老人の専門医療を考える会 - 全国シンポジウム - 内容
第36回 医療と介護の「絆」を考えるV -人生最後の願いをどう受けとめますか-   平成24年10月20日 東京研修センター
シンポジウム冊子(PDF版:10.6MB)

  
13:30 開会挨拶 齊藤正身 老人の専門医療を考える会会長
13:40 プレゼンテーション(1)
  猿原 孝行  和惠会記念病院 理事長
講演スライド(PDF)
14:00 プレゼンテーション(2)
  会田 薫子  東京大学大学院人文社会系研究科 特任准教授
講演スライド(PDF)
14:20 プレゼンテーション(3)
  西川 満則  国立長寿医療研究センター 緩和ケア診療部
講演スライド(PDF)
配付資料(PDF)

14:40

プレゼンテーション(4)
  長尾 和宏  長尾クリニック 院長
講演スライド(PDF)
15:00 休憩
15:15 シンポジウム:医療と介護の「絆」を考えるV 〜人生最後の願いをどう受け止めますか〜
  シンポジスト:猿原孝行、会田薫子、西川満則、長尾和宏
  座長:桑名斉、大川博樹
16:30 閉会挨拶 藤井 功 老人の専門医療を考える会副会長
 
開会挨拶 齊藤正身 老人の専門医療を考える会会長

 みなさん、こんにちは。この全国シンポジウムは今回で36回を迎えました。年1〜2回の割合で開催しておりますので、本当に長い歴史が今までありました。今までどんなテーマを話してきたかと言うと、例えば、抑制の話、それから認知症、今回のターミナルケアもそうです。それから療養病床はどうあるべきかという話もあったり、高齢者や老人医療に関わる分野についてさまざまなシンポジウムをやってまいりました。

 昨年5月、胃ろうの現状と課題を取り上げながら、延命、ターミナル、リビング・ウィルのことも含め、今回のシンポジウムをプロデュースをすべてしてくださった桑名先生の思いも大分込めながら、リビング・ウィルやエンドオブ・ライフなどの話をずっとしてまいりました。

 実は、シンポジウムだけではなく、当会の会員同士の中でも意見交換などが繰り返し行われています。1つの答えが出せるわけではないかもしれませんが、やはり議論をしっかりしていくということが大事だろうと考え、今までやってまいりました。

 今日は、私たちの会の大御所である猿原先生のご講演から始まります。創生期のメンバーである猿原先生をはじめ、各方面の本当に専門の方々からいろんなご意見を頂いてからディスカッションという流れを予定していますので、楽しみにしていただければと思います。

 質問用紙を配布しました。会場の方々からできるだけ多くの意見を聴こうと、そういう思いもあって出させていただいておりますので、その都度、何かきいてみたい、議論してみたいということがあれば、お書きいただければと思います。よろしくお願いいたします。

 それと、もう1つ宣伝しなければいけないのですが、「症状・疾病でわかる高齢者ケアガイドブック」という本を、私どもで今回出しました。久しぶりに私たちの会が刊行者、編著の形で出したものです。

 元々は高齢者施設に勤める介護職の人たちに医療を分かっていただこうと思って作った本だったのですが、「介護職に限らず、看護師も確認したほうがいいんじゃないか」、「いや、お医者さんこそ読んでくれ」というぐらいの、かなり良い内容になったかなあと自負しております。ぜひ、今日いらっしゃる方々は各々の施設でも手に入ると思いますが、今日は3,570円が3,000円と、ちょっと安めになっておりますので、もしご興味のある方は、外に置いてありますから、中を見ていただいてお買い求めいただければと思います。これが今日の私の使命でございます。

 さて、今回の内容は人生の最期の話が中心です。私たち「老人の専門医療を考える会」のメンバーは、患者さんに限らず、関わる方々に高齢者が多いので、そういう方々と関わった瞬間からやっぱり、最期ということを意識しないわけにはいきません。

 「意識しないわけにはいきません」というよりも、最期がどうあるべきかというのはやっぱり、「そこまでどう生きるか」という部分、「明日が楽しみになるように、どう皆さんが関わっていこうか」ということをずっとみんなで追求してやってまいりました。その1つとして、胃ろうの是非を語るだけではなく、もっともっと大きな側面から物事を見て・・・「側面」じゃないですね、「正面」からですね。正面から見て、皆で議論をしてほしいと思っています。ぜひ、活発なシンポジウムになることを期待しています。本日はよろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。

 
プレゼンテーション(1)
猿原 孝行 (和惠会記念病院 理事長)

 みなさん、こんにちは。ただ今、ご紹介にあずかった猿原でございます。ちょっと時間がなくなったので、急いでいきたいと思います。

 スライド(住民基本台帳による百歳以上の高齢者数は51,376人)、この辺はさらっと流したいと思いますが、100歳以上の高齢者が5万人を超えたということです。(スライド2)

 それと同時に、平均寿命も延びています。何歳まで平均寿命が延びるのか。「人間は120歳ぐらいまで生きられる」と言われていますので、たぶん医療という科学はそこを目指し、平均寿命が延びていくんだろうと思います。

 だから、もう少しすれば90歳高齢者はたくさんいて、100歳高齢者も珍しくない、そういう時代に入っていくだろうということです。

 がんが解明されて治る疾患になりつつある。将来的には治るんだろうと思います。しかし、多くの方が死んでいく時代です。「多死の時代」という言葉を初めて使ったのが、スライドに書いてありますけれども、石蔵文信先生です。「非がん多死」の時代に今まさに突入しているということが言えると思います。(スライド5)

 問題は、「医療が関連した死」というものについて、これからはかなり厳しい目が入ってくることです。今は大体、年間110万人ぐらいが病院で死亡していますが、将来的には90万人ぐらいになっていくだろう。20万人ぐらい、病院での死が減るということですね。

 それから増えるのは、「その他」での死亡が増えていくだろうと言われています。「在宅へ、在宅へ」ということがさかんに言われていますが、在宅死というのはあまり増えなくて、20万人ぐらいだろうという。介護保険の3施設では、看取りの加算などが付いたりして、介護保険の関連する施設で看取りが増えるでしょうが、しかし9万人を超えないだろう。

 結局、「その他」の死というのが約47万人いますが、これがなぜ問題なのか。医療関係者がいない所で死んでしまうからです。

 これに対して、訪問診療や訪問看護といろいろなものが入ってくるでしょうが、「その他」での死はよく分からない。死因もよく分からない。ただ死んでいるのを発見された。という現象のみが多発する。この図が出た頃、当時の担当者に僕は、「『その他』の死には上野公園での死も入るのか」と尋ねたら、「そうだ」と答えました。

 やはり一番怖いのは、日本人の死というものが、なんか毀損されるような感じ、そういうイメージを受けます。そういうことに対する危機感は、何も一般市民のわれわれだけではなく、今年の8月31日、厚生労働省医政局から「その他」での死ということについて、通知が出ています。

 よく読んでみると24時間以前でも、医師が診察していた病気に関連する死である場合には、死亡診断書を出すことができるというふうに読みとれるのかなと思います。この件については今後どういうふうに、どういう波紋を広げていくのかよく分からないところです。

 さて、認知症のことについて少しお話しさせていただきます。スライドは「症状改善薬の併用の意義」ということで、中村祐先生が認知症についてお話をされています。今、認知症で使われている薬剤が日本では4種類許可になりますから、どんなに頑張ってもやっぱり差が出る。(スライド8)

 いろんな薬を使っても、正常老化と差が出る。「差が出る」ということについて、これは本当に「治療」といえるのかどうか? 「治療」と言うためには、やっぱり正常なところへ戻していくのが治療ではないのかという気がするのです。その「差」を埋めるために何が必要かというと、僕は100%、「ケア」だと思うのです。すなわち、「キュアからケアへ」ということ。「老人の専門医療を考える会」を立ち上げた時に、そういう考え方、哲学みたいなものがわれわれはあったと思うのです。

 次のスライドは「アルツハイマー病の経過」です。エーザイが出しているもので、正常から老化まで「こういうふうに落ちますよ」ということです。(スライド9)

 このスライド(認知症老人の日常生活自立度判定基準)は皆さんご存じだと思います。介護保険の中で使われているもので、自立度を判定する基準です。これは皆さん使っていると思います。この元になってきたのが、CDRです。(スライド10)

 これも皆さんが日ごろ目にするものだと思います。CDRを出したのは次のこのスライドです。「これがCDRだよ」ということです。これは仙台市立病院から出されたもので、僕らが日常遭遇する認知症の方々の衰退曲線といますか、生理的な衰退曲線のことを非常にうまく表現していると思って、この図を結構多用しています。

