老人医療NEWS第41号 |
98年も混迷の年明けであった。グローバルな経済危機があちこちでドミノ倒しのように連続し、あつい雲に覆われた空に展望は望めない。そんな中、昨年暮れ、介護保険法案が成立した。国会審議開始から1年、紆余曲折、難産だったがようやく産声をあげ2000年度から施行となった。年賀状にもこの事にふれるものがいくつかあったが、なにか1つ、医療人でもなく高齢者ケアにさほど関心もなさそうな遊び人の友人が、長期ビジョンのない厚生省に翻弄される高齢化対策と称して、介護保険に危惧を発していたのが目に留まった。
94年以来、少なからずこの制度創設の議論にかかわり、ケアを受ける立場・提供する立場を代弁して制度造りに発言してきたものとしても、勝負はこれから!という感を強くしている。今後検討される、厚生省令・政令・通知などが、制度の具体的運用を明示するものであるから、これらに保健・医療・福祉の現場からの発言が重要になる。要介護認定やケアマネジャー養成にも力の投入が必要だろう。審査委員や訪問調査員の訓練も課題であるが、いずれもわたしたち医療人にとっては決して新しい事象ではない。これまでの豊富な臨床経験(院内・在宅での)をいかにここで発揮するかであろう。そして、当然ながら急がれる課題はサービスの基盤整備である。保険者となる市町村と国には、予算を前倒ししても鋭意推進が期待されるが、給付サービスの当事者たるわたしたちは、今こそスキルに、理論構築に、「選ばれるために」さらに磨きをかける時間になろうか。
しかし最大の課題は何よりもマンパワーである。これからの高齢者ケアの現場が少子時代の若者に魅力ある職場としていかに吸引力を持つか。21世紀、経済動向がどのような進展をみせても、からだや心のケアを通して人間が生きるという自然現象に回帰できる素敵な仕事場として、医療・看護が存在していたいと思うのは筆者だけではないだろう。
ところで、13世紀から第1次大戦までヨーロッパを支配したハプスブルグ家、かの美貌の女帝マリア・テレジアは20年間に16人もの子をなし、戦争に明け暮れ、国を治めたという。子供は何人いても良いと各地に学校を造り、病院をつくって国造りをしていった。
ウィーンの街角のカフェで、7世紀にもわたるその重厚な文化遺産と、19世紀末に花開いた芸術と音楽にひたりながら、20世紀末、少子・高齢化のわが国の今に想いをはせた新年であった。
折りたたむ...はじめに
平成9年11月22日から10日間、シドニーの中央地区保健サービスを中心にした研修の団長として、3度目のオーストラリア研修旅行に参加した。それほど他国の現状を知っているわけではないが、なぜかオーストラリアには惹かれるものがある。時差がないこともありがたいが、とにかく日本でそのまま実践できること、考え方に共感できることが多いためかもしれない。
研修の詳細に関しては、研修レポートとして小冊子にする予定であるため、ここでは、シドニーでの実地研修とタスマニアの施設見学について報告する。
おわりに
オーストラリアの現場にじかに触れることができ、参加者各位の努力の結晶である報告書ができたことが何よりのおみやげであろうが、楽しい夕食や夜のひととき(大騒ぎ?)、タスマニアの自然、そして、フレンドリーなオーストラリアの人々、コーディネートして下さった幸子バーンズさんやITC沢田さんの気配り、すべてに感謝感激の研修旅行であった。メンバー全員、日本での再会(ミーティング?飲み会?)を誓い合っての散会となった。
折りたたむ...小さくてもキラリと光る病院に
西に鈴鹿山脈を望み、東には木曽、長良、揖斐の3大川に接する桑名は、伊勢路への始まり。古くは街道筋として、また城下町として、さらに米、木曽木材などの集散地としておおいな賑わいをみせ、桑名の豪商らが江戸で散財した様子が「桑名の殿様しぐれで茶茶づけ」と今も歌い継がれています。
当院は、その桑名がまだ戦災の傷跡のなまなましい昭和21年の春、父が耳鼻咽喉科医院として開業したのが始まりです。
その医院に桑名市民病院外科医長を昭和50年に退職、佐藤医院とし院長を受け継ぎ、肛門疾患を主に、父が入り口を私が出口をと意識をしたわけではありませんが、共に仕事をしてまいりました。
そんなある時、患者さんの一人が、桑名の中心地ともいえる今の土地を譲ってもいいと言ってくれました。まだ開業して間もなく、資金もない私でしたが、市民病院にいるときに、急性期を過ぎたお年寄りを、家族の付添いを必要とせずに受け入れてくれる病院があればと、いずれ自分がやって見たいとかねてより思っていましたので、無理を承知で譲っていただきました。
昭和55年4月、すべての入院患者さんをいっさい病院の看護婦、介護者で看るという68床の佐藤病院が誕生しました。しかし外科医のさがか、その頃すこし評判の出てきた肛門科を捨てられず、老人医療と二足のわらじを履くこととなってしまいました。
