現場からの発言〈正論・異論〉
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老人医療NEWS第82号 |
総合診療医の私は、週一回総回診を行っているが、最近とみに入院患者さんの高齢化・超高齢化に気づかされる。
ある日訪れた女性部屋では、六人ともに九十歳を超えていたことがあった。お一人は一〇二歳。お一人はなんと一〇六歳。愁訴以外に、誰もが複数の生活習慣病を抱えている。いや、自覚的な愁訴自体が少なく、入院動機も、「何となく元気がない」との他覚的判断によることも多い。病と老との境の見極めが難しい。もちろん、治癒に至る器質的疾患は往々にしてある。因みに、上記の六人の方々は、全員が程なく軽快退院されており、その喜びは、担当研修医たちの初々しい笑顔に表現されていた。しかし、真の問題はさらに深く、例えば、家庭介護の主力である御長男のお嫁さんの笑みの表情に潜む「本音」への配慮が欠かせない。
大学付属病院に代表される高度専門医療の本質は、生の改善と延長である。一方、地域医療の場合は、死に場所と死に方をも担保しなければならない。
ところで、死には二種類ある。突然死と慢性死である。前者の代表は、二〇〇一年九月十一日の世界貿易センターへのハイジャック旅客機突入による犠牲死である。一方、超高齢化社会の日本人の死は、圧倒的に後者である。ということは、死の準備の時間、人生の終末期に周囲の家族と共にする時間、いわば遺言のための時間はものすごく延びている。
しかるに、先進医療技術が、遺言の機会を奪っている光景にも遭遇する。技術の進歩は、不治を克服すると同時に、不治をごまかしもする。昭和天皇の御臨終にも、インフォームド・コンセントや遺言・辞世の句はなかった。
外来主治医になっている高齢の患者さんから、「先生、具合が悪くなった時、鼻からチューブだけは嫌ですよ。人工呼吸も嫌ですよ。そのために、こうしてかかっているみたいなものですから。先生は忙しくて、おられないことも多いから、救急にかかった時に、若い先生が勝手にいろいろしないように、教育しといてくださいよ。ちゃんとカルテにも書いておいてくださいよ」と言われることは、かなり以前からよくあった。「できるだけ御希望に沿うように頑張ってみましょう。このようにきっちり書いておきますよ」とカルテも見てもらうようにはしてきたが、このようなやり取りは、今後の「説明の医療・情報公開の医療」の展開の中で、一層増えると思われる。「人生の終末期に、うまくもなんともないものをチューブで注がれ、しかも意識のない状態なんていやだ」という死生観も、最大限に尊重されるべきである。国民一億の総経鼻胃管栄養化は、超克の対象であるべきだろう。
二年前に始まった新医師臨床研修制度の下で、初期研修医は、内科、外科、救急・麻酔科、小児科、産婦人科、精神科、地域保健という必須科目の修得に余念がない。その際に、若くて、老や死が生理的に実感しにくい研修医のフットワークと、年長医の熟成した死生観との連携が不可欠に思われる。(18/1)