こぼれ話
老人医療NEWS第73号
入院の背景を考えよう
医療法人一穂会理事長 渡辺庸一

 この仕事を始めてから、二十三年が経過した。その間に、いろいろな人と出逢い、いろいろな話を耳にした。また、私自身もいろいろな体験をしてきた。その中で、本音とたてまえの間で、右往左往することもあるが、本文では、かなり本音に近いところで語ってみたい。

 高齢者の長期医療施設(一昔前は老人病院と称されていた)においては、患者自らが療養を望んで、入院という意志を固めたケースは、皆無に等しい。九十九・九%は、家族もしくは、それに近い人達の意思決定で入院となる。その意思決定をするにあたっては、さまざまな動機があると思われる。私感であるが、ほとんどの場合、家庭介護困難もしくは不能で、施設に入れたいが、医療付きの方が良いということであろう。

 さて、そこで「医療とは、何であろうか?」ここで望まれる医療は「人命は、何よりも尊い」などと、子供じみた話にはうんざりだ。ざっくばらんに書くと、長期療養型病院で働く医師のうち、この「医療へのニーズ」をきちんと理解している医師は数少ないと思われる。急性期病院においては「とにかく命を助ける」が最優先課題であってもよかろう。しかし、我々が慢性期患者に対して、同じ観点にいてよいものかどうか。

  率直に言って、医師に求められるものは「女性のアクセサリー」と言い切ったら、ひどいお叱りを受けるであろうか。入院の意思決定者である家族の求めるものは、圧倒的に医療はアクセサリーなのである。なくても良いが、あれば若干美しく見えるかもしれないし付けているという自己満足もあろう。しかし、医師のサイドは、このアクセサリー論理に、ほとんど気が付いていない。それがゆえに延命、尊厳死云々が、未だに議論の対象となっている。

 医師の世界というものは、横並びの世界であって、縦社会ではない。処方権は医師にあり、上司といえども、この処方権を変更命令できるものではない。あくまでも、医師個々が、自由決定できるのである。

 平成二年に、介護を重視した観点から老人医療は丸めの制度になった。いわゆる医療管理料の制度の根本思想は、何であったのかを思い出していただきたい。この制度の、真の哲学が理解できれば「医師はアクセサリー論」という考え方は自ずから明らかになってゆくはずである。

  私は「医師がアクセサリーに成り下がっている」と言ったことに対して、猛反発の顔が多数目に浮かぶ。おそらく彼らは、あらゆる角度から、それぞれ言葉は違っても自らの日常行動の正当化を行うであろう。

  人の頭の中を考えること、すなわち「洗脳」の能力が私にあれば、彼らの思考を「患者のQOL」に向けたい。

  自らがその患者の診療に携わることで、その患者のクオリティーがいかに改善されていくのかという立場であるならば、診療のパターンは大いに変わるはずである。そして「アクセサリー」から脱して本物の医師になるはずである。

 一言「怒鳴る」ことが許されるならば『患者のADLぐらいは頭に叩き込んでおけ』と言いたい。察するに、家族が自らの親のターミナルにあたって、どのくらいの予算が用意されているのかを見抜くべきであろう。当然のことながら、定額制といえども、入院期間が長ければ、家族予算をオーバーすることはままありえる。入院期間があまりに短ければ予算は消化しきれず、家族に欲求不満が残るであろう。

  「医は仁術」「医は算術」語り尽くされた事柄を蒸し返す気はない。

 仁と算のバランスが考えられる医師こそ、この世界では名医といえるのではないだろうか。

前号へ ×閉じる 次号へ
老人の専門医療を考える会 JAPAN ASSOCIATION FOR IMPROVING GERIATRIC MEDICINE