老人医療NEWS第46号 |
「縛らない看護」を書き終えた。わかりやすいこともあって好評のようだ。いろんな感想を聞く。医療従事者以外の人の話がおもしろい。医学部ではない後輩がポツリと言った。
「先生、これは、患者さんに親切にしろといってるんですね」
「その通りだ」と、私は笑いながら答えた。
患者さんに親切にすること。
病気や痴呆があり、困って病院を頼ってきた人たちに、専門家として親切にするということは、単なる隣人のヒューマニズムとは少し違うだろう。
痴呆のお年寄りが、車椅子から立ち上がって、転ぶから車椅子に安全ベルトをつけたり、車椅子テーブルをつけるというのは、転んで骨折することを防ぐ親切なのだという主張がかなりある。現に今、拘束されているお年寄りは、黙っていて、嫌がってはいないではないか、と主張は続く。そうではなくて、私たちは、リハビリ・看護スタッフと一緒にこう考える。痴呆老人が車椅子から立ち上がって歩こうとして転ぶことを、車椅子から立ち上がることと歩こうとして転んでしまうこと、という二つの動作から評価することにする。痴呆老人が、車椅子から、ふいに立ち上がるのは、理由があることが多い。痛かったり痒かったりトイレへ行きたがったり、そもそも車椅子は、長く座り続けるのには快適ではない。もうひとつ、歩いて転びやすいのは麻痺とか筋力低下とか膝の障害などが合併しているわけである。痴呆がなければ、普通の機能訓練の対象になるわけである。
私たちの病院では、院内グループホームケアという日常生活の再現を繰り返しながら、根気よく個別訓練をして、患者さんは転倒ゼロではないが、転倒の少ない生活を送ることができる。そういった入院生活を家族はじっとよく見て理解してくれる。そうすれば、不幸にして骨折という状況が起こっても許してもらえることが多い。
痴呆のお年寄りは、嫌がってないわけではない。あきらめているのだ。縛られて、そういうことをされてしまった自分は、もうしかたないのだ、もう生きている価値はないのだ、とあきらめてしまう。このようにして抑制死は始まる。もちろん座りきりのため、骨粗しょう症は進行しオムツの交換のときなど、骨折しやすくなる。
立ち上がる自由。
歩く能力。
転倒もできる能力。
転倒、骨折ゼロよりも抑制ゼロを私たちは選ぶ。
保健・医療・福祉と並列しつつ区別する言葉は現在では常用後となっている。その心は保健・医療・福祉を包括したシステム構築にあると考えられる。このことに対し筆者に全く異論はない。介護保険は社会保障構造改革の第一歩とされており、今後どのようになっていくのか極めて興味深いところでもある。
ところで、入院と入所、病院と施設は明確に区別されているが、ばりばりの急性期病院の現場ではこのことを問題にしていないようである。急性期病院以外は同じ様なものと考える傾向にある。この区別に積極的なのは、かつての老人病院と福祉施設である。老人病院は医療があるから安心であると言い、福祉施設はヒューマンなケアを提供していると主張するのである。どちらも正当な理由があるが、筆者は50歩100歩と思える。
介護保険施設には介護療養型医療施設、介護老人保健施設、介護老人福祉施設の3つが位置付けられているが、その区別は今までより不明瞭となってきた。医師による入院決定権、行政の措置による入所決定権が消失するからである。いずれの施設においても同様に、安全で安心して尊厳あるケアが受けられる施設へ変貌することが求められていると言えよう。3施設が1元化へと向かう経過では良質なケアを如何に提供していくかというフェアな競争が生じ、医療だ福祉だとの論争は弱化し、利用者に人気のある施設が勝ち組として存続することが期待される。施設の努力次第ということである。