病院はすぐに満床、職員の教育もままならず、毎日の業務にただ追われるだけの日々が続きましたが、患者さん中心の病院、こちらの都合に患者さんを合わせるのでなく、患者さんの都合にこちらが合わせる病院へと、一歩一歩近づくようにと努力してまいりました。
昭和60年、長良、揖斐の川向こう、長島の地に温泉の出る土地を取得、190床の長島中央病院を開設。(名称を長島温泉病院としたかったのですが、長島温泉が商標として登録されており出来ず。)さらに平成2年に老人保健施設ながしまを併設することができました。
平成7年佐藤病院を長期療養型にするために増改築、一旦認可を受けましたが、肛門疾患の患者さんが短期のためクレームがつき、だからといって68床を2つの看護単位に分けるのは効率がわるく、もとの介護力強化の1類へ戻し、いつでも長期療養型に転換出来る状態にして現在に至っています。
小さくともキラリと光る病院。どこかで聞いたような言葉とお思いでしょう。そうです。大蔵大臣をつとめたことがある、ある国会議員の「小さくてもキラリと光る日本」という本の題名からです。その本の内容はともかくこの言葉が気にいってます。わずか68床の小さな病院ですが、医療の面でも、看護介護の面でも、また施設の面でも、どこかキラリと光るところがある病院になるよう職員一同励んでいます。
また、この2つの病院と1つの施設が、共に早期よりケアプランを導入し、互いに競いあい、刺激しあうことにより一層のレベルアップをはかり、介護力強化病院東海ブロック研究会、老人保健施設東海大会はもちろんのこと、それぞれの全国大会にも必ずその成果を報告することにしております。
そして今年、平成10年には長島中央病院を療養型にするよう増改築を計画しています。
折りたたむ...老人の専門病院と家族
12月6日、老人の専門医療を考える会第14回全国シンポジウムが銀座ガスホールで開催された。『どうする老人医療これからの老人病院(Part]W)老人の専門病院とその家族』と題する今回のシンポジウムは、まず「老人の病院とは、治療とケアとリハビリがきちんとできる病院をさすのではないか」という木下毅副会長の挨拶に始まり、基調講演として、内田玲子氏(呆け老人を抱える家族の会東京都支部副代表)、田中真由美氏(多摩市在宅介護支援センターサポートたま・センター長)、田中とも江氏(上川病院総婦長)、大塚宣夫氏(青梅慶友病院院長)からの提言であった。
家族にとっての老人専門病院 内田玲子
内田氏は、呆け老人をかかえる家族の会が発足した当初の、受け入れ手がなく家族にも知識がない時期から電話相談に応じてきた経験から話をされた。15年間のデータによると明らかに家族の介護力は低下しており、3大問題は「失禁、徘徊、もの取られ妄想」である。
老人病院に希望することとしては、次の5点があげられた。1.合併症のある呆けの老人が増えているので受け入れて欲しい 2.家族が倒れた時など救急時の受け皿になってほしい 3.見舞いが増えるほど家族は同室者からの苦情や老人の愚痴に困惑するので、是非支えて欲しい 4.家族は病院に不満など言いにくいと感じているので、「考える会」として受けとめる窓口を作ってほしい 5.訪問医療、訪問看護が充実して、在宅でも生活できるシステムができればと思う、と結ばれた。
老人専門病院の医療ソーシャルワーカーを上手に利用していただくために 田中真由美
田中氏は、異動前まで併設の天本病院に医療ソーシャルワーカーとして勤務していた経験から医療ソーシャルワーカーとは何か、また、こんなときに利用をしたらどうか、ということや、ソーシャルワーカーとして「家族」について考えてきたことを何点か話した。医療や福祉は「チーム」の時代であり、地域のヘルパーを含めた全部の職種で本人の療養生活を支えていかなければならないが、チームの真ん中にいるのは、患者と家族である。
家族は第二の患者さんである。家族も体調を崩しストレスもたまる。「休みたい」と言えない家族もいる。まわりの人や病院職員から休むよう声をかけることをすすめたい。
また、お礼の言葉は病院職員にとって元気のでることである。苦情も大歓迎であるが、もし言いにくければ「申し上げにくいんですが」という言葉を始めにつけることを提案する。
老人医療と福祉あっての生活である。信頼できる「かかりつけ医」を持っている人はまだ少ない現状であるが、提案や苦情を通じて、利用する人が地域の病院を育てることもまた大切である。
安心できる病院づくり縛らない看護からグループホーム的ケアまで 田中とも江
田中氏の講演は看護婦になるまでの経験から始まった。病院では食事中に「静かに!」と言うが、わが子を育てている実生活では違う。何かが変だ、と感じはじめた。
