老人医療NEWS第139号
「老人の専門医療を考える」天翁の一言、三言
老人の専門医療を考える会 会長 天本宏

「病気を診ずして病人を診よ」と、東京慈恵会医科大学の学祖、高木兼寛先生は医学生に指導された。「その人を診よ」「その人の生活を診よ」「その人の背景を診よ」。疾患の治療という部分最適ではなく、病を抱えたその人の尊厳を尊重した全体最適の視点が、医療の基軸であると説いておられる。

それぞれ人には自分の居場所、住み慣れた生活の場がある。人生卒業時にはその「居場所」へのこだわりはなお一層強かろう。当然、高齢者の医療提供体制は「日常生活圏域」に基盤が置かれるべきである。これからの社会保障の基盤に、「地域包括ケアシステム構想」が普遍性の高い目標(国策)として掲げられたことは当然の帰結といえる。人口オーナス現象(労働力人口の減少・少子化・超高齢化)や認知症の急増といった超高齢社会に向け、国民・高齢者・そしてサービス提供者全てが同じ方向を向き、「モデルなき挑戦」に取り組んでいくこととなる。

医療には限界がある。また治療には弊害もあることを私は高齢者医療の実践から学んだ。「医原病」とも言われるように、薬害を始めとし、疾患の治療には適しているが、その人の全身や、ひいては生活全般に支障を来す医療もありうる。治すことを追求していくことも大切だが、治らぬ病理も多々ある。高齢者医療においてはなおさらのことである。また、癌にはホスピスケアが受け入れられつつあるも、超高齢者の老衰にはホスピスケアを戸惑う人がまだ多い。救命・延命をただただ求めていく、生存目的の医療なのか。それとも、ご本人の意志、尊厳を第一に考えていくのか。どちらを優先すべきか悩むことが多い。医療を自然科学的視点(治療)のみではなく、人文科学的視点(人間の尊厳)も含めて幅広く捉えていく時代にきている。超高齢社会は、そんな医療の基本姿勢を考える良い時期である。

患者さんが病や加齢を抱えながらも自分らしく、自在に生きていくには、どのような課題が生じ、解決していかねばならないのか。「自分の家に帰り、ポチの世話や、庭木の手入れをしなければならない」と言って退院していく方をどのようにサポートしていくのか。それは医師単独では解答し得ない。様々な方々と語り合い、共に取り組んでいくことが高齢者医療の場に求められている。

医療と介護を、急性期と慢性期を、病院と在宅とを切れ目なくつなぎ、チームで地域全体を統合していく時代がきた。みんなで共に寄り添い、「その方の価値観、意志を尊重し、自在に生きてもらう」ことを成し遂げられれば、そこには「納得した素顔、安心した、満足した旅立ち」がある。みんな、自在に生きる意志を持とう。そしてその意志を尊重していく社会を築こう!

そこには医療・介護に関わる我々自身の自己実現がある。と天翁は思う。

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生前意思のあり方と受けとめかた
信愛病院 理事長 桑名斉

人間の生き様や死にざまは、希望通りにいかないのが常である。せめて人生の最終段階のときには自分が望むようになりたいと思うが、それとてなかなか難しい。人の周りには必ず家族や友人・知人など、何らかのかかわりをもつ人たちがいる。だからこそ、生き様や死にざまがすべて個人の想い通りになることはない。

大多数の欧米人の場合には、死ねば神の許へ行けるという信仰上、たとえ別離の悲しみの中にあっても、神の祝福であるということで、あくまでも死に逝く人の意思が尊重されるし、周囲の人たちも同じ信仰によって癒される。一方、多くの日本人の場合は、明確な信仰心をもたないこととも関連してか、死は「無に帰す」とか「消滅」などと、恐怖感や喪失感が強くなってしまう。

こうした社会の中では、「生前意思」にもその影響が色濃く表れる。それは、人生の最終段階だけではなく、日常生活や病気の治療法の選択においても当人の一存では決め難く、むしろ家族や自分を取り巻く人たちの意見が優先されることが結構多い。

