現場からの発言〈正論・異論〉
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老人医療NEWS第97号 |
医療について国民全体の議論を問う
「医療崩壊」と言う言葉が世間をにぎわせている。現場で日夜努力を重ねている仕事を、簡単に「崩壊」と片付けられるのは不愉快である。そもそも、本来世界に誇るべき日本の医療に満足できない事が国民の不幸の始まりだと思うのだが、国民の意識が医療や福祉に向く事は素直に喜ぼう。しかし、こうした議論の多くが私には場当たりで的外れに見えて仕方がない。
曰く「小児科や産科が不足している」、「勤務医の待遇を改善せよ」、「外国から看護師を雇おう」云々。また、「先進国と比べ日本の医師数や医療費が少ない」と言った話もよく耳にする。しかし、医療職の人数や医療費を他国と比べても何の意味も無い。国家予算に占める医療費の割合について論じるのも無意味である。なぜならば、提供するサービスの質を定めずに、それに要するコストを決めることは不可能であるからだ。その場しのぎの机上の空論が繰り返される度に、医療がゆがんで行く気がする。
例えば医師不足の問題である。どのような医療を提供するかを決めずに医師数を不足とも過剰とも言えるはずがない。医師不足を最も簡単に解決するには、現在の医師数で対応可能な範囲に医療の内容を合わせてしまえばよい。時計の針を五〇年ほど戻して、癌や脳卒中になったら寿命と受け入れるなら医師は余るかもしれない。
もちろんこれは極端な喩えである。一方、現実の日本国民は風邪で大学病院にかかり、いつでもどこでもCTやMRI検査が受けられることを当然とし、地方の中小病院にも世界最高峰の医療を要求する。医療は絶対に安全でなければならず、最近の採血器の問題に代表される正体不明の僅かなリスクも受け入れない。これだけの要求をしてコストをかけないと言うのも、同じく暴論である。
往時は経済大国を自負した日本国民が、どうして医療を論じる時だけ経済効率を無視するのか私には理解できない。誰しも日常の買い物では、求める商品の質と価格を慎重に吟味するはずだ。商品の品質とコストが相関することも皆知っている。しかし、医療に限って日本国民は、一九八〇円の食べ放題で最高級松坂牛を求める様な愚を犯す。あるいは、「一人の命は地球よりも重い」、「医は仁術だからコストを論じるべきではない」、といった甘ったれの精神論に逃避して思考を停止する。
まず必要なのは、我が国の医療のあるべき姿や国民が必要とする医療について、医療の専門家だけでなく国民全体で議論を深めることであろう。フリーアクセスで世界最高峰の医療サービスを提供する現在の日本の医療を突き進めて行くのか、北欧のように医療に一定の制限を設け福祉を充実させるのか、アメリカ式の格差を受け入れるのか、真剣に考える必要がある。もちろん、人材育成を含めたコストや、費用対効果についても正面から議論すべきである。また、あくまで財政優先で議論を進めるならば、予算を削減する結果、即ち、平均寿命や乳児死亡率、地域の医療に与える影響等についても正直に議論しなくてはいけない。
さて、私自身が患者なら、医療費抑制の結果、安い給与で雇われる低能な医師に自分の体を任せるのは遠慮します。相応の対価を支払い、良質な医療と福祉が保障された安心できる社会で生活したいと願います。皆さんはいかがでしょうか。