老人医療NEWS第45号 |
高齢者の医療はその特性に合った治療と、各職種の持ち味を生かしたチームケアが実践され成果をあげている。こう断言できるのは老人の専門医療を考える会に入会し、多くの先生方、職員とふれあい、現場を見てきたからである。この会のありがたさをひしひしと感じている。
老人病院には各病院で特色がありそれぞれの考えで医療・ケアが行われており、いろいろのタイプがある。老人ホームや、老健施設にない多様性を持っている。
今、ケアプランでいろいろの方式について話されているが、私は方法などどうでもよいと思っている。一つの団体で一つの方式を推奨するなどもっての他と思っている。その人にあったケアプランができて、実行されればよいのである。特に病院では、その病院のいろいろの特性があり、それが持ち味となっている。
ナイチンゲールは患者さんに三重の関心を注ぐといっている。第一は、患者さんの状態を判断する。第二は感性を働かせて、その人の立場を想像する。第三は自分の持てる力を工夫して、実践的な行動をすることである。この第二が一番難しく、いきづまってしまうことが多い。ケアプランもまさにその通りで感性をどう持っているかが最大のポイントである。
子供は豊かな感性を持っている。これが学校教育や社会の状況で、この大切な感性が埋もれ、マニュアル化された人間になりつつある。医療・看護・介護はこの豊かな感性をいかに持っているかが一番大切だと思う。私達はこの感性でその人のニーズを見つけ知識や経験で予想をして仕事している。成功するかどうかはカケである。カケに勝つために私達は努力をしているのである。
食事のこともだんだんマニュアル化されてきている。夕方6時の食事、カロリー、アルブミンの値等、計算された食事、これが本当にその人にあった最高のサービスなのだろうか。自分の食べたい物を食べたい時に食べるのもよいのではないか。日曜日の食事は2回でもよいのではないかとも考える。
私は夕食6時に疑問を持っている。少ないスタッフで夕食の見守りや介助がなされている。また若年者食物消化は二時間程度であるが高齢者はもっと時間がかかる。十分に消化されていないうちに夜9時に寝かされてしまう。本当に6時給食がよいと思っているのだろうか。ただ1日200円の加算がもらえるからという理由だけならあまり意味がない。
どうも制度に振り回されて規則どおりに行うのが一番よいと思い込んでいる。これに反して行動するとよってたかって批判されるので無難な道を歩むようになる。これでは、利用者に満足してもらえるサービスは難しくなる。医療・ケアにも自由度がもっとあってもよい。やわらかい頭で自信を持って考え、感性を大切にした多様なサービスに努めたいと思う。
折りたたむ...老人病院は今や明るく、広く、臭いのない開放型の施設へと変貌しようとしている。自院の取り組みをたどりながら考えを進めたい。
詳細〕中川 翼:老人病院のこれから、新医療、p49〜53、1999年9月号
折りたたむ...病院に長く居ると、嗅覚が鈍ってくるようである。臭いの中で仕事をしている。便臭から始まり、体臭や膿臭など不快感を催す空気が当たり前になっている。外科手術という比較的無菌的無臭的な状況の中でも、電気メスでの焦げる臭いが鼻に突きつつ淡々と手術を続けるわけである。
一昔前までは、病院というとクレゾール臭で蔽われていたが、最近はクレゾール臭はなくなっている。しかし、失禁患者が多い病棟での診察はオムツ交換後であっても不快な臭いに包まれている。「嗅」という漢字には「臭」が使われている。嗅ぐという行為は、不快感を与えている空気に対しての生体の防御機能なのだろう。
ふと床頭台にある写真に目を向けると、その患者さんの来し方が垣間見られる。その人の人生の匂いというべきものが、そこにしっかりと存在している。最近読んだ帚木蓬生氏の安楽病棟で、個人史を大切にすることを改めて知らされたが、日々の診療の中でその患者さんの匂いが大切であると想われた。そう、こういう感覚には、「余韻」という意味合いが含まれる匂いという言葉が相応しい感じがする。それぞれの人生をそれぞれに生きてきて、病院という空間で、一瞬であれ、その人と人生を共有することが出来る我々の職能性が徐々に、「慣れ」から匂いに対して鈍感になってきているような寂しさがある。強烈な臭いに慣れてきて、微妙な臭いを感じる繊細さが霞んできている。