 それで認知症高齢者の各ステージで、いわゆる転倒骨折みたいなことに結構対応します。そのほか、昼夜逆転にも遭遇する。それから、われわれがよく遭遇するのは、多分、誤嚥性肺炎など。そういうことを繰り返し、そこで医療を行って、そして一時的に良くなって、また次のアクシデントがあって、またそれに対して一生懸命に治療する。こういうことは、われわれが内部でやっているのですが、こういう時にご家族に説明すると「救急医療に連れて行け」と言う。急性期医療ですね。そういう要望もないではありません。

 それで最終的に重度の状態になっていく。私ども和惠会記念病院は認知症疾患の療養病棟、介護保険の病棟ですが、そこで終末期医療のケアを終わって、一番最後のところで死亡診断書を書いて死亡退院という形になっています。

 こういうことをやっている時に、いろいろな書類が介在します。入院の時の意向確認、それから症状に関する承諾・意向確認、それから治療に関する意向確認。「今後どうしますか」ということに対する確認です。それから終末期医療についての意向確認。

 こういうことを全部踏まえて、看取りまで行くのですが、最後にはこういう文書の形になります。文章形式で、これは1ですが、これが4枚続きます。その都度その都度、ご家族、それからご本人が、誤嚥性肺炎みたいなときとか、それから転倒骨折のようなときには、ご本人も交えてお話をさせていただき、その都度、署名を頂くのですが、最後のところでは本人署名というのは、なかなか求めることができませんので、ご家族に代表して書いていただく。(スライド14)

 それで介護保険の中では、病状とか介護度とかいろいろなことについて、「キーパーソン」という言葉が使われていますが、キーパーソンについてはあまり法的な根拠がなくて、その日その日によってキーパーソンが変わってくるようなケースもあるようで、われわれとしては非常に苦です。「どなたに話していいのが分からない」というようなことが頻繁にあります。ここら辺りを整理していただきたい。

 終末期ケアについて、フランスには「2005年ジャン・レオネッティ法」があります。ジャン・レオネッティという方は国会議員で、循環器のお医者さんらしいのですが、その方が作った法律です。

 フランスというのは面白い国で、成立した年月日で、その法律を表現するようです。「2005年の4月22日法」と言えば、「ジャン・レオネッティ法」のことです。同法によれば、終末期には積極的な安楽死や自殺の幇助になるようなことは認めていませんが、それ以外で、積極的な医療をしなくても、医療職が後で責められることがないということです。ここが大きなポイントになっている。

 それを判断する人は誰かというと、法廷の代理人のような方です。これは友達であってもいいらしいのですが、本人になり代わってそういう書類にサインをすることによって、積極的な医療がなされない。しなくてもいい。そのことによって医療側が訴訟に巻き込まれるようなことがない。従って、これができてから胃ろうとか、そういうものがほとんどなくなったという話でした。

 スライドの写真は、ブルーセル病院です。この古い建物の1階でディスカッションしてきました。ジャン・レオネッティ法ができてから、やっぱりフランスでも「認知症の終末期医療についてどうするんだ」という問題が解消に向かったようです。「医療サイド側にとって、医療の差し控えみたいなことをしても責任を問われることがないのでありがたい」というお話でした。(スライド19)

 写真右側のほうに大きな建物の総合病院があります。この建物が非常にシンボリックで、看板にイラストが描かれています。

 この写真は当時、富家先生を団長にして、小林先生や木下先生、清水先生、橋本先生、高橋先生らで視察した時のものです。(スライド20)

 フランスの方が日本に来てレオネッティ法について2、3回ぐらい厚生労働省の医療保険部会などで説明したとお話がありました。写真後方にフランス人形のようなかわいい女性が3人いらっしゃいますが、この方々は将来、GPになるとおっしゃっていました。GPになって田舎へ行って、そして在宅をやるんだということです。

 この日は、講義の一環として、円卓を囲んでみんなでわいわい語り合うという感じのフランスの施設見学でした。写真左から3人目の方は、フランス人のお医者さんです。「ジャン・レオネッティの法律によって医療者の負担が軽減され、訴訟リスクが回避できて非常にいい」と話していました。

 フランスの次はイギリスに行きました。イギリスでは2005年に、やはりフランスと同じようなころに悩んで悩んで、医療の中止、治療の中止について決めるということについて法律ができた。

 スライド(イギリス2005年 意思能力法・行動指針)は、新井誠先生らが訳した本から抜粋しました。ちょっと堅苦しく書いてありますが、要するに誰でも意思決定の代理人になれるということです。介護している人は誰でもなれる。それから医療関係者、社会福祉関係者、それから永続的代理権。それから、「登録済み継続的代理権代理人」。これはどういう意味かというと、とにかく代理人の署名捺印──イギリスはサインですからサインしたもの──があれば終末期から医療の撤退も許すような話でした。(スライド21)

 次のスライド写真は、有名なセントクリストファー病院です。次の写真は、同院の一室です。見ていただくと分かるように、先ほどフランスは割とフレンドリーで円卓テーブルを囲んでわいわいやるんですが、イギリスは違いました。レクチャーみたいな感じで、「教えてあげますよ」という感じでした。(スライド22、23)

 そこで質問をしました。1970年にトム・キットウッド(Tom Kitwood)さんという方がパーソセンタードケア(利用者中心のケア)という考えを世界に広めましたので、そのことについて質問しましたら、「そんな人は知らない」という回答が返ってきて、「ええっ?」と思ってきょとんとした時の写真です。

 このスライド(認知症のステージにおける意向調査)の折れ線グラフに、僕がフランスやイギリスへ行ってきた感想を入れてあります。フランスやイギリスへ行ってみると、急性期ではなく慢性期の認知症のところ、何回も入退院を急性期で出入りしていて、在宅で帰って来てそして悪くなってまた入って、そういう人たちの最期の場所が、結構引き上げるのが早いのではないかという気がするんです。イギリスもフランスも同様です。(スライド24)

 この辺りで、いわゆる法廷代理人などいろいろな人が署名捺印して、「もうそれ以上深追いはしませんよ」というようなことです。しかし、早いんじゃないかなという気がするんですね。

 どういうことかと言うと、フランスでは、施設から入所した方を病院で診るときに、患者さんの血液検査の結果や体格、血圧などいろいろなものから総合して、「あと3か月ぐらいもつだろう」という判断をしても、先ほどの病院では、「入院してから2週間ぐらいで死んでしまうんだよ」という話をフランスのドクターが話していたからです。そのため、「引き上げるのが早いんじゃないかな」という印象を持っています。

 この件について、結構フランスが好きな高橋泰先生は、「そんなことはない」と言います。「諦めるのがもっと早い」と言う。フランスは非常に諦めが早いという話です。

 僕は研究者でも学者でもありませんので、そういうところを深く追求することはできませんが、日本は結構しぶとく、最後の最後まであまり医療費も掛けないで引っ張る。特に、介護保険になってからは、ケアのほうで持ってきているのかなというふうには思います。

 それで何が言いたいのかというと、「中等度認知症」の辺から急速に悪くなって、そのままストンと落ちる。僕は和惠会記念病院という認知症疾患療養病棟というものを介護保険の導入と同時に、平成13年に設立しました。もう10年を超えているわけですが、その時から歯科衛生士を入れて口腔内ケアをしています。そのことによって、やはりものすごく肺炎とか誤嚥性肺炎とか、そういうものが減ったという印象を強く持っています。

 当時は試験的にやったので、浜松の歯科医師会にお願いして、歯科衛生士の雇用は、医療法人社団和惠会で行うけれども、今、10何人いますけれども、そのコントロールですね。「今日はこういうことをやりなさい、明日はこういうことをやりなさい」というコントロールは全部、歯科医師会の先生にお願いをしていく。

 そういうところで何が言いたいのかというと、これは竹之内裕文先生が第四章の中で、「『看取り文化』の再構築へむけて」ということを書いています。「看取り文化」という言葉は、大変新しいと思うのです。イギリスやフランスでは、日本よりも早期にストンと落ちている。とすれば、その人の最期まで非常に安価な費用で、その人の尊厳を守りながら看取りの医療、介護、看護を提供しているところは、やはり新たな文化を生む。その例として、歯科衛生士の活躍など新たな産業を生んできているのかなというふうに思います。

 最後になりますが一言。「死亡診断書」は医師が書くのですが、100年前はそんなものはなかったのではないか。話がものすごく飛躍しますが、昔に戻して、先ほどイギリスなどで挙げられたような代理人を法律的に決めて、そういう人たちが「死亡診断書」を書くようにしたらどうですか、ということが言いたいのです。

 なぜ、こういうことを考えるのか。日本で老人医療が始まった時から、「医療のやり過ぎ」ということが言われていました。そこで僕は、この悪い老人医療を「漬物3点セット」という言葉で表現しました。例えば「点滴漬け、検査漬け、薬漬け、ということをやって医療が金儲けをしているのはけしからん。そういうことはやめましょう」と言った。

