老人の専門医療を考える会 - 全国シンポジウム - 内容
第26回 『痴呆高齢者とどう関わるか』
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8.基調講演X

司会 齊藤正身
それでは、病院関係者からの報告が続いたところで、最後に、これは介護者の立場ということで、「老人医療を利用する立場から介護者としての発言」というテーマで、NPO法人たすけあいの会ふきのとうの木島美津子さんからお話をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。



基調講演X 老人医療を利用する立場から介護者としての発言

木島美津子

 木島と申します。非常に緊張していますので、原稿を読ませていただきたいと思います。

 父の介護を通して体験したこと・感じたことをお話ししたいと思います。  

 父は、今年の1月の末に亡くなりまして、本日は結果報告のような形になります。  

 まず、私のことですが、「たすけあいの会ふきのとう」という市民互助型の助け合いの団体で働いています。16年前、千葉県の四街道市という所で市民の間から生まれました。当時は、措置でしか福祉サービスを利用することができませんでしたので、その公共のサービスから漏れた方たちのために、枠を外して、だれでもが利用できるようにと設立された会です。お互いに対等。利用者もわたしたちも対等であるために、有料としたボランティアの活動で、活動はかなり多岐にわたっております。私は、介護保険開設と同時にサービス提供責任者をさせていただいております。  

 そして、父のことなのですが、父は、千葉市に50年間住んでいました。器用な人で、定年退職後は、好きな植木いじりやペンキ塗りなど、様々なことを自分の趣味を超えた範囲でやっており、近所の方を手伝ったりもしていました。昔かたぎの実直な頑固者で、仕事に対して自信を持っていたので、丁寧でしたが、人の意見は聞きませんでした。人間的にはとても優しくて明るい人でした。  

 83歳の時、そのような仕事をしている時に、はしごを踏みはずして、アキレス腱を切ってしまいました。それで入院したのですが、この時に、リハビリを受けている所から病室に帰る道が分からなくなったり、夜、トイレに行ったまま部屋に戻れないというようなことがありました。  

 それ以前にも、少しそのような症状は出ていたのですが、今度は、父が入院していた最中に、母も転倒して骨折をしまして、一緒に入院をしました。母には腰痛がありました。  

 退院してきた時、父の痴呆が少し進み、日常生活に多少支障を来してきました。母の介護力にも問題があったので、介護保険の申請をして、すぐデイサービスを週2回利用するようになりました。訪問介護で人が入るのを嫌いましたので、私が散歩と入浴で、週に2回ぐらい父の面倒を見ることになりました。  

 そのような状態を1年近く続けていたのですが、2002年の1月、腰痛持ちの母の介護力に限界がきました。本当に突然、父が私の家に来ることになりました。父にとって、いかに娘の家と言えども、慣れない所での生活は大変だったと思います。  

 うちに来ただけでもかなりの負担だろう、父の生活リズムを壊さず、できるだけ実家にいた時と変わらない生活をしてもらおうと思いました。私が、かなり忙しい仕事を持っていたので、父の生活とのすり合せが大変でした。それで、実家と同じく、デイサービスの週2回の利用と、訪問介護をお願いして、デイサービスの送迎や散歩などをしてもらいました。そして、ショートステイも利用しました。一緒に暮らしていく中で、お互いにそれぞれの生活を少しずつゆずって見つけたのがこの方法でした。  

 その中で一番苦労したのは、私は時間のきちんとした生活をしていなかったので、一日の食事を、父が決まった時間に食べるということが大変でした。それと排便。とてもひどい便秘だったので、排便のコントロールも、結構悩みの種でした。最初は父に合わせているつもりだったのですが、いつのまにか私の生活のペースになってしまい、いろいろな事にとまどっていたようでした。そのようなことが、父にどういう影響をもたらすのか、いつも悩みながら行っていました。  

 その中でもう一つ大変だったのが、通院でした。50年間住んでなじんでいた場所でしたので、病院を替えたくなかったのです。父も、そこの病院にとても慣れていたものですから。その病院でなんとかやっていました。けれども、月に3回ぐらいの通院になると、大学病院なので、2時間から3時間待つのが普通ということで、父の体力にかなり負担がかかってきました。いずれは病院を替えなければならないかなと思っていました。  

 通院中に感じていたことがあります。全部の先生ではありませんが、患者である父が目の前にいるわけですね。それなのに、病気の説明をする時、病状を本人には聞かないで、本人を通り越して介護者である私に聞きます。その時に父の顔を見たら、気が弱かった人なので、困ったような、何とも言えない顔をしていたのが、とても悲しく思い出されます。お医者さんは、痴呆と思わず、年寄りと思わず、説明をしてほしいなと、その時すごく思いました。  