日本医事新報(No3929 p64―66)にて小島稔豊先生が「にほひ」の文化について書いておられるが、匂いには日本人の持つ仄かさが美意識と一体となっているようだ。平安時代には、香を焚いて自分の体臭を隠していたらしい。癒しの一つとしてアロマセラピー・アロマコロジーという分野があるらしい。香り発生装置を利用した空間演出がオフィス・店舗・老人施設など幅広く活用されている。病院も徐々にアロマ感覚の空間演出が導入されてきている。臭いは叙述的な動物的イメージ、香りは叙情的などちらかというと植物的イメージ、匂いは叙情的な、とちらかというと動物的イメージ、そんな感触がある。
ある人のことを嫌う感情は相手の臭いが気になるようになり、人のことを気にし始めるとその人の匂いが気になる。恋をし始めると相手の香りが印象の中で大きな存在になっていることが多い。また、人の目を気にする場合には、香り付けをしている人が多い。何も好んで臭いを強調する人もいないだろう。病に倒れれば、尚更気になってくる筈だ。
今まで医療関係者は、臭いは病人臭として片付けていたのではないか。最近では、各病院でいろいろ工夫されるようになってきている。病棟ごとにアロマセラピーの空間演出を施すなどしてクレゾール臭からの脱皮だけでなく、快適性を追及している所もある。
当院では、臭いの対策としてではなく、治療のひとつとしてカテキン水を使用し始めて1年経過したが、臭いが無くなりつつある。手指の白癬症治療に有効な治療法であるという認識が得られている。麻痺して拘縮のある手にカテキンを使用すると、白癬症が治癒するだけでなく、異臭から仄かな茶の香りに変わってくる。ご家族からも感触され職員も働きやすくなっている。
臭いに悩まされず、匂いを感じて、香りを楽しみつつ、生活したいという気持ちは日本人であれば、共有できる感性だと思う。療養型病床におけるサービスは、この点を他の施設よりも大切にして、医学的管理を行える余裕が必要と思う。
折りたたむ...8月23日の医療保険福祉審議会老健・介護給付費合同部会に厚生省は、介護報酬の仮単価と平均利用額を提出した。これをみた老人専門医療の関係者に衝撃が走った。
まず、これまで46万1000円という暫定的な平均利用額が3万円差し引いて公表されたこと、要介護度別の「介護療養施設サービス費」の幅が1ランク39点か40点しかないことは、ショックというより、理解に苦しむ。いろいろな経緯があったとしても、いやしくも行政当局が一度公表した数字を約6.5%引き下げることに強い不満が生じる。
介護保険については「介護の手間に応じた介護報酬を設定する」と繰り返し説明され、看護職や介護職も期待していた側面もあるのに、僅か400円では納得できない。こうなると特別な医療を要介護度に組み込み、たとえ1ランクアップしても、それは1日400円ということかと疑いたくなる。おまけに、ランク別の点数差は特養や老健施設の方が高いとなると、何かこれまでの老人専門医療の実践を無視されているように思う。
厚生省は「あくまでも暫定的で、今後の審議による」としているが、考え方を示したということは、それは何らかの根拠を示したということであり、どのような考え方があったかを説明する責任がある。不満を書き続けても建設的な議論に発展しないことは十分理解しているが、要介護度別のコスト計算を示すわけでもなく「エイ・ヤア」と決められたのでは、これまでの我々の努力は、まったく評価されていないと判断せざるをえない。
しかし、逆の見方をすれば、療養型病床群の病床が予想より増加しすぎ、保険料が高くなるから、介護保険に参入する病床数を制限するために低めの報酬を公表したというのであれば、そのように説明すればよいであろう。何も老人専門医療が介護保険でなければ不可能なわけでも、介護報酬をあてにして医療を実践しているわけではない。
何しろ公表されたものは、公表されたのであるから、今後は適切な説明と慎重な審議を願いたい。特に、介護保険は、6ヶ月以上の入院患者のみに適用するのかどうかとか、要介護度別の点数設定の根拠とか、あるいは特別な医療と点数の関係などについては、十分な説明を行うべきである。
各病院は、療養型への転換に対して多額な投資を行い、介護支援専門員の教育やケアプランの充実、さらには職員増を行っていることも、広く世間に理解して欲しい。さらに3対1の介護職員配置については、「人が多いのがけしからん」などといわれているようで、これまでの質の向上に対する努力を無にしてしまう恐れもあるし、日々努力している職員が雇用に対して不安を生じるようなことを軽々に判断しないで欲しい。今後とも3対1介護を老人専門医療を実践している医療機関に認めることが必要であると思う。
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