 それから、われわれは、マルメ(定額払い)という制度の導入を日本で初めて主張した組織体ですが、制度が導入されると今度は「粗診粗療」なんてことを言われる。もう、非常に腹立たしいです。1人の患者さんを目の前にして、その医師が、医師の資格とか、命みたいなものをかけて、瞬間、瞬間にかけて高齢者医療に携わっていると僕は思います。そういうふうに言われるのはなぜかというと、やはり最後に「死亡診断書」を書かざるを得ないからです。ならば、それをもう放棄してしまえばいいじゃないかと、そうすればもっと自由な気持ちで患者さんに接することができるというふうに思います。

 今日のシンポジストとしては失格かもしれませんが、最終的にはわれわれ、いま非常に困惑した中に置かれている。それはどういうことかと言うと、死ぬ間際になるとやたらとどこかから嗅ぎつけた遠い親戚がひょこっと来て、そして医療現場でわめき散らしてわれわれを追い詰めるような現象がある。

 先ほど会田先生から聞きました。「ポッと出」。ポッと出てくるんです。そういう親族を「ポッと出症候群」という言葉があるらしいのですが、そういうものに我々はやっぱり悩まされる。その人の死が誰の死かよく分からない。医療者側にすると、医療の責任回避のために一生懸命治療をしているような面もなきにしもあらず。

 もう1つは、こういうこと言うと叱られるかもしれませんが、医療区分の中で、区分1から区分2に上げようという努力がある。あれはまさに儲かるからです。「儲かるから」と言うと語弊があるかもしれません。損をしないためにやる。

 なぜそういうことが起きるかと言うと、やはり「死亡診断書」を医者に書かせるから。医者だけに書かせるから。これはやっぱりおかしい。こう言っても、笑われるだけですが、そういう話にたどり着いて、本日の僕の持ち時間がちょうど来ました。ご清聴どうもありがとうございました。

 
プレゼンテーション(2)
会田 薫子 (東京大学大学院人文社会系研究科 特任准教授)

 ご紹介いただきましてありがとうございました。皆さま、こんにちは。東京大学の会田と申します。今日は皆さまがこのようにお集まりの場で話しをさせていただけますことを大変ありがたく光栄に思っております。会長の齊藤先生、本当にありがとうございます。では、早速始めさせていただきたいと思います。

 今回のシンポジウムのテーマは「人生最後の願いをどう受け止めますか」ということで、私は「本人の意思を尊重した医療とケアのために」というタイトルで話しをさせていただきます。

 「本人の意思の尊重」と言いますと、私たちの国ではかつて、医師の権威による臨床上の意志決定が行われていて、そのころはパターナリスティックに物事が決められたということがございました。そういうことに対する反省、あるいは患者側からの「自分の意思で選びたい」という声があったときに、アメリカから「患者の自己決定」という概念が輸入されまして、このような中で「インフォームド・コンセントを取ることができる患者さんからは必ず取る」ということが患者さん自身の選択、意思を尊重する方法であり、そして原則的に確立されたと言われています。インフォームド・コンセントはとても重要であると。

 もちろん、インフォームド・コンセントを取ることは基本的に重要なのですが、今日は皆さんに「患者の自己決定」というものについて、改めて考えていただきたいと思っています。アメリカから輸入された「患者の自己決定権」の成立の背景を見ることで、その意味を考えてみたいと思うのですが、そのためにはアメリカでの歴史的な動きというものを見ていきたいと思います。

 アメリカでは1950年代から60年代にかけて、公民権運動が起こりました。これはアフリカ系アメリカ人が人種差別撤廃を訴え、白人のアメリカ人と同じ社会的地位と権利を要求したという運動でした。キング牧師の演説など、皆さまご存じの方もいらっしゃると思います。「白人の子どもたちと同じ教室で黒人の子どもたちも勉強できるように」、「バスの中の座席を白人と黒人で分けないように」というような、黒人が白人と同じ社会的地位を要求する運動でした。その流れで、女性解放運動が起こりました。これは性差別反対の訴えであり、男性優位の社会の中で、女性にも男性と同じ権利を与えるよう女性が要求したのです。

 この流れの中で、消費者運動というものも起こり、消費者の権利を擁護することが求められました。その中で、情報公開運動も起こりました。「消費者に情報を公開すべき、行政から市民への情報も公開すべき」という運動でした。

 そして、実は医療現場での患者の自己決定権というものは、この運動の中で形成された概念形成であった、というのが、富山大学の秋葉先生の見方です。権威保持者である医師に対抗するために形成された概念だと言われています。従って、患者の自己決定権は「支配抑圧からの解放要求」として始まったわけです。

 これをスライドの表(医師-患者関係のプロトタイプ)で説明させていだたきます。これはアメリカ人のローターという研究者の論文からの引用です。アメリカで医師患者関係の研究をなさっている著名な方です。ローターによりますと、医師と患者の関係、臨床上の意思決定がどのように行われているかということを見る場合に、医師の力と患者の力を、「医療の目的設定」と「患者の価値観」、それから「医師の役割」という3点でみると分かりやすいということでこの表がつくられています。(スライド4)

 かつて医療の現場で、医師の力が強く患者さんの力が弱かった時──これは意思決定上という意味ですが──、その時はアメリカでもやはりパターナリスティックな医療が行われて、医療介入の目的は医師が設定し、「患者さんは何も知らなくても大丈夫、医師がちゃんと分かってあげているから」というようなことで、医師は患者さんの保護者として全般的に意思決定してくれていたわけです。

 その後、先ほどの消費者運動の中で、医療に関しても消費者主義が言われるようになりました。患者さんに医療介入を行うことについて、「介入の目的については患者自身が決めるから医師は余計な口を出さないでください。患者さんの価値については患者が自分で分かっているから医師に選択していただく必要はありません」ということです。

 この消費者主義の中で、医師の役割というものは技術的な相談役で、「専門的なスキルや知識を患者さんに提供してくれればよい。余計なことを言わないでください。決めるのは患者です」ということが言われました。この消費者主義の時代に、「ヒポクラテスよ、さらば」とアメリカのバイオエシックスの学者たちは言っていました。

 これが今どう動いているかと言いますと、相互参加型の意思決定が推奨されているとアメリカでも言われています。要するに、医療者、患者がともに意思決定に参画する。医療の目的は一緒に相談して決める、ということです。患者さんの価値観については、医療側も患者さんからよく聴いて、「あなたがこういう価値観であればこういう治療法がいいのではないですか」ということを、相談して決める。相互参加型の意思決定のポイントは「良いコミュニケーション」です。

 このように、相互参加型では医師の役割は全体的な助言者であって、単に技術についての相談役ではないということが言われています。「より良い意思決定のためには、実はこの相互参加型が一番機能するようである」ということが、患者の自己決定概念が発生したアメリカでも言われているわけなのです。従って、はっきりと、コミュニケーション重視の潮流がみられるといえます。

 コミュニケーションの重要性については、例えば“Critical Care Medicine”というアメリカ集中治療医学会の学術誌で終末期医療の改善策について書かれていますが、そのなかで、終末期ケアを改善するために何が一番重要であるかという項目を見ますと、まずスタッフのコミュニケーションスキルを向上させてくださいということ、そして、患者家族とよくコミュニケーションを取ること、これを病院では徹底しましょうということ。こうすることによって、エンド・オブ・ライフ・ケアが向上します。スタッフと緩和ケア専門家のコミュニケーションの促進をしてください、緩和ケア専門家に参画していただくということが、1つ重要なポイントになっています。そして多職種チームで、患者家族と話し合いを促進してくださいということで、「共同決定を促進するように」ということが謳われています。

 このような流れの中で、では、もうインフォームド・コンセントをとることは重要ではなくなったのかといますと、そういうことではございません。インフォームド・コンセントをとるということそのものの重要性は、中身の問題であって形式ではないということが強調されるようになってきています。

 何のためにインフォームド・コンセントをとるのか。それはもちろん患者さんにとって最も良いことを実現するために本人の意思を確認する。そのために、ご本人の意思が確認できる場面においては、必ず医師が確認するということです。

 日本老年医学会が今年発表した「立場表明2012」は、高齢者の終末期医療とケアに関するガイドラインです。この中でも、高齢患者は意見が不安定かつ流動的で自己表現を十分になしえないこともあるので、そこに留意してくださいということが書かれています。高齢者の中には、認知機能低下や意識障害などがある方もいらっしゃいますので、「自己決定ということにあまり固執なさらないように」ということが言われています。

 スライドの「それから」という所に、「配慮、遠慮、自己表現することへの躊躇も……」と書きましたが、これは、「立場表明2012」に書いてあることではなく、私の考えです。現場でお仕事をなさっている先生方は皆さんご承知と思いますが、日本人は周りの人に配慮したり遠慮したり、ということをごく普通にしています。特に高齢の方は、自己表現することに躊躇のある方もいらっしゃいます。なぜかと言いますと、「あまり自己主張しないように」と教育され、そのようにしつけられてきた世代だからです。(スライド8)