 2002年の10月、私が仕事で帰りが遅くなった時、父がベッドから落ちていて、出血していたので、救急車を呼びました。胃潰瘍でした。入院したのですが、どうしたことか、大きな声で歌を歌うのです。今までそのようなことはなかったのに、とにかく一晩中歌って、おかしいやら大変やら、本当に困ってしまって。次の日、看護師さんもとても困っているのが分かったので、「もし、この検査をするのが、通院でできるのであれば、そのようにしていただきたいのですが」と相談したところ、OKがでまして、一晩で退院してきました。その時に、「ああ、もうこの状態だと入院がきつくなるな」という感じがしました。     

 事実、それからはもうずっと歌っているのです。電話の声も聞こえないくらい歌っていました。話し言葉すら歌に替えてしまう。これはとても楽しかったのですが、入院はできない、という思いでいました。  

 2003年頃より、たまに発熱がありました。その原因が分からなくて。千葉の病院に行っていると、待つのが大変なので、近くの医院にかかりました。   

 ホームドクターのような存在の病院も、予約があったり、遠かったので、近くで日頃まめに行くというわけにはいきませんでした。  

 それで、近くのホームドクターを考えるようになりました。そこで相談をしたら診てくださるということと、介護保険の更新も、いずれはその先生にしていただくということでお話をしてきました。病院でも、本人の負担のないようにということで、紹介状をもらうこともでき、手はずを整えました。  

 アキレス腱を切った頃から、非常に皮膚をかゆがって、それがひどくて。病院には皮膚科がなく、開業医にずっとかかっていました。お薬をもらっていたのですが、一向に良くなりませんでした。

 2003年頃から、本当にかゆみがひどくなってきました。足の間に、うずらの卵ぐらいの水泡ができていました。皮膚科に行くと、水疱を破いて治療してくれるのですが、薬は変わりません。あまりにもひどくなってきて、皮膚科を替えました。そこで、強いステロイドを使いすぎたことによる副作用だと言われ、治療法が全く変わりました。    

 それ以後、体中に水泡ができ、父はかゆみと痛みに苦しみ、私は朝晩1〜2時間かかる包帯の取り替え、山のような洗濯物、通院で、日常生活が壊れてきました。そのころと大体並行して、元々むせやすい人だったのですが、嚥下が大分悪くなってきました。熱が出たり、いろいろな症状が5月頃から徐々に出て、体の機能が落ちてきました。姉が宇都宮にいるので、1か月のうち2週間、もしくは3週間、手伝いに来てもらうようになりました。  

 父の状態も少しずつ落ちているというのが分かりましたので、熱を出した時に、先生の所に行って、これからの事をお願いしました。また、私は父を引き取った時から、父を家で死なせてあげたい、病院ではなく家で最期を見たいとずっと思っていました。そのこともドクターにお話しして、了承してくださいました。その時も、皮膚の状態が非常に悪化していたので、父の病状をどうして取り除いてやるかという、本当に暗たんたる思いでいました。  

 日々の介護生活は、父の明るさで、大変は大変でも楽しかったという状態だったのですが、このような状態がずっと続いて、9月ですね。急にものが食べられなくなったのです。口当たりの良いものをあげると少し食べるので、栄養状態はそれほど落ちていないと思いながら、私は皮膚の手当ての方に気持ちがいっていました。1週間ぐらいして、やはり食べる量が減っているということで、先生に相談しました。その時に、「在宅でこのまま見るか、入院するか、家族が決めてください」と言われました。その時、私は頭が真っ白になってしまって、もうそのような状態まできているのか。まだ元気なのにと、入院は保留にしてきました。私としてみれば、点滴で少し水分補給というぐらいの気持ちで行ったのです。連休の前で点滴もやってもらうことが時間的に難しいということで、「連休明けに行きますからね」というドクターの言葉を頼りに、家に帰ってきました。それでその時に、エンシュアで栄養を取ってみましょうということで、エンシュアを飲んだのです。とても喜んで、「大丈夫だね」と言いながら。  

 9月15日、水分補給が水だとむせるので、氷を少し口に入れたのですが、むせてしまい、いつもと非常に違う状態だったので救急車を呼び、以前かかっていた病院に入院しました。入院した翌日、先生に「呼吸不全で非常に重篤な状態だ」と言われました。そして、その時に関わった先生、各担当の先生方にいろいろ丁寧な説明を受けました。しかし、「危険なときには管を入れますが」という説明で、私達家族は、ピンと来なかったのです。それはどのようなことか、管を入れるのはとても痛いことなのか、苦しいことなのかと伺ったところ、とても痛くて麻酔でなければ入れられないということ、管を入れて、もしそれが駄目になったら人工呼吸器になると言われました。父の、そのような怖い思いはしたくないという話は、前々から聞いていました。父は注射一つでも嫌いな人でした。そのような人に苦しい思いをさせたくないと思い、「そんなに苦しいものだったらしてほしくない」と言いました。そうしたら、「心臓マッサージもやらなくていいのですか」と言われて、びっくりしました。「えっ!」と思いましたが、思わず「はい」と答えてしまいました。しかし、わたしたちは無知だったので、そのような時でも、心臓マッサージも了解を得ないとやらないのかと驚きました。  

