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老人医療NEWS第83号 |
老人の専門医療を考える会は、自主独立、自律無援のボランタリー組織として四半世紀存在している。入会には同僚審査があり、何人からも金銭的政治的支援を受けることなく、自主自律の活動を地道に続けてきた。
政治の世界では「一寸先は闇」とか「池に落ちた犬は叩け」などという嫌味な言い方がある。それでも、ここ数か月間の介護療養型医療施設の廃止と医療療養への経済的制裁については、こんな失敬な表現がピッタリだ。
長期療養に対して包括化というか定額制を導入したのは、平成二年であった。当会は、賛成した。それは、乱診乱療、薬づけ、検査づけ、付添づけの世界からの脱出であったが、その後包括化が定着すると四人部屋、六・四平方メートルというハード面を規定した療養病床へと制度は変化した。とにもかくにも四・三から六・四への改善と考えたのか、特養が八・二五、老健施設が八平方メートルの時代にである。その上、完全型ばかりか移行型ということで、六平方メートル以上であれば、四人部屋以上でもよいというものまで認めた。
だれの目にも、六・四以下と八以上は差がある。見た目が印象として全てなので「だいたい移行型なんてけしからん全廃しろ」というのが、今回改定の第一声であったように思う。ささいなことかもしれないが、このことにきちっと対応できないサービス提供側は、以後敗走するはめになる。そして、療養型は「質の向上にこの五年間努力したのか」という大合唱の前に無力であった。
どうしても書き残しておきたいのは、制度は行政が立案したのであること、制度の欠陥を実態のせいにだけするのはアンフェアなこと、そして政府は政策を主張するだけで、現場は制度政策にふりまわされ、対応するのも精一杯であったこと。ただし、質の向上に対する努力が不足していたとの批判は、当然のこととして甘んじることである。
療養病床は孤立無援となっているが、分断して統治するなどという政治用語を思い起こすと、これは終のはじまりで、次は精神病床、その次は急性期以外の一般病床などということになり、厚労省が医療のグランドデザインも示さないで、財政対策上のリストラ策におぼれる可能性がきわめて高い。
われわれは、次のように考えている。まず、療養病床は、主に面積というかハードの規定であり、何もソフトを規定したものでない。老人の専門医療は、主にソフトの技術集積であるので、今となっては療養病床が最低基準であるが、われわれの目的である最適基準とはほど遠いものである。
医療療養に導入された医療区分については、われわれは一度も賛成したこともないし、明確に反対もしてこなかった。理由はあまりにも単純で「まったく実態がわかっていないものであるから議論の対象にもならない」からだ。
さらに、長期療養の病院には、約三分の一は、老健施設で対応可能な患者がいるが、三分の一はわれわれの病院でないと難しい。残る中間は、病院ごとにバラエティーがある。
別の言葉でいえば、療養病床と老健施設あるいは特養は、一部分重なりあった正規分布の三つの山になっているということである。そして、一人ひとりの患者さんは、日内変化も週内変化も大きいということである。つまり、複雑な要因をお持ちの患者さんにいろいろな対応をしているのである。
われわれは複雑系の世界で仕事をしているが、それをわかりやすい線系の世界で議論し、不十分な決定をするのは、やめて欲しい。 (18/3)