 私は大学で仕事をしていますので若い人たちにも接しておりますが、日本では若い方もあまり自己主張をしない方が多いです。おとなしい学生さんたちがかなり多いのです。やっぱり日本人の通常の振る舞い方といいますか、表現の仕方として、あまり自分というものを出さない。そういう傾向が現代でも続いているのではないかと思われます。

 そのようなわけで、患者さんが言語化したことというのは、お気持ちの何らかの表現であって、すべてではないということは、もちろん臨床の皆さんの前で、私が申し上げるまでもないことであろうと思います。

 ご本人が意思決定困難なとき、特に高齢患者さんはこのようなときが非常に多かろうと思いますが、ご本人にとっての最善をどう知るか。スライドにある石垣先生は看護学の先生ですが、私は石垣先生と各地で「臨床倫理セミナー」というものも一緒にさせていただきました中で、「ご本人像にどうやって迫るのかという問題である」と教えていただきました。(スライド9)

 ご本人が、意思表示がなかなかできない、あるいは全くできなくなった時、ご本人がいったいどういう方なのかというところに迫っていく、その中でご本人にとって一番良いことは何かを探っていくことが重要だと教えていただきました。

 具体的には、ご本人がこれまで生きてこられた人生の中でどんなことを大切にしてこられたのか、どういう局面で、どういう考えをお示しになった方なのか。どんな人生をお過ごしでいらっしゃったのか。どんな時にお幸せと感じていらして、どんなときにお辛いと思ったか。どんなことは我慢ならんというようなことをおっしゃっておられたのか。このように、ご本人の人生のいろいろな場面をたどることで、その方の価値観や人生観、死生観に迫っていくことができるということです。

 実際に「臨床倫理セミナー」をやってきた中で、このような考え方をすると、実はご本人──今は意思疎通できなくなったご本人─、その方にとって一番いいことは、実は人生のいろんな出来事をたどると分かることがあるということを、私は現場の方たちから、事例検討会などを通して教えていただきました。

 要するに、本人・家族とスタッフ間におけるコミュニケーションのプロセスで、ご本人にとっても一番良いことを探っていただくということになろうかと思います。皆さま方はもちろんご存じだと思いますが、医療の場においては、高齢者の終末期に限らず、唯一の正しい選択というものは見い出し難いことが通常でしょう。そのようなとき、ご本人の最善を巡って関係者の皆さまで一緒に考える、悩む、そのプロセスが非常に重要だと思います。

 一緒に考えて、一緒に悩んで、「ああでもない」「こうでもない」とお話しになったこと。これが後に述べる「納得の源泉」になると考えます。この一緒に考える、悩むプロセスが納得を生むということです。医療の分野では「これが唯一の正解」ということは、ほとんどありません。そのような分野において、本人の最善をめぐって一緒に悩んで考えるプロセスを持つことが意思決定の倫理的適切さを担保するというふうに考えます。何が正しいのか、どの選択肢を選べばよいのかよく分からない時、一緒に考え、悩むこと。それが非常に重要です。そして、納得というのは頭の理解だけの問題ではなく、心の問題でもありますので、皆さんで納得して、「この方のためにはこれらがいいよね」ということを行っていただける。そのようなプロセスを踏んでいただくと、倫理的にも適切な物事の決め方になると言えると思います。

 「事前指示」について述べます。今はたくさんの「事前指示書」がいろいろな病院等で個別に作られていると思います。NPOで作っておらえるところもあります。それから今日、この後で講演される長尾先生も所属なさっている「日本尊厳死協会」でも作っていらっしゃる、大変有名なものがあります。こういう「事前指示書」を書こうとなさるということは、とても重要なことだと思います。

 その使い方について私が思いますのは、ご本人がご家族や医療者とのコミュニケーションをする場合のコミュニケーション促進ツールであるということです。自分にとって一番良い終末期医療のあり方とか、自分を大切にしていただくケアのあり方などついてコミュニケーションをしていただく際のツール、すなわち「コミュニケーションを促進する道具」として使っていただくのがいいかなと思うわけです。

 どういうふうに生き、そして生き終わるのかという話は、日本社会では長らくタブーだったと言われてきました。そのため、なかなか家庭の中ではこういう話を持ち出しにくいとか、医療者も患者さんとこのような話をするのはなかなか難しい。患者さんにとっても、自分からはなかなか言い出しにくいという面もあると思います。

 しかし、何らかの道具があれば、紙1枚でもあればお話しを始めやすいですよね。それで、「自分はこういう時にはこう思う」ということが言えるような医療環境も形成されると思います。そのようなわけで、「事前指示書」はコミュニケーションを進めていく上でとても役に立つと思います。

 この「コミュニケーション促進ツール」としての「事前指示書」を見ながら書きながら一緒に相談する。考える。悩む。生き方や、生き終わり方について、例えば患者さん側からは「先生だったらどうですか?」と聞かれることもあると思います。そんなときは、「自分だったらこういうことを思う」とか、「自分だったらこれはするけどあれはしないかな」というようなことなどを、ご一緒に考えていただきながら、コミュニケーションを取っていただければいいなと思います。

 そのようなお話の中で、書面に何らかの意思を書かれるとします。書いたものについては、これは先ほど申し上げましたが、書いたこと、話したことはお気持ちの何らかの表現であって、すべてではないということを少し頭に置いていただけるといいかなと思います。

 一度書いたきりで何年も経過した事前指示書を金科玉条にしてしまうと、かえってよろしくない場合もあると思います。意思は変化する場合も少なくありません。ですから、「一度書いて終わり」ではなく、折々に見直して、そして継続的に考えていただく。こういう使い方が重要なのではないかなと思います。折々見直して継続して考えるということは、後ほど西川先生がお話しくださるかもしれませんが、「アドバンス・ケア・プランニング」という考え方にも通じます。

 それから、患者さん側と医療ケアチームとのコミュニケーションのあり方、意思決定の仕方について、「情報共有−合意モデルによる意思決定プロセス」を皆さんにご紹介したいと思います。あるいは、すでにご存じの方もいらっしゃるかとは思いますが、私どもの教授の清水哲郎が提唱している考え方です。先ほど猿原先生のスライドの中でも清水の本をご紹介いただきましてありがとうございました。(19ページ、スライド26)

 この「情報共有─合意モデル」では、どのように物事を決め、考えていくのか。この点についてご説明いたします。例えば、Aさんという患者さんが身体の不調を感じて医師の診察を受けます。この時、医師は診察や検査などをして、その結果を患者さん側に説明します。これは、患者さんのお身体に着目した、いわゆる生物学的な説明になろうかと思います。あくまでも患者さんのお身体に着目したものなので、同じ身体の状態であれば、これがBさんでもCさんでも同じ説明になると思います。つまり、これは「医学的な最善」について、お身体に着目した一般的で標準的な判断です。「こういう身体の状態の方には、選択肢X、Y、Zが考えられます」という説明になるでしょう。

 それを聞いた患者や家族は、自分たちからも医師に説明します。この説明は自分たちに関する物語り的な説明、「ナラティブ」に関する説明です。ご自分たちはどういう考え方を持って、どう生きてきたのか。どういう価値観を持ち、どういう人生観で、これからどういう計画があるのか、どういう人たちなのかということを話します。これが「ナラティブ」に関する説明になります。

 これを聞いた医療ケアチームは、「Aさんは、そのようにお考えなんですか。では先ほどお話しした選択肢XYZの中ではXかYがよさそうですね」という説明をしてくださるかと思います。そうすると、患者さんや家族は、「XとYについては自分たちはこういう考え方を持っているので」と、また説明してくださると思います。このように医療側と患者側の説明を相互に繰り返していく中で、医療ケアチームは、「Aさんに合っているのは、先ほど説明したXの少し変化形ですね」ということで、例えば「Xダッシュ」ということになったとします。

 そうしますと、これはAという患者さんにとっての個別化した、つまりAさんのための最善についての判断になるだろうと思います。清水の考えでいきますと、これが本当のインフォームド・コンセントの形成であると言えるということです。

 これを「生命の二重構造理論」で説明いたします。私たちは、生物学的な生命──これは身体のことですが──、これを土台にして物語られるいのち、つまり「ナラティブ」を展開している。その展開しているナラティブは、自分に関係する人々とのかかわりで形成されている。このようないのちをもっている存在であるということを、私どもは、基本は清水理論ですが、このような場で説明させていただいております。

 生物学的な生命に関する医師の見方は、診察当初は数値データに着目したものになるでしょう。検査などをした結果、どのようなデータがどのぐらい正常値から外れているか、ということをお調べいただくと思います。