 そして、入院3日目ぐらいに、危険は脱していないが容体が安定したということで、看護師さんから「今日は、まだ熱が下がらないけどシャワー浴をしました」という言葉に本当にびっくりして、傷も本当に丁寧に処置されているので、とても嬉しくなったのを覚えています。  

 人工呼吸器の話の時、私はとても苦しい思いでした。管を入れないでくださいと言った時に、父の命を決めてしまったと自分の中で思ったのです。本人が、今、苦しい状態でいる時に、私がそのようなことを決めていいのか。もしかしたらこのまま、父を殺してしまうかもしれないという思いでした。ICUに入っていたのですが、父の命を決めてしまったのではないかという思いをずっと持っていました。  

 IVHをつけているのを見て、食事するのはもう無理なのかなと涙が出てきたら、師長さんが、「大丈夫。嚥下の訓練をしてからおうちに帰しますよ」とおっしゃったので、気持ちが落ち込んでいたところを励まされ、希望を持つことができました。病状はどうあれ、そのような思いでいました。  

 10日ぐらい経つと個室に移ることができ、状態が大分落ちついてきました。今度はMRSAと緑膿菌が出てきて「かなり難しい状態です」と言われました。正比例のように、水泡はきれいになってきました。   

 3週間目、急に師長さんに、「退院してください。別の病院を探してください」と言われました。「病院はこちらで探してあげます」という話だったのですが、どの病院を紹介されるか分からなかったので、私が2、3、どうしても入れたくない病院名を伝えて、そこには絶対入れないでほしいというお願いをしました。その時、師長さんに、「どこか心当たりの病院があったら言ってください」と言われました。  

 翌日、ソーシャルワーカーに、MRSA、IVH、カテーテルが付いている状態で転院はなかなか難しいというお話をしながら、「どこか知っている病院はありませんか」とおっしゃったことに対して、ソーシャルワーカーの役割というものに、疑問を持ちました。  

 それで、次の転院先の病院と面接をしまして、その病院で説明を受けたのですが、それはとてもありがたいものでした。6か月のリハビリ入院をして、そのあとでも療養型でいられますということで、その時の状態ではどうなるか分からなかったこともあり、その説明にとても安心しました。転院する前にIVHは取れました。転入院して10日ぐらいでカテーテルも取れ鼻腔栄養となり、MRSAも解放病棟で、それほど難しいこともなく受け入れられました。ただ、高額な医療費は、年金生活者には厳しいものがありました。  

 傷が本当にきれいになったということと、そこの病院では父はとても大事にされているなということが、看護師さんたちの対応の中で、感じることができました。病院の中で挙げている目標と、看護師さんの力量とか姿勢に大きな差があることも、毎日見ていると分かってきました。  

 ある時、リハビリで後ろを支えながら歩くことができるようになり、もう嬉しくて。病院の中は広かったので、散歩をしたり、笑顔が出るようになりました。  

 しかし、1月に急変し、呼吸不全で亡くなりました。亡くなった時は、管を一つも付けないで、体も傷つけないでということが、せめて父の怖さをなくしたかなと思いました。   

 病院の中で、父のために様々な試みを行ってくださったのは、とても嬉しい事でした。心安らぐことが多かったのですが、中には、言葉は優しいけれど、手元はものすごい早さで吸引する人、口腔ケアを無言で行う人。臆病な父はどう感じるか。驚いた顔をして、口を閉じてしまいます。家族にとって不安な事でした。痴呆の患者や能力の落ちた患者に接する時、相手の不安を感じてほしいし、人として尊重してほしいと思いました。  

 病院には感謝していました。暖かくなったら、いつか家に連れて帰ろうと思っていました。  

 仕事を通しては、お年寄が、加齢による喪失がもたらす不安は予想以上に大きい事、また、その不安の中で、医療を最後のよりどころとしている場合が多く、痴呆だからという扱いが及ぼすダメージの大きさなどを感じていました。  

 父の介護はこれで終わりましたが、また私には母の介護が待っているのかなと思っています。母を介護するとき、父の介護で体験したことがどのように生かしていけるか、今、自問自答しているところです。  

 長い時間ありがとうございました。



司会 齊藤正身
 木島さん、ありがとうございました。   本当におつらい時期に、ここまで詳しくお話をしていただいて、わたしたちの会が今後やっていかなければいけないことを示唆してくださったような気がします。肝に銘じて皆で頑張っていきます。

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