問題は医療法で慢性期病床と位置付けられる可能性の高い医療保険対応の療養型病床群の行く末である。社会的入院という曖昧な言葉が登場してかなりの年月が経過するが、介護保険施設が登場したことで、医療保険対応型の療養型病床群が社会的入院を肯定するわけにはいかない。福祉施設の肩代わりをしているとの大儀がなくなるのである。しかし、利用者が積極的に在宅ケアを選択するには、現在の居宅介護サービスでは量的・質的に十分ではないと懸念される。そのために依然として社会的入院が残存することも否定できない。
筆者は近森リハビリテーション病院におけるささやかな経験から、医療保険対応の療養型病床群はリハビリテーションを主として提供する病院ではないかと考えている。さらに提言すれば、老人の専門医療を考える会の会員病院にとって重要な点は、病院として存続することではないと思う。医療・福祉の壁を乗り越え、世界に冠たる良質な高齢者ケアを絶え間なく提供することであり、病院から診療所、老人保健施設、ケアハウス、老人ホーム、老人マンション、在宅ケア提供施設等へと柔軟に変貌することもあり得るとも考える。もちろん最善の老人医療提供を継続することは言うまでもない。
介護保険施設ではなく医療保険対応の療養型病床群として機能する施設が多いと聞いているが、2000年の年頭にあたり、医療保険対応の療養型病床群を有する会員の方々には、是非ともリハビリテーションおよび在宅ケアの更なる充実に邁進されることを期待する次第である。
折りたたむ...あれほど没頭していた囲碁をほとんど打たなくなった。興味を失ったわけではないが、時間がなくなったうえ、集中力が続かなくなってしまった。勝負へのこだわりがなくなったのである。日曜日の正午より始まるNHKの囲碁トーナメントも最初の4、50手くらいまでは熱心に観ているが、次の場面は運のいいときで、対局者が、ジャラジャラと碁石を整理する場面か、次週の対局者の顔写真かである。この過程は熟睡。
10余年前、囲碁にはまったとき腕前は初段くらいだった。順調に腕が上がるものだからいい調子になってついに当時のアマ最高位6段になった。だいたい、医師の段位は甘く、シャバでは2,3段低い目でしか通用しない。医師は生来、真面目なものだから、師匠(プロ棋士)に師事する。いや、他人よりも短期間で効率的に昇段したいというスケベ心が旺盛なためと師匠が雇えるだけの小金持ちであるから、というのが本当のところだろう。囲碁の師匠は適当な時期を見計らって
「腕を上げられましたねえ」
と感心してみせ、
「もう○段は十分打てますよ」
と宣言される。自分のことを認めてくれて悪い気のする者はエリクソンの言うとおり、まずいない。
「いやまだまだ」
などと言いながら頬の筋肉を緩ませてしまう。そうして、師匠の言う○段の免状をいただくことになるのだが、○が一つ上がるごとに師匠への「内祝い」も上がる。ちなみに6段をいま、いただくときのそれは30万円が相場である。立派な和紙に達筆で超一流棋士の署名が並べられた免状をいただくと、本当に強くなったような錯覚をする。しかし、それだけが30万円の効果で、街の碁会所での成績は同じである。
ここまで書くと諸兄にはおわかりのことと思うが医師は棋士のドル箱なのである。4段の人に6段の免状を与えると棋士の収入が上がるわけだ。付け加えておくと、弁護士も同じようにひっかかる。ついで会社の社長、僧侶、教師などがひかえている。いずれもプライドでは人後に落ちないという共通点がある。
最近、高齢者のあいだで囲碁がブームになってきている。先日、昵懇の患者さんが
「私は碁が趣味でして」
と話しかけてこられ、
「腕は確かです」
と言われるものだからつい、
「どのくらいお打ちですか」
と聞くと、
「2段なんですよ。先生もお始めになりませんか。お教えしますよ」
となって、次の話が出来なくなってしまった。
賢い諸兄はおわかりの通り、(褒められて悪い気のする読者はいない)私は医師向けインフレでなく、正真正銘実力6段と主張したいのである。