 確かに、できるだけ医学的エビデンスに基づいた医療が行われるべきです。しかし、私たちのいのちは身体だけの問題ではなく、これを土台にして私たちは人生の物語り、すなわちナラティブを展開しています。ナラティブは、自分の価値観や人生観、死生観を反映したものであり、周囲の人々とも関わっていますので、個別で多様です。

 私たちらしさを決めるのは、生物学的な生命というよりも、それを土台に展開している私達の人生、すなわちナラティブのほうであろうと考えます。そして私たちが、「これは自分のQOLが高い状態だ」と言えるような、そういう人生を送っているかどうかを決めるのも、まさにこのナラティブだろうと思います。そのように考えますと、生物学的な生命の重要度を決めるのも、実はナラティブであろうと思われます。

 そのようなわけで、終末期の患者さんの意思の尊重について私の考えを申しますと、本人の人生の物語り、すなわちナラティブを完成させるための終末期医療とケア、これを行っていただくことだろうと思います。

 これに関連して私は”evidence-based narrative”という言葉を使っています。先生方にevidence-basedな医療、evidence-based medicineを行っていただくことは非常に重要です。基本的に重要なのですが、EBMを行っていただく目的は何でしょうか。EBMを行っていただくのは、本人のナラティブ、つまり人生を充実させるためであるとお考えいただけると、なぜ先生方にEBMを推進していただくのか、EBMを実践することの目的がはっきりするのではないかと考えます。

 本人のナラティブを充実させるためのEBMの実践によって、evidence-basedなナラティブをつくっていこうということ。このように考えていただくと、医療の目的が分かりやすいかなと考えています。このEBMをもとにしたナラティブの推進により、主観的な幸福感、満足感がアップすると考えます。

 このことについて、簡単な例でご説明します。ここに、生物学的生命の状態が同じ2人の患者さんがいらっしゃるとします。AさんとBさんです。二人は脳卒中後、持続的植物状態になって、1年経っています。2人とも85歳の女性で、この1年間胃ろう栄養で生きています。2人とも生命予後は年単位で、今後、意識を回復する可能性はゼロに近いという診断が出ております。すなわち、生物学的生命はAさんとBさんで同じです。(スライド15) しかし、Aさんはこういう方です。60歳の時に日本尊厳死協会に加盟してリビング・ウィルを書き、折々内容を確認していました。「延命医療はいらないよ」と繰り返し、家族に言っていました。

 一方、Bさんは、こういう方です。何を決めるときもご家族に任せてきました。以前、がんの手術をするかどうかという時も、旦那さんと息子さんに決めてもらって、それで満足していました。 AさんとBさんのお身体の状態は同じですが、AさんとBさんの生き方、価値観は大きく異なると思います。Aさんについて、今後も胃ろう栄養を継続して生きていただくことは、Aさんのナラティブ上、どういう意味があるとお考えになりますでしょうか。

 Bさんのような方は、日本では少なくないと思います。この方については、今後も胃ろう栄養を継続して、生きていっていただくことがよいのかどうかは今すぐには分かりませんが、もしかするとBさんのような方は、「自分がこうやって意思疎通ができなくなって寝たきりになっても、みんなで優しくお世話してくれて、これはこれで嬉しいな」と思うタイプの方かもしれません。Bさんがそういうタイプの方かどうか、もっときちんと理解しようとするには、彼女のナラティブを、これまでの人生を探索する必要があります。関係者みんなで探索することが必要だろうと思います。

 しかし、少なくともAさんとBさんは、今後の医療の継続についての意思決定の方向が異なるだろうということはお分かりいただけるのではないかと思います。ご本人らしさ、QOLを重視すれば、生物学的な生命の状態は同じでも、生存期間は違うことがあってもいいのではないでしょうか。

 なぜならば、異なる物語を生きているからです。生存期間が違うかどうかは問題になるのでしょうか。今まで私たちの社会では、同じようなお身体の状態の人は、同じような長さを生きていくのが医学的・倫理的に妥当であると考えられてきました。

 しかし、さまざまな医療技術が使われるようになった現代、同じような身体の状態であれば、みな同じように生きていくのだということでは、QOLが充実しない人、良い人生を送れない人が出てまいります。それは現代、延命医療を有難迷惑なものと捉える方が多いことに現れていると思います。

 重要なのは生物学的生命よりも、物語られる命の充実だろうと思います。死は敗北であるかのように医師に言われてきた時代がありました。これを生物学的な生命のレベルで考えますと、医療者のお仕事は常に負けると思います。私たちは必ず亡くなる運命ですから。

 しかし、物語られるいのち、つまりナラティブを充実させることが、医療者のお仕事であるというふうにお考えいただくと、お1人おひとりの患者さんにとって、いつでも充実した良いお仕事をしていただけるのではないかと思います。

 ご本人の物語を充実させること、これはつまり、ご本人にとって良いことを実現しようとしてお仕事をしてくださっている医療者の物語りを充実させることにもなるということが言えると思います。医療者としての皆さま方の満足感も高くなるということが言えると思います。

 日本老年医学会の「立場表明2012」でも、「本人の満足が物差しに」なると謳っています。この考えに沿いまして、清水を中心とする私たちの研究班では、人工的水分・栄養補給法の意思決定プロセスガイドラインの原案を作りました。人工的水分・栄養補給法(artificial hydration and nutrition)は、AHNという略語で呼ばせていただいています。本人の人生をより豊かにすること、少なくとも、より悪くしないこと。目指すところはこれです。

 ですからAHNの差し控えや、導入後、減量したり中止したりすることについても、本人の人生にとっての益と害の点で考える。この点で評価するということです。そして重要なのは、患者さんと家族とスタッフが納得できる合意形成、共同の意思決定をしていただくことであると、このガイドラインでは言っております。

 しかし、納得できる合意形成、共同の意思決定という決め方では、法的に自分の身が安全ではないと心配している医師も少なくありません。このガイドラインが正式に承認される前に、日本老年医学会と朝日新聞が共同で調査しました。日本老年医学会の医師会員に回答をお願いしました。先生方の中でもお答えくださった方がいらっしゃると思います。回答してくださった方は約1,000人いらっしゃいました。そのうち22パーセントが、過去1年間に人工栄養の中止を経験していると回答なさいました。ですから、人工栄養の中止、例えば胃ろう栄養をいったん始めたけれどもそれを終わるということは、やっていらっしゃる先生方は少なくない。しかし、人工栄養を中止することについては、約4割の先生方が「法的な責任を問われる心配がある」と回答なさいました。

 私たちの研究班の先行調査でも同様の結果が示されておりましたので、「関係者が納得する共同の意思決定」というガイドラインの趣旨について、私どもの研究班の法学者である樋口範雄・東大法学部教授の発案で、法律家の意見を聞いてみました。

 「共同の意思決定」という意思決定で法律上問題になるかどうかについて、67人の法律の先生方に質問しました。その結果、お答えくださった36名中の34名が、ガイドラインに沿って意思決定すれば法的問題とはならないと答えてくださいました。

 本人の最善をめぐって共同決定するということは、つまり、「各現場で、一人ひとりの患者さんのために、複数の医療者と家族間でどうすることが患者さんのためなのか、本人のために一番いいことは何なのかを話し合って、合意形成していただければ、それは倫理的に妥当な物事の決め方なのであって、現場の医療者が倫理的に妥当に決めたことについて、後で警察が入るなんていう、そういうとんちんかんなこともありません」ということです。実は、こうした考え方は厚労省が2007年に出した「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」の趣旨でもありました。

 このスライドは、「このガイドラインに賛同する」と、お名前を公表しておっしゃってくださっている法律の先生方の一覧です。この一覧は日本老年医学会のホームページにもアップされています。この先生方の中には、10年前の論文では「本人の事前指示がなければ、人工栄養を終了して看取るということは、刑法違反の恐れあり」と書いておられた方も実はいらっしゃいます。しかし、この10年の時の流れのなかで、社会の状況は変わりました。法律家の先生方もご意見も変わってきているところがあると言えるかと思います。(スライド21)

 皆さん方の中には、「そうは言っても、これまで延命医療を終えたことに対して殺人罪で有罪になった医師がいるじゃないか」と思っておられる方もいると思います。

 そこで、「延命医療中止か殺人か」というスライドをよくご覧になってください。スライドに入るだけ4件だけ書き入れております。東海大病院の事件、川崎協同病院の事件、北海道羽幌の件、それから富山県射水市の件です。殺人罪になっているか不起訴になっているか、よくスライドをご覧になってください。区別はかなりわかりやすいと思います。(スライド22)

 東海大や川崎協同では、患者さんの命を終わらせる意図をもって、つまり積極的に、塩化カリウムや筋弛緩剤が注射されました。つまり患者さんの命を終わらせようとして、薬物が使われております。

 一方、羽幌や射水では、患者さんの看取りのために、本人にとってすでに必要がなくなったと判断した人工呼吸器を外して看取ったということで、これについては不起訴と決定している。ということは、このようなやり方は刑法上の問題ではないという検察の判断が決定しているという意味になります。この違いは非常にはっきりしていると思われますので、今後こういう点でお悩みいただくことはないと思います。