一つには、日本人が「自己責任」を避けたがり、「覚悟」するという気構えが薄れ、諦念は良くないことだと思うようになったことも関係している。たとえば「がん」の場合は「がんだから仕方がない」と諦めて死を覚悟する患者・家族はいるのだが、ほかの疾患の場合では、病気が治らないのは治療法が間違っているのではないかとか、病院のせい、医者のせい、はたまた医療制度のせいといった具合に他人にその責任をなすりつけたがる。個人を尊重することを言い換えれば、分相応を認めるということであり、医療やケアの機会公平性、平等性はあっても、結果の公平性、平等性を求めることではないことを知らなければならない。さまざまな情報にもとづいて、データを重視するのか、自分の想い・ナラティブを優先するのか、他人の意見に従うのか、家族や親しい人に従うかは個人の自由だし、生前意思とは自身の覚悟を示すものであり、ひいては家族の死に対する心構えを促すことでもあろう。「患者本位」とか「個人の尊厳」などを知識として理解していても、あるいは理解しなければならないと強いても、しょせんは外国からの輸入ものに過ぎないわけであるから、これからは日本の国民性に合った尊厳なり生前意思を確立することが肝要である。

さて、医療や介護の現場では、こうしたことが反映されて、大半はうまくいっているとしても、たとえば「遠くの親せき」のために混乱することを、おおぜいが経験してきた。したがって、いいか悪いかの問題ではなしに、生前意思といっても個人だけを尊重すればいいケースと、個人の意思が二の次にされる場合があることを理解した上で、個別に対応していくわけだが、医療やケアを受ける側としては人生の最期で不可逆的である「死」を受けいれることと、他人や家族のせいにするものでないということを理解し納得、覚悟するならば、遺族の心とて早晩、癒されるであろう。また、現場においては、個々の生前意思が分かっていれば、それぞれに対応した医療やケアを追求することができるが、結局、お互いの良好なコミュニケーションこそが最良のツールといえる。

以上のことを踏まえて、老人の専門医療を考える会において「生前意思」の表現の仕方についてこれまでに会員病院と共に検討、議論したものを整理して近々、公表する。

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在宅入院
橋本病院 理事長 橋本康子

リハビリテーション医療に取り組んで十六年になる。回復期リハビリテーション病棟の歴史とほぼ同じである。回復期リハビリテーション病院を運営していて感じること、気が付いたこと、やりたいことを書きたい。

当院では少し前から「在宅入院」という考え方の訪問リハをモデルケースとして行っている。

「在宅入院」とは、入院している場合とほぼ同等量のリハビリテーション医療が自宅で受けることができるというシステムである。(あくまで私見であり妄想の具現化である)「在宅入院」の良いところ、方法、結果を列挙したい。
【良いところ】
―患者の自宅での生活が見える。⇒病院では若いスタッフにはなかなか患者の生活がイメージできない。
―実際のADL・IADLに接することができる。⇒病院内でのシミュレーションや、一、二回の自宅訪問ではわからない。
―原点回帰⇒昔の往診のイメージ。病人が動くのではなく元気なスタッフが動く。
―本当の意味での地域医療に近づける。
―独居や日中独居でも、自宅、地域で生活できる可能性が増える。
【方法】
―なるべく早期に(一、二か月間)回復期リハ病棟で、医療行為を減らし(チューブ類や点滴など)、障害の診断と評価、予後予測を行い、病院内で行うリハ計画と在宅でのリハ計画をたてる。その後在宅入院へ移行する。
―毎日、理学療法士・作業療法士・必要ならば言語聴覚士が各一、二時間訪問リハを行う。介護福祉士は毎日、必要ならば複数回訪問介護を行う。看護師、医師は必要に応じて訪問する。
・週一、二回ではなく入院している場合とほぼ同じ頻度や質のリハを提供する。
・楽しい生活が夢であるため、介護士の活躍が期待される。
―一定期間後は訪問頻度を減らし、介護保険サービスやその他社会資源(趣味の会や運動クラブなど)へ移行していくが、活動性が低下してくると必要に応じて再度介入する。
・リハビリテーションに量(単位数など)や期間を設けることはナンセンスではないか。
―定期的に患者、家族、地域関係者(ケアマネジャーなど)とカンファレンスを行う。
―病院から三〇分以内で訪問できる地域で行う。
・中学校区に一つ在宅入院システムが可能な病院ができればいいのでは?
【結果】
―入院リハよりも短期間に実質的な効果が期待できる・患者や家族の生活や思いに必要な目標設定ができる。
―高齢者の一人暮らしや日中独居でも生活できる・患者が生活するために地域になにが必要かわかる。
―医療従事者と地域との関係が密になる可能性がある。
―医療費の削減につながる。
―病床や施設数の減少につながる。