囲碁と並ぶ大衆娯楽、将棋についてはコンピューターがアマ3段くらいの腕になった。 囲碁の方は、せいぜい5級止まりである。将棋の升目が9×9の81なのに比べ、囲碁の戦場である交差点の数は19×19の361あり、変化図が読み切れないのである。もっと詳しく言うと囲碁の場合、第1手目は361種類あって、次は360、あと順に減ってはゆくが、変化図はこれらの数字を全て掛け合わせたものになる。
非常に興味の深いことは、痴呆になっても将棋の腕前はさほど落ちないが、囲碁の方は、ほとんど話しにならないほど弱くなる。
折りたたむ...当会の役員を中心として過日「薬膳料理」をいただきました。メインは「朝鮮人参の天ぷら」でした。「一度は食べておくものだ」という鶴の一声で企画されたものですが、大変楽しい雰囲気でした。会話は当然「老人専門医療に関すること」ですが、介護保険制度の本格実施直前であり、療養型への対応が一段落した病院が多く「忙中閑あり」とはこのことかと思いました。「それにしても、どこの病院も職員数も、病院の建物も大きくなったな」「10年前と比べると職員は2倍以上、建物は3倍になった」「何か地域のニーズがしっかりみえるようになった」「職員が元気になって、手応えがある」などなど、なにやら自画自賛といったところです。
話はそれだけですが、介護保険制度に対する世間の不安や不満あるいは悪意に満ちた論調さえ見聞きする中で、この静粛と情熱がバランスよくミックスする当会の姿勢に参加者全員が満足したようです。
介護保険制度について、病院として可能な対応をしてきたのか、それとも老人専門医療の質の向上を目的とした当会の活動の結論が、結果として介護保険制度にフィットしたのかのどちらかでしょう。ただ、単に満足しているのでもなく、あわてるわけでもなく、静かに前進することにも大きな意味があることを当会は学習したのではないでしょうか。
自らの意見を主張したり、あるいは決断したりするという行為は、この国では多くの場合リスクを伴うことのようです。明確な主張、果敢な決断は、事業を進めるための原動力ですが、意見を明確にせず、なかなか決断しない方が何か平安な気分になれます。また、自己主張と決断は、結果として敵を作ることになることさえあります。それゆえ、主張と決断にリスクがあるように考えるのでしょうか。
しかし、病院を経営するとか、何らかの非営利組織を運営するためには、主張と決断が不可欠です。これなくしては、何をどのように進めるかが不透明になり、結局は、世間に漂う浮草のようなものになってしまうでしょう。当会の活動が世間に認められてかどうかは、未だわかりませんが、当会の活動が、これまでの当会の主張と決断の結果であったことは事実です。
わが国では、世紀末の不安と不満が渦巻いているように思えてなりませんが、不安や不満は主張が明確でなく、決断ができていないことが原因である場合もあると思います。当会は、老人専門医療を進める人々の主張を集約し、民主的に合意を形成し、社会に多くの主張をしてきました。それは、当会参加者の一人一人の意見と決断によってのみ成就したと考えています。
私たちは、一人一人が、そして各病院ごとに、老人医療に対する思いを自己主張し、決断してきました。このことを改めて主張しておきたいと考えています。その主張は、病院を見学していただいた人々が感じ取っていただけるものと考えています。
内容のないことを、くどくどと書きましたが、いくら高邁な主張をしても、実践が伴わないのでは、誰も主張を聴いてくれません。今後とも、このような姿勢で、当会は活動を進めていきたいと考えていますし、もっと多くの病院に、自己主張と決断をお願いしたいとも思います。
仮に意見がまとまらない時があったのであれば、患者様やご家族あるいは職員や地域の皆様の意見を大切にするべきであると思います。そして、どうしても決断できない時には、薬膳料理をいただくのがよいのかもしれません。新世紀に向かって、当会は益々明確な主張と果敢な決断をして参りたいと考えておりますので、ご期待下さい。
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