こぼれ話
老人医療NEWS第76号
最近経験した二人の死から
北中城若松院長 涌波淳子

 九十六歳の女性。平成九年、痴呆症のため当法人内の老健施設入所。その後、痴呆症状の悪化、ADL低下、医療依存度の増大により痴呆療養病棟を経て特殊疾患療養病棟へ転棟。時折笑顔はあるも意思疎通は困難、ほとんど寝たきり状態となった。

 本人の生活保護費はほとんど娘の生活費に消え、入院費の滞納が目立つようになり、入院の保護者を娘から孫へ変更。その時点で「緊急時のDNARオーダー(蘇生術を行わない)」が「行う」に変更となった。個人的なつながりの中でその理由が「生活保護費の中から滞納分も払ってゆくので」と孫が言っていた事を知る。

  十二月、両側の重篤な肺炎発症。保護者である孫の意向で、「最大限の医療を行う」と方針が決まり、人工呼吸器管理となる。種々の治療を試みるも甲斐なくご家族との交流も少ないままに発症七日目に死亡。

  九十五歳男性。平成十三年、痴呆症と脳梗塞後遺症のため当院入院。意思疎通はほとんど取れず、経管栄養、全介助状態であった。原因不明の両側胸水の経過観察中に肺炎発症。今後の治療方針をご家族と相談したところ、「一ヶ月後の孫の結婚式まで何とかしてほしい」と積極的な医療を望まれた。

 それまで「できるだけ緩和的な医療を」とおっしゃっていたので「最大限の医療を行っても、そこまで持たない可能性が高いこと。最悪の場合は、結婚式当日に亡くなるという可能性もあること」を説明したが、お気持ちは変わらず、人工呼吸器管理となった。呼吸器から離脱できた時期もあったが、連日のご家族の看病の中、二十二日目に死亡された。

 意思疎通のとれない高齢者の終末期医療は本当に繊細な問題を含んでいる。何度も何度も人工呼吸を付けながら、回復される方、日々の細やかな医療とケアにより、意思疎通困難、経管栄養、頻回な喀痰吸引、全介助を必要とする状態であっても、毎日面会されるご家族の愛情の中で支え支えられて、限られた「命の時間」を生きておられる方、ご家族・病棟スタッフ・チャプレン(病院付き牧師)などの連携の中で最小限度の医療と最大限の介護を受けながら最期の時を過ごして召される方。どの方の「生」も「死」もたった一つのかけがえのない尊いものである。

  「必要かつ充分な医療」は、当院の創設以来の課題である。医療行為が、ゆきすぎれば、過剰医療と言われ、足りなければみなし末期と言われるが、この二例のケースの「延命処置」は倫理的にどうだったのだろうか。ご本人にとって、不幸だったのか。このようなケースは、死亡症例検討会のたびに「医療費の無駄づかいではないか」「倫理的に問題があるのではないか」「ご本人の望まれたであろう尊厳ある死だったか」と問題になる。しかし、誰がそれを判断できるのだろうか。確かにご家族の第一義的理由は「結婚式」であったり「経済的問題」であったりするが、そのこころの中にその高齢者に対する家族としての「愛情」がないかどうかは、誰が評価・判断できるのだろうか。別のケースにおける「どのような形であれ生きていて欲しい」と思う愛情(愛着)は、ご家族のわがままにすぎないと誰が言えるのだろうか。その判断基準はどこにあるのだろうか。

  「命」は、本人自身のための身体的・精神的な価値とご家族やその人を愛している人達のための社会的な価値、そして、神様から与えられた霊的な価値があるのではないかと私は思う。当院にも倫理委員会が発足した。今年は特に高齢者の尊厳ある「生」と「死」のために学んで行きたい。

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老人の専門医療を考える会 JAPAN ASSOCIATION FOR IMPROVING GERIATRIC MEDICINE