 この羽幌の件や射水の件は、不起訴とはいえ、「褒められた内容なのか」というと実はそうではなく、羽幌では担当医師が単独で、射水では2人の医師で意思決定しており、意思決定のあり方は倫理的に適切ではなかったのですが、それでも刑法上の問題になるような話ではないわけです。本人にとって必要のない医療行為を終わって看取るということ。これは医療としては通常の選択であると、普通の臨床上の意思決定であるということが、司法の判断としても出ているといえます。

 まとめます。患者さんの意思の尊重には、患者の自己決定以上の意味があると考えます。「事前指示書」などをコミュニケーションの促進ツールとしてご活用いただければと思います。

 患者さんにとっての最善を実現しようとするチームアプローチ。家族も一緒に話し合って、共同の意思決定をしていただくことが大切です。適切な話し合いのプロセスがあれば法的問題などは無関係といえると思います。ご清聴ありがとうございました。

 
プレゼンテーション(3)
西川 満則 (国立長寿医療研究センター 緩和ケア診療部)

 ご紹介ありがとうございました。国立長寿医療研究センター緩和ケア診療部の西川満則と申します。本日は、このような歴史のある会で、シンポジストの役を頂いて本当にありがとうございました。

 本日3番目の演者としてお話しする機会を頂いたわけですが、最初は猿原先生が海外の経験や看取りの文化という話をしてくださいました。「死亡診断書」の話題をお話しくださいました。会田先生におかれましては、海外の歴史、自己決定の歴史を踏まえて、法的、倫理的判断にまで踏み込んでお話しくださいました。

 今、私がここに立っている理由は、国の病院としてエンド・オブ・ライフケアチームを立ち上げて、どのようにアプローチしていくかということをお話しすること、これが一番の役割だと思いますので、是非それをスライドにそってお話ししたいと思います。

 タイトルは「緩和ケアチームからエンド・オブ・ライフケアチームへ」ということで、お話しいたします。配布資料には、パワーポイントとは別に用意した資料が掲載されていますが、発表はパワーポイントの資料で進めます。よろしくお願いいたします。(43〜46ページ参照)

 本日の話題はスライドに挙げた通りで、まず、最初に簡単な自己紹介をさせていただいた後で、シンポジウムの趣旨を確認させていただきます。そして、「緩和ケアチーム」と「エンド・オブ・ライフケアチーム」にはどういう違いがあるのかをお話しいたします。(スライド2)

 私たちのような取組みは海外でも似たようなものがあります。私たちが臨床をしながら「こういうことが大事だと思っている」ところを合わせた経験則の集約である意思決定の「3本の柱」をお話しいたします。そして、戦略的に行う院内院外の活動についてお話しをさせていただいて、最後にまとめたいと思っています。

 最初は自己紹介とシンポジウムの趣旨です。私は島根医大を卒業して10数年になります。そのあと愛知県に最初にホスピスを立ち上げた時、立ち上げメンバーの1人で、がんの緩和ケアを何とか広めようと思って活動したのが今の仕事につながっています。

 そして大きかったのは、2000年に私どもの病院である「国立長寿医療研究センター」に赴任しまして、いろいろ変遷はあるのですが、呼吸器科という、非がんの緩和ケアの中では、海外で最も重要視されている臓器疾患での緩和ケアに携わってきて、近年では緩和ケア診療部というところに属しながら、がんの経験を生かしながら、「エンド・オブ・ライフケア」という非がんも含めた緩和ケアを推進しています。最近は、「エンド・オブ・ライフケア」の場として、在宅も意識しながら活動しているというのが、私の今の仕事です。

 それから、特別養護老人ホームというのは、ずっとこの仕事をしてきたわけではないのですが、虚弱で認知症の高齢者ケアのスタッフと共に仕事をしたいと思っていました。そこで仕事をすることによって、がんの緩和ケアや、COPD・心不全の緩和ケアに加えて、認知症高齢者の緩和ケアにも携わり、全部の疾患領域をミックスして何か言えないかなと考えて今に至っています。

 さて、シンポジウムの趣旨を改めて確認したいと思います。患者・家族の「エンド・オブ・ライフケア」、「エンド・オブ・ライフ」の願いを、例えば「リビング・ウィル」とか「アドバンス・ディレクティブ」を挙げていますが、どのようにして人生に寄り添うべきなのか、最後のまとめのところで私たちの結論を出したいと思います。

 それで、私のプレゼンテーション3番の趣旨ですが、私たちのチームは「スマイルチーム」という名前ですが、がんの緩和ケアだけではなくて非がん疾患とか、高齢者ケアも含めてやりたいと考えるチームです。

 「苦痛の緩和」と「意思決定支援」という2つのキーワードを大切に活動しています。「意思決定支援」というのは実は、途中にも出てきますけれども、意思を決定することの支援、例えば、胃ろうをするしないを決めることは、本人にとっても家族にとっても、すごく苦痛を伴うことですね。苦痛を和らげるという点では、緩和ケアそのものであると、そんなふうに考えています。

 最終的に、意思決定の「3本の柱」という、聞いてみれば当たり前だと思うような内容が後から出てきますが、「スマイルチーム」がどうやってこの「3本の柱」を使って活動を展開していくかというお話をしたいと思います。

 それでは、2番目に進みたいと思います。「緩和ケアチームからエンド・オブ・ライフケアチームへ」です。「緩和ケア」、「エンド・オブ・ライフケア」、「ターミナルケア」、「ホスピスケア」など、いろいろな言葉があります。今日は、その細かな歴史的経緯を申し上げることはしませんが、大ざっぱな比較をお示ししたいと思います。(スライド7)

 「緩和ケアチーム」と「エンド・オブ・ライフケアチーム」は、本質的には全く一緒です。ただ、緩和ケアは「その症状を緩和する」というアプローチが名前になっています。一方、「エンド・オブ・ライフケア」は、その言葉通り、人生の終焉を迎える時期であるということが名前になっています。違いとして、「緩和ケアチーム」は、世界的には、がんだけでなく非がんも対象にするような傾向があります。しかし、まだ日本においてはがんが中心です。「エンド・オブ・ライフケアチーム」というのは、非がん疾患や高齢者ケア、認知機能低下とか虚弱な状態の方を対象にすることを明確にしています。

 具体的にどんな疾患が対象かというと、臓器障害系の疾患である慢性心不全とか、慢性呼吸器疾患、あと神経難病のALSの患者さんなどを担当させてもらうことが多いのですが、非常に厳しい経過をたどる疾患だと思います。それから、認知症、多発性脳梗塞、虚弱が対象です。

 「緩和ケア」は、WHOの定義にもあります。対象は「疾患」であると定義しています。しかし、「エンド・オブ・ライフケア」は、弱っているとか、判断力が低下しているとかも対象にしています。

 「早期から介入したほうがいい」というのは、「緩和ケア」ではよく言われることですけれども、「エンド・オブ・ライフケアチーム」でも同様です。

 チームの活動を開始してから1年が経ち、年間で209件の依頼がありました。まとめてあるのは半年の時点のもので恐縮ですが、スライド円グラフの赤が、がん患者さん。青い部分が非がんの患者さんです。だいたい60%が、がんの患者さん、40%が非がんの患者さんです。これは欧米の緩和ケアチームとだいたい同じ比率、同じ傾向です。(スライド8)

 非がん患者さんの内訳についてです。慢性呼吸器疾患の患者さんがやっぱり多くて、私自身の専門が呼吸器領域だということもあるかと思うのですけれども、呼吸器疾患が半分ぐらいで、その後に認知症、赤は認知症ですね。認知症の患者さんとか、緑色が慢性心不全の患者さんとか、あとは神経内科の患者さんなどの順で依頼が続いています。

 だいたい半年で109人。1年で209人の実績です。緩和ケアですから、「どんな患者さんの苦痛があるだろうか」ということをとらえて、それに何らかの介入をして QOLの向上をはかるというのが基本です。いたってシンプルです。がんの患者さんも6割いますが、非がん疾患を例に挙げますと、非がん性の呼吸困難が問題になるALSの患者さん、慢性心不全の患者さん、慢性呼吸器疾患の患者さんに、例えばモルヒネによる介入や、胃ろうの注入量を減らすという介入や、輸液を減らす中止するという介入によって苦痛が和らぐということがあります。

 私たち医師は、「簡単に意思決定能力がないと決めつける傾向にある」と思うのです。認知症の患者さんであっても、「この人は意思決定能力がある」、「この人はない」と簡単に分けられるものではないと思うのです。その人の意思決定能力が残存していて、なるべくそれを支えるべきだという立場で活動しているのですが、認知症患者さんの意思が尊重されない傾向があるのは、多分ここにいらっしゃる皆さんだったらお分かりになりますよね。