昭和59年に上川病院に就職し、縛らない看護を始めた。「抑制」は患者にとって死ぬほど辛いことだ。その挑戦は、病院にある紐類を全部捨て、「抑制」を「縛る」と表現することから始めた。失敗もあったが「仕方がない」とは決して言わなかった。「やることはすべてやったけれどこうなった、勘弁して下さい」と言える状況を作り上げた。
1人1人をメンバーとして1日の生活を組み立てるグループホーム的ケアを始めたのも、何を言っても、何をやっても変わらないというあきらめや差別と戦ったものだ。徹底的に日常的空間を作り上げることで、問題行動のある人も落ち着きをみせてきた。痴呆状態のときにはできなかったことが可能になってきた。
「患者さんを差別してはいけない」というが、実態はきちんとしたケアをしないで、「あの人はいつも臭い」等ということの方が問題だ。寝かされきり、オムツをあてられきりで縛られて、点滴をされている状態を見るのはしのびない。老人病院をうば捨て山にしているのは、スタッフの責任である。
老人専門病院における家族の役割 大塚宣夫
最後は、老人の専門医療を考える会会長としてではなく、1病院の院長として大塚氏が話した。
老人病院における家族の役割の第1は、病院にしっかりお金を払っていただくこと、2番目は入院させることについて家族間でのコンセンサスをしっかり取ってもらうこと、第3は、入院後に、病院で行われていることをしっかりチェックしていただくこと。チェックや評価は病院内部では一生懸命やっているが、家族からも褒められたり口に出して言われることは励みになる。
最後に「プラス・アルファのケア」を家族にお願いしたい。看護・介護の世界は、想い、知識、技術、仕組みの4つが揃わないとよい結果がでない。施設側の職員にはやるべきことが次々とあり、側にいてじっくり話を聞く、といった部分を家族にカバーしてもらいたい。高齢者にとって最大の関心が家族のことであり、残される家族にとってもどんな最期を過ごしたかが、その後の人生に影響を与えるので、「介護はプロに、家族は愛を」と結んだ。
シンポジウム
シンポジウムは、司会に平井基陽氏(秋津鴻池病院院長)、シンポジストには基調講演の4講師を迎え、1時間30分にわたって講義が交わされた。
会場の参加者からの質問では、全介助のため介護が大変になってきたが、「本人の意思を尊重する」と言われて、本人が「いや」と家を離れたがらない場合はどうするのか、等のそれぞれの質問を取りまく意見交換があり、熱のこもった時間がすぎた。
閉会挨拶では、吉岡充副会長より、「大切なのは、ご家族が病院に対してクレームでも良いことでも話してくれること。痴呆の方でも、その方のできることを私たちが褒めるという関わりで、痴呆がよくなり、人間らしさを取り戻すことがある。同様に当会も、ご家族や社会に褒められながらこれまで成長してきた。これからも見守ってほしい。」と結んで終了した。
折りたたむ...昨年末、介護保険法が制定され、2000年4月からの本格実施に向けて、準備が進められている。様々な課題があるが、老人医療に携わる病院職員の間では、ケアマネジャーの養成について、熱い視線が向けられている。
国は、介護支援専門員を4万人程度養成することを意図し、昨年10月までに480人の介護支援専門員指導者研修を終了している。これらの人々は、都道府県が実施することになっている実務研修の講師として活躍することになる。
介護療養型医療施設は、介護支援専門員の必置と、全入院患者の介護支援サービス計画の立案が要求されている。それゆえ、介護施設となるであろう病院は、何が何でも介護支援専門員の雇用試験をパスする職員が必要になる。
そこで、各団体で研修会が開催され、中には高額な授業料を設定する企業もある。しかし、厚生省の指定教科書もできず、細部については、ほとんど決まっていない現状では、何か効果があるのかどうかも疑問である。ここは、じっくりと動向を確かめ、少なくとも老人専門病院は、独自の研修会を秋以降にでも開催した方が良いように思う。
ケアマネジャーについては、大ブームといってよいほどの人気となったのは事実である。これまで、MSWの配置やケアプランの普及・研究に努力してきたのであるから、なにもここまであせることはない。都道府県によっては、講師よりも、老人専門病院の職員の方が、知識も経験も勝っている場合も予想できる。
問題は、試験に合格し、実習を受けることにあるのではなく、要介護認定などを含めたケアプラン立案能力と、マネジメントに必要な技術、姿勢を身に付けることにある。それは、老人医療の質の向上のために必要であるという認識が、今、老人専門病院の責任者と当会にとって必要なことの全てであると思う。
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