現在の訪問リハは廃用症候群的な患者には有効であるが、発症後数カ月以内の患者や重症患者(医療度が高い、障害が重篤)には効果を発揮できるシステムにはなっていない。「在宅入院」システムではそれらの患者でも自宅でリハ治療ができるのではないかと考えて行っている。

残念ながら、診療報酬がないので今はすべてボランティア活動である。繰り返すがこれはあくまで私見であり私の妄想、希望的観測である。

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老人病院の歴史の終焉
[アンテナ]

平成十八年の医療制度改革時に、介護保険法も改正され、介護療養型医療施設の六年後の廃止が突然決定されてしまった。同年の診療・介護の同時改定は、小泉政権末期の断末魔で、無理な強権的引き下げを決定していたこともあり、その後、医療崩壊として社会問題化した。小泉内閣は「聖域なき改革・痛みを伴う改革」を強調し、国民の多くも支持したかにみえたが、小泉首相の退陣後だれもが、痛みに耐えられなくなってしまった状態に陥った。

介護療養型医療施設廃止は、平成二十四年から六年間延期されることになり、一時十三万強の病床数であったが、現在は六万床以下となった。政府は、この廃止を再度延長しないことを決定していることから、平成三十年三月末で、十八年間の歴史を閉じることになっている。今後は、どのような施設に、どのような手順で転換するのかといったことが、検討されることとなる。

地域医療構想と病床機能報告制度の展開過程の中で、施設から地域ケアの展開と言う方向性が鮮明になり、療養病床数の抑制が政策課題として浮上した。特例許可老人病院制度が開始されたのが昭和五十八年二月一日であるが、その後、介護力強化病院、療養型病床群、療養病床として三十三年間たすきをつないできたが、この間、制度変更だけではなく、各病院の実態も変化してきた。このような歴史の重みも考えず、療養病床が不必要かのような議論を展開する人々も決して少なくない。なにしろ社会保障財政がきびしいので、療養病床を抑制すればよいという短絡的な思考がまかり通っているのである。

いまさらながら、高度急性期と急性期の病院だけあれば医療が成立するわけでもないし、海外の制度と同様にすればうまくいくといったこともありえない。どこの国でも、医療は社会や経済、教育や文化と密接不可分なものであり、日本の療養病床もそのような文脈で理解するべきである。これと同じことが地域差についてもいえる。北海道、東北、四国、九州の医療は、東京や大阪圏とはかなり差があるし、医療費にも格差がある。そもそも、病床数も医師数もバラバラで、全国の平均値に収斂させればよいなどという考えは自体成立しないのである。本気かどうかわからないが「療養病床を全国の平均値を参考に、平均値より多い病床を削減させればよい」などという学者までいるのである。

いろいろ方向や方針があっても、結局はどうにかしなくてはならない時期がくることはわかるが、自由開業医制の医療で、民間病院が八割のこの国で、社会主義的な国家強権政策を無理やり展開するのは、無理であるとしか思えない。

平成二十八年の診療報酬改定の内容が公表されたが、療養病床に対する改定はほとんどないに等しい。二十五対一の療養病床に、医療区分2と3の割合を求めることにはなったが、なんとなくどうでもよい改定であるとしか考えられない。

多分、おそらくである。二十万床程度ある医療療養病床は存続するとして、二十五対一は、平成三十年三月で終了するのであるから、今回改政では大きなことはせず、全ては平成三十年度の診療・介護報酬の同時改定で整理してしまえばよいのではないかと、頭のよい政策担当者たちは考えたのではないだろうか。

平成三十年三月末までに、介護療養型医療施設も二十五対一の療養病床も転換されるのである。その病床数は、多分、約十万床程度であろう。このことは、これまで三十三年間続いた老人病院制度の終わりであり、老人病院の「社会的入院」という、いまいましい不当な批判の終りである。つまり、老人病院の歴史の終焉なのだ。

* へんしゅう後記*
当会では数年来、終末期医療やリビングウィルに関するセミナーやシンポジウムを開催してきた。これらを通して、会員から寄せられた意見を元に当会としてのリビングウィルをまとめ、今般HP上で公開したので、適宜ご活用いただきたい。

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老人の専門医療を考える会 JAPAN ASSOCIATION FOR IMPROVING GERIATRIC MEDICINE