 それをどう介入するかというと、体系化された意思決定の「3本の柱」です。これは多分、皆さんがやっていることと一緒です。ただ分かりやすく表現してそれを広めていくためにあえてこういう表現を使っています。

 緩和ケアのアウトカムであるQOLの向上もシンプルです。単純に笑顔になるということもQOL向上だと思うし、在宅で看取りたい、施設で最期まで迎えたいという人が、それが叶うこともQOL向上だと考えています。

 さて、ここまでチームの説明が長くなりましたが、「スマイルチーム」という別名があって、このチームのロゴは、病院スタッフが投票してくれて選んでくれたものです。私たちのチームのロゴはこれになりました。(スライド10)

 「SMILE」スマイルの頭文字なのですけれども、ちょうど私たちのチームが果たさなければならない役割がそこに象徴されています。もともと「緩和ケア」とか「エンド・オブ・ライフケア」という言葉は、わかりにくくて普及しにくいだろうと思うから、こういう言葉(スマイルチーム)で普及したらいいと思っています。

 症状を緩和するということは、緩和ケアのべースにあるし、やっぱり非がんの高齢者の苦痛が多いことは、海外の研究でも言われていることです。また、意思決定に苦痛を伴うということも当然だと思います。「専門チームが介入すると終末期ケアの質が上がる」という論文もあります。

 当然、特に非がんとか認知症の患者さんは本人の意思決定能力がなくなることが多いだけに、法的な倫理的な見方が必要なので、それは自分たちの専門ではないけれど、法や倫理を専門にする人たちの意見を聞きながら進んでいくことが大事だと思います。このスマイルという名前は非常に気に入っています。

 最後に、やっぱりこれがこの会で一番大事なことだと思うのですが、高齢者の権利の擁護です。治療のやり過ぎを避けることも大事だし、しなさ過ぎを避けることも大事です。高齢者の権利を守ることが大事だと考えています。

 さて、海外の論文の中で主だったものを挙げてみたのですが、何かしらこういう専門のチームを入れると終末期医療の質を上げるというような論文が出ています。これは後から適当に引いて見られるとよいと思うのですけども、場所が在宅であったり病院であったり施設であったりするのですが、多少こういう諸外国の先行研究もあり、私たちのチームができているという紹介をさせていただきました。(スライド12)

 スライドの写真「諸外国の視察経験」をご覧ください。日本だけのことを考えてもいけないので、海外の状況を鑑みながらチームをつくってきました。(スライド13)

 胃ろうは、必ずしも本人のためにならないと言われています。胃ろうの是非や功罪は、科学的に結論が出ていないと思いますが、いわゆる「ナラティブレビュー」と言われるものでは、「胃ろうは、あまり本人のためにならない」という報告が多いですよね。

 右側は、「アドバンス・ケア・プランニング」という事前指示のプロセスを重視していくような試みをしているオーストラリアの臨床家です。先日、朝日新聞にも出ていましたが、上がビル・シルベスターという医師で、下がカレン・デタリングという医師で。BMJに論文を書いた人です。論文だけ読んでもわからないので、直接この二人に「アドバンス・ケア・プランニング」がどんなものかというのを聞いてきました。写真は、ポール・マーレイというFive Wishesというリビング・ウィルの書面を世界に広めている方です。海外の情報もとり入れながら、チームをつくったことをお伝えしたいと思います。さて、ちょっとと長くなりました。(スライド13写真)

 3番目に、意思決定の「3本の柱」という、聞いてみればなんと当たり前と思われる試みを説明します。先ほどの猿原先生や会田先生のお話の実践版だと理解してください。

 スライドのように考えて私たちはやっています。真ん中の「3本」は、現在、過去、未来を表しています。これを本人の意思ととらえて、「これからずれないように、ずれないように」と考えて活動しています。(スライド15)

 それから無視できないのは、先ほどのお話にもありました「パッと出症候群」です。家族の意向も意識しながら意思決定しますが本人の意思を優先します。次に医学的判断ですね、どこまで医学的判断も優先するのか。必ずしも医学的判断を一番に重視していないところを表現しています。

 現在のところで「微細なサインをキャッチする」とありますでしょう。これ実は、老年医学とか老年看護の専門家の人も会場にいらっしゃると思いますが、その人たちが一番大事にしていることで、権利の擁護というか、寝たきりの人を見て「もう、判断力ない」と考えがちなのですが、その人たちのちょっとしたサインをくみ取るという当たり前のことを表現しています。

 今日は事例を出す予定ではなかったのですが、例えば、私たちが在宅で看取った患者さんの中で、「この人は全然しゃべることもできない」と思っていたのに、ある人が聴いて、ちゃんとサインをキャッチすると、「家に連れて帰って」ということを表現されたような人がいて、それがきっかけで家に帰ることができたという事例もありました。

 あと、「アドバンス・ケア・プランニング」、「アドバンス・ディレクティブ」、「リビング・ウィル」とほぼ同じように考えてもらえればいいのですが、患者の意思が、書面や口頭で残っていないかを確認します。もし残っていなくても、いったん患者さんが元気になられた場合は、今後のことを一緒に考えてカルテに記載するような、未来へ向けて「アドバンス・プラン」を作るような活動をしています。まずは患者の意思が残されてないかを確認します。それが私たちのやり方です。

 だけど、なかなか残されていない。まだ「アドバンス・ケア・プランニング」は浸透していないし、これからも「アドバンス・ケア・プランニング」を行えばすべてうまくいくとは思わないです。しかしそれを、なるべく残すように努力しています。

 そしてそれがなくても ライフ・レビューを行います。患者さんの人生を理解するってどういうことかというと、先ほど会田先生の「物語られる命」というお話がありましたけれども、普通に「仕事は何をしていたの?」とか「いつ結婚したの?」とか、そんな一般的な話題から入っていくと、患者さんの価値観が見えてくることがあります。なかなか難しいことも多いのですが、時には、「この人であればきっとこう判断したであろう」というのが、感じられるのです。医師だけの力では難しいのですが、病棟のリンクナースがいます。私たちのチームの仲間に横江という看護師がいます。そのナースたちの話を総合しチームで判断する場合、例えば胃ろうにするかしないかに関する本人の意思推定の話などは非常に判断しやすいです。

 何が本人にとって一番の利益になるのかということを、よく判断できることは結構多い気がします。例えば、患者さんの生活歴を聴く中で判断できます。この前、NHKの「クローズアップ現代」で取り上げていただきました。例えば「ある患者さんは、写真が好きだった」とか、「家に帰ると一面に写真の絵が書いてある」という生活歴のことです。残された時間はあまり長くないかもしれない。胃ろうを作っていたら、その一番大事な時に大事な場所で最期を迎えられないかもしれない、みたいな話の展開になっていくわけです。そうすると、知らないうちにチームや家族の意見が一致して、「やっぱり家に帰るのが一番だね」というふうに、満場一致で決まって、「じゃあ本人の利益になるから家に帰ろう」となるわけです。医学的判断について言いますと、胃ろうを作った方がいいかどうかというのは、科学的にはまだ証明されていないけれど、いわゆるナラティブレビューでは、胃ろうを作らないという決定も尊重されると考えられています。家族の意向は、「本人の気持ちが第一ということで一致」となり、意思決定の「三本の柱」による本人の意向の推定と、家族の意向と医学的判断をミックスさせて、「家に帰ろう」という結論にいたって、住み慣れた家で最期を迎えられたという事例がありました。

 「アドバンス・ディレクティブ」には、「リビング・ウィル」と「代理人指定」というのがあります。それを、プロセス重視で時間的にも空間的にも継続してやっていこうというのが、「アドバンス・ケア・プランニング」だと理解されています。

 私どもの病院はそれを組織化して、「アドバンス・ケア・プランニング」をやっていこうとしています。は2012年10月2日、つい先日の朝日新聞の夕刊で取り上げられた記事です。(スライド17)

 胃ろうの医学的判断については先ほどお話しました。先ほどの意思決定の「3本の柱」の図の右上に書いてありました。ナラティブレビューでは、重度認知症の方の胃ろうは、誤嚥性肺炎を起こさないとは言えないしすすめられないという報告があります。

 「エンド・オブ・ライフケアチーム」、別名「スマイルチーム」で、意思決定支援の「3本の柱」を普及させていきたいという活動です。

 長寿医療研究センター院内での活動です。スライドのデータはちょっと古く、更新してないので申し訳ないのですが、今も大体同じです。がんと非がんでは、非がんの人が4割いて、非がんの中で意思決定支援の割合は、やっぱり多くて、「食事が食べられない」とか「呼吸状態が悪い」とかの話題に関連して、「胃ろうや人工呼吸器」の話し合いが多いです。胃ろうと人工呼吸器の話題がやっぱり象徴的なのだと思います。(スライド20)

 意思決定支援の「3本の柱」でそれらを考えて、実際はどうかだったかと言うと、アウトカムは、「本人が望んだ方向はこうだよね」というのをみんなで考えた結果が分母で、「実際にその通りになったね」というのが分子です。92%ぐらいの方が本人の意向に沿った判断ができました。胃ろうについて言えば、「胃ろうをつくらなかった」という方が多かったです。(スライド22)

 最初に言われましたように、胃ろうの是非、「胃ろうが、いいか悪いか」というよりは、胃ろうには功罪があると思います。功と罪があって、何が功かというと、本人の意思にそうように努力し続けたことが功です。本人の意思を尊重しようとする努力もなく、ただつくってしまうと、それはやっぱり「罪」だと思います。胃ろうは「是非」ではなく、「意思を尊重する努力をし尽くしたか」という部分が大事だと考えます。

 さて、院外の活動についてお話します。院内の活動と院外の活動はどう違うかと言うと、院内活動では、だいたい病院にいるのでたっぷり時間を使えます。院外の場合は、月曜日の午前中の2時間だけ特別養護老人ホームに行きます。つまり短時間で効果的な活動をしなければなりません。短時間であっても、行くならば何か役に立ちたいという気持ちもありました。できれば国の政策などに役立てたいという思いを持って、週2時間だけ特養に行っています。 ちょっと話が戻りますが、特別養護老人ホームというのは、在宅ではなくて居住系施設です。今は広く在宅に含められますが、在宅医療を推進していく厚労省の政策の中で、居住系施設も在宅というとらえ方もあります。特養の入居者の中には、本当に在宅で疲れ果てて、在宅療養を継続できなくなって特養にたどり着いている人もいます。特養に入所するのに、500人ぐらいの待ちがあります。うちの特養も500人待ちです。特養には、たいていは常勤医がいないのです。常勤医がいる所もあるのですが、常勤医がいない所では終末期の意思決定が難しいと感じています。それで、私がどう役立てるかと思ってやったことを説明します。

 もう2年前になりますが、最初に特養に挨拶に行った時、施設の看護や介護のみんなと話し合いました。価値観の共有です。私が医者として役に立てることがあるかという話をする中で、話がまとまりました。年に2回、終末期の迎え方についての講演会を行います。患者さんも参加していいし、ご家族も参加していいことにしていますが、たいてい参加しているのは家族ばかりです。週1回の勤務でもそのぐらいはできると考えました。あと、週に1回の勤務時間の2時間は、薬の処方などに費やすのではなく、看護師さんが「この人はちょっと弱ってきたから」という入居者さんをピックアップして個別面談を計画しています。終末期について話し合うのです。なぜかというと、看護だけでは家族が納得してくれない、理解や満足が得られない時があるから、医者も交えて話をするとその点が解決されるというのです。「中心は看護や介護ですけれども」、そういった方法で週1回面談をしています。あとは、対病院対策です。私は病院の医者ですが、特養にいるときは受け入れ側の病院との交渉もやります。「生活重視の視点だが、もし負担のない治療で治るときは治してほしい。」という方針で、早めに病院に受診していただきます。治すことが難しい場合は、「病院だけで考える必要はない。われわれに戻してくれれば一緒に考える。」というメッセージを添えて紹介状を送るわけですね。そんなことをしていくと、だんだん病院も私たちの考えを理解してくれます。

 これは年に1回の講演会の内容ですけれども、緩和ケアをベースにした話です。あらかじめ終末期について考えていくといいよという話を、双方向性の講義で会場の意見を聴きながら行います。(スライド26)

 個別の面談も同じ内容で、この意思決定の「3本の柱」を使いながら、どんな人生だったかということを15分間ぐらいで振り返ります。「質問には十分な時間をとります」と言うと、たいていは1時間か1時間半ぐらいの面談時間になります。ご家族はいろんな思いを話されるから、それを整理する中で本人にとって何が一番いいかを決めていきます。

 本人の意向と家族の思いがちょっと違う場合など、いろいろ問題はあるけれども、それでも意思決定の「3本の柱」にそって考えたことが、本人の考えに一番近いと考えています。

 このスライドは、特養での看取り率です。ごめんなさい、まだ更新していないのですが、これは1年目のデータなので30数人ぐらいで、だいたい5割から7割ぐらいの方を施設で看取っています。もちろん、「本人にとって施設の最期が一番よかった。」という人が施設で看取られています。残念ながら、早めに病院を受診して、病気は落ち着いても食事がとれなくなり施設に帰って来られない人もいます。(スライド28)

 最後、まとめです。今日のシンポジウムの趣旨に対して、私たちなりの答えです。「スマイルチーム」です。「緩和ケアチーム」からできた「エンド・オブ・ライフケアチーム」、通称「スマイルチーム」です。そのチーム活動の中で、患者・家族の願いをくみ取りたいと思っています。その活動の中で核になる意思決定の「3本の柱」、本人の判断力がなくなっても、本人の意思推定が可能な、意思決定の「3本の柱」を使って患者家族に寄り添っていきたいというのが私たちの活動です。以上です。ご清聴ありがとうございました。

 
プレゼンテーション(4)
長尾 和宏 (長尾クリニック 院長)
 ご紹介ありがとうございます。尼崎の長尾と申します。私はただの開業医、町医者です。日本慢性期医療協会(以下、日慢協)はてっきり病院の会だと思っていたのですが、私は開業医でありながら日慢協の理事を拝命しています。どういうことかと申しますと、これからの日本の医療は慢性期医療が主体になりますよね。地域包括ケアの時代において、もはや「病院だ」「開業医だ」という区別にはあまり意味がなくなってきました。これからは病院と在宅診療所は「地域包括ケアを担う一員として密接に協働しなければならない」ということで、日慢協の武久会長から理事にお声をかけて頂いたものと理解しています。今後、私のみならず、多くの在宅医が日慢協に入ってきて欲しいと願っています。

 今後、地域包括ケアの中では「在宅」がキーワードになります。また「介護施設」「高齢者専用賃貸住宅(高専賃)」「サービス付き高齢者向け住宅(サ高住」」といった第二の在宅と言われる中で、ケアの意識を共有していく時代になってきたと考えています。そこで今日は、「医療と介護の文化の差 病院と在宅の文化の差」というテーマでお話しさせていただきます。正直言いまして両者の間には、終末期医療に関して大きな差があるのが現状だと思います。その病院とは主に大病院とか大学病院とか、急性期病院とお考えください。特に在宅の現場にいますと、終末期医療に関して文化の差があると感じます。それから介護と医療の間はそれ以上ですね。特に施設、有料老人ホームなど、医療者がほとんどいない場所で、これからは積極的に看取りをしなさい、ということです。しかし現実には、さまざまな課題が存在します。

 そこにはかなりの「看取りの文化」の差があると感じています。もっとも、老人ホームというのは死に近い人がいる、たくさんおられる場であるにも関わらず、最も「平穏死」に遠い場所だなと感じております。

 ご存知のように一昨年から石飛幸三先生の著書「平穏死のすすめ」が話題になり、そして今年は中村仁一先生の著書「大往生したけりゃ医療とかかわるな」が飛ぶように売れています。石飛の先生の造語「平穏死」という言葉を私も使わせていただき、この7月に「平穏死・10の条件」という本を書きました。

 石飛先生、中村先生、そして私の本の共通点は、「自然死」という考え方です。あるいは過剰医療、延命治療への疑問でしょう。相違点といえば、石飛先生と中村先生は、私よりひと世代か二世代上の先生です。私は54歳ですけれども、ちょうど親子の世代くらい違います。またお二人は老人特養の先生ですが、私は下町の開業医です。尼崎と街のなかでの外来と在宅の世界を描きました。在宅専門クリニックではありませんので、地域の在宅医という視点で書きました。これが大きな違いです。

 さて、延命治療についてお話しをします。ご承知のように人工栄養、人工呼吸、人工透析が「三大延命治療」と呼ばれています。この延命処置というのは今後、どこまで進歩するのでしょうか。そもそも延命とは、何でしょうか。またよく「余命」と言いますけれども、生まれた子どもを見たら、私は「余命80年だな」と思ってしまいます。

 日々、高血圧や糖尿病を診療する目的は、ある意味、延命のためです。例えば消化管出血をして輸血するのも、延命治療でしょう。肺気腫の人に酸素を投与するのも同じ。そして何よりも山中伸弥教授が発見されたiPS細胞も、結局は延命が目的となるしょう。本当に延命治療になるのかどうか知りませんけれども、医学の進歩でどこまで延命が可能になるのか、これは哲学的な命題であると考えます。

 「平穏死」、「自然死」、「尊厳死」は、ほぼ同じ意味ですが少しずつ違いはあります。「平穏死」は造語ですし、「自然死」というのは文字どおり自然の経過に任