるので、皆さんにお答えいただければありがたいと思います。よろしくお願いします。

齊藤

どうもありがとうございます。櫻井さんから順番に行きましょうか。

櫻井

私は登録のお手伝いをしたことがありますが、実際にその場での関わりはありません。

照沼

現在まで、尊厳死協会に登録されている方を看取った経験はありません。ただ、尊厳死について、われわれのグループで勉強会を開いています。どのようなものが尊厳死なのかということですね。抽象的に言えば、その人がその人らしく最期を迎えられるということに尽きると思います。具体的に言うと、ではどの辺までがその人らしくなるのかということも、なかなかその線引きが難しいのです。先ほどシンポジウムの発表にもあったように、口から物が食べられる生活は基本だと思うのですが、1人でいても寂しいし、近くに友達が必要だとか、愛犬がいたりとか、いろいろな環境の問題もあり、すごく難しい問題を多く含んでいて、いつもその尊厳死の勉強会はまとまりがなく終わってしまいます。

ただ、少しずつプロダクツが出てきています。そのようなものが一つ一つ形になって積み重なっていけば、その人らしくという抽象的な答えに応えていく具体的なプロセスも分かってくるのかなと、最近思っています。経験不足で申し訳ないのですが。

発言者5

例えば、俗にいう「マカロニ治療」というのですか、管をたくさんつける。本人が物を言えなくなってからでも、家族がそのような治療はしてほしくないと言った場合に、スムーズにやめていただけるのかどうかということもお聞きしたいです。毎年、かなりの人数の方に管が入っていらっしゃるようなのです。

照沼

もちろん、それに関しては自然にという形で看取らせていただいている患者さんは多くいます。その場合は点滴もしないで、お口から食べられない段階で、もうご本人もこれ以上治療してほしくないという場合は、痛みや苦しみの治療はしますが、それ以上の治療はしないで看取らせていただく患者さんはいらっしゃいます。

栗原

先ほど、病院の種類がいろいろあるのだということが、皆さんのご発言にありました。例えば救急病院での経験の部分でしかないのですが、救急病院に救急車で運ばれてくるとしますね。意識がない。1人であった場合、もちろん持ち物を含めてチェックしますね。ご家族がついてこられたら、その点に関して、日頃どう言われているかというのは、ある程度お聞きする部分があります。

ただ、問題は、尊厳死協会の文面には「延命」ということが書いてありますよね。延命治療はしてくれるなと。救急車で運ばれてきているときは「救命」なのです。延命ではない。ところが、救命した結果、意識が戻らなかったということがあるのです。言っている意味はお分かりですか。何もしなければ鼻から管を入れて栄養せざるをえないというのがあって、救急病院では、今まではそれで植物状態のようにして相対していたのです。極端に言えば、老人病院のようなところにお願いしてしまった格好なのです。今までの歴史の話ですよ。

ところが、最近、私たちがいろいろと言っているのは、いったん意識が戻らなくても、先ほどスライドでお見せした1例目とか1番最後の症例のように、一生懸命やれば、ある程度戻る例があるのです。例えば第1例目の患者様は言葉が話せません。ですが、言っていることは、ある程度お分かりです。そして、家に帰られました。あの表情を見たとき、ここまでやってよかったなとわれわれも思いましたし、ご家族にも感謝していただきました。

家族の意思をきちんとしておくことは大事です。同時に、どこまでみんながきちんと、手をかけて一生懸命やるところまでやった結果の話で言うのかどうか。何もしないで植物状態というのか、一生懸命頑張って「それでも」として言うのか、この辺りがまだまだ未成熟な部分があるような気がします。一生懸命やった結果で物を言うことが、まだ少ないのです。

その辺りが恐らく、例えば家族が主張してもなかなか管を外してくれないということにもなりかねない部分なのです。それは、可能性があれば、例えば1週間2週間で管を入れて、ある意味、だんだん管が要らなくなれば延命ではないですよね。本当にそう思うのであれば、その辺りはきちんと主張しなければいけないですね。本人が難しければ、家族が主張する。それは強引にはしないと思うのです。ただ、判断が本当に難しいのです。延命なのか救命なのかどうかという部分です。

大石

私の病院の場合になりますが、指針を作成した院長がいるので、詳しくは院長が言うのがいいかもしれませんが、先ほどスライドに出てきた中で、ターミナルケア指針というのがありました。その中に、ご本人様が意思決定をする能力があれば、それが第1番目で、その次の優先順位としては「事前指定書」ということで、これは尊厳死協会のカードのようなものをお持ちだと思うのですが、それがある方であれば、次にそれが優先順位になります。療養型病棟の場合、例えばスタッフに渡してしまってカルテに張ってあることもありますし、引き出しの中に入れておいて、病棟スタッフはそれを分かっているので、何かあったときに、本人の意思として判断していることはあると思います。

それをいつ提示しているかというと、入院時は療養生活を過ごすために来てるので、あまり切迫したことはなくて、カードがありますとか、持っていますという話は出ないのですが、やはり病状が悪化して先生からお話があったときに、実はこうなのですということでカードを出されているということを病棟から聞いたことがあります。
発言者6

信愛病院で院長をしております。

まず、尊厳死協会に入会する方が10万人を超えたというのが去年でしたね。私の患者さんでも、尊厳死協会に入っている方が何人もいらっしゃいます。問題が幾つかあるので、分かりやすくお話ししておきます。尊厳死を認める医者と認めない医者がいます。尊厳死についていろいろ、栗原先生も照沼先生もおっしゃいましたが、基本的に尊厳死を認めていない医者が沢山います。ですから、先ほどのご質問の方は、ご自分のかかりつけの先生が尊厳死をまず認めてくれる医者なのかどうかを確認してください。できれば、かかりつけの開業の先生と病院の先生と、2カ所あれば非常に理想的です。どちらも尊厳死を認めてくれている先生であれば、そのカードを見ただけですぐ判断してくれます。

もう一つ問題なのは、ご本人が尊厳死協会に入っていても、ご家族が認めてくれない場合があります。先ほど栗原先生からもお話がありましたが、救急車で運ばれてきて意識がない状態のときに、私の患者さんはカルテに尊厳死の宣言書が張ってあります。延命治療をしないでくれと書いてありますよね。これは治療しても助からないだろうと思った場合は、何もせずに入院して、点滴もしません。遠くから家族が駆けつけて「何もしてないのか」とおっしゃることがあります。そして、「何かしてくれ」と、トラブルになることがあります。そこで押し問答になって、このようなことがありました。「患者さんはこういう書面にサインをしてるので、私たちはもう何もしません」と言ったとき、「ここは病院だろう。何もしないというのは何事だ」と言われ、仕方なく点滴をしたことがあります。残念ながら、その患者さんはとても重い状態だったので、数日でお亡くなりになったのですが。

ですから、ご自分で宣言書を持っているのもいいのですが、必ずご家族の了解を取っておかれることです。そして、もうご存じだと思いますが、宣言書の1部は自分の信頼できる先生に渡す、1部はご自分が常に肌身離さず持ち歩いて、どこで何があってもそれがすぐ使えるようにしておくこと、それが大事ではないでしょうか。

齊藤

ありがとうございます。

発言者5

いろいろとありがとうございました。私の場合、息子、娘、もちろん主人も承知しており、常に持ち歩いております。入院した場合には、すぐ提出するようにしたいと思っています。ありがとうございました。

齊藤

ありがとうございました。尊厳死協会の幹部の方とお話をしたこともあります。その先生がおっしゃっていましたが、その協会自身、まだまだ過渡期なのです。それから、尊厳死というものをどうとらえるかというのが非常に難しいので、今、桑名先生が言われたように、実は家族の意思というのがすごく重要となります。あとは、栗原先生が言われた「延命」と「救命」の違いということですね。それが判断できるかという。それだけのデータをどれだけ私たちも出せるかということも、勉強しなければいけないことだと思います。 

さて、お時間がなくなってきました。そろそろまとめなければいけない時間なのですが、4名の方、何かもう一つ、これだけはというのがありますか。私はすごく気になっていたのですが、照沼先生のスライドはカルテそのままですか。
照沼

いいえ。

齊藤

そうではないのですね。先生らしいなと思っていて、もしかしたらあのようにカルテを書いていたら素敵だなと思ったのですが。「よかった」と書いてあるカルテはいいなと思います。本当は書いているのでしょう?そういう先生なのですよね。本当に、自分のペースで治療はしていないというのを非常に感じて、温かく思いました。

大石さん、何かありますか。

大石

はい。感想としては、何人かの、実際に、今悩んでいらっしゃるお話を聞いたのですが、先ほど栗原先生がおっしゃったように、情報がなくてとか、逆に、情報がありすぎてといいますか、すごく混乱する、不安な状態にあるご家族がいらっしゃるなと感じました。情報を整理するという意味で、ソーシャルワーカーがもしそこの病院にいれば、その情報を整理したり適切な部署につないでいただけると思うので、ソーシャルワーカーをぜひ利用していただければと思いました。以上です。

齊藤

ありがとうございます。

それでは、時間になりました。今日はいろいろなご意見を聞かせていただいて、とかくターミナルケアや終末期の話というと、もっと違う話にどんどん行ってしまうのですが、今日は、私が言うのも変ですが、面白かったという気がします。このシンポジウムは、やはり何回も何回も皆さんで議論を重ねながらしていくべきことなのかなと思っています。

私から一つだけ、ぜひ読んでみたらいかがですかという本、これは私にとってはバイブルで、このようなところでお話しすることではないのかもしれませんが、『モリー先生との火曜日』という本があります。モリー・シュワルツという、心理学と社会学の両方の教授をやっている方です。筋萎縮性側索硬化症という病気になられて、足の先から徐々に麻痺していって、最後に胸の呼吸をする筋肉が麻痺して亡くなるという難病があるのですが、それに罹ったのです。始めから終わりまで、頭はしっかりしていらっしゃいます。先ほどから出ているご家族の気持ちや知り合いの気持ち、私たちスタッフの気持ちというのは、まだ話ができるのですが、ご本人の気持ちが聞けないケースというのがよくあります。その本は、ご本人自身が心理学と社会学の教授ですから、非常に客観的にご自分のことを、今どのような気持ちなのか、どうしたいのか、その本を読むとわかります。

栗原先生、ごめんなさい。よく口から食べるのが大事だといいますが、その方にとっては、口から食べることが一番大事なのではなくて、コミュニケーションを取る、口音のほうですね、そちらのほうが大事だと言われている。ですから、それならもう経管栄養でいいよ、胃瘻のような管を入れてもいいよという気持ちになった。

人それぞれ違うのでしょうが、ご本人の気持ちというのはなかなか分からないものです。その本は、非常によくまとめられています。毎週火曜日に教え子が行ってお話を聞いている、その流れをずっと書いてある『モリー先生との火曜日』という、NHK出版から出ている本です。もし読んでいない方がいらっしゃったら、読んでいただくと「そうか、そう考えるのか。」というように、そのような時期になっていないからまだ実感としてはピンとこないかもしれませんが、自分がそうなったときというのを考えるにはいい本だと思います。

まとまりがないかもしれませんが、来年は3月18日に、大手町サンケイプラザでシンポジウムを行なうことになっています。よろしければまたいらしていただければと思います。近くの方にもお声をかけていただいて、もっともっと盛況になっていけばいいなと思いますので、よろしくお願いします。

今日はうまく司会を務めることができなくて、申し訳ありませんでしたが、4名の先生が、ご自分の行なっていることをそのまま報告してくださいました。大変感謝しております。どうもありがとうございました。

山上

齊藤先生、それから4人の先生方、どうもありがとうございました。おかげさまで、時間どおりに全国シンポジウムを終わらせていただくことができました。本日の会は、皆様からもご意見やご質問、ある面ではお叱りもいただきまして、非常に盛大な会となり、喜んでおります。

会長から、この会の名簿の公開のお話がありましたが、当会は、老人にふさわしい医療を高めていこうという集団です。ただ単にそう思っている人間ではありません。この会に入会するためには、入会を希望される施設を見学し、その施設がどのようなことをされているかということを見させていただいたうえで、入会を認めています。これを、何年も続けています。

全国に展開できればという形で進めているのですが、先ほど少しお話ししましたように、まだ地域によっては、会員病院がないところもございます。現在の会員病院をホームページ等で公開しておりますので、皆様、気になる病院がございましたらお問い合わせいただければと思います。ご納得いただけないことがあれば、事務局や会長におっしゃっていただければ、対応させていただきます。

また、もう12回目になりますが、「老人病院機能評価マニュアル調査」といいまして、われわれが技術等を高めていくために、毎年調査を行なっております。現在、設問が100項目ございます。自分たちが、しっかり行なえているのかどうかということをチェックし合って高めていくということを、機能評価という名前でお聞きになったことがある方が多いかと思いますが、それも続けております。恐らく、12回というのは、このようなシステムの中では長く続いているほうになると思います。今後も続けて、高めていこうと考えております。

来年は3月18日に、大手町サンケイプラザにおいて、28回目のシンポジウムを予定しております。それまでに、いろいろご質問やご意見がございましたら、会におっしゃっていただければと思います。

本日は、お集まりいただきまして、誠にありがとうございました。

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老人の専門医療を考える会 JAPAN ASSOCIATION FOR IMPROVING GERIATRIC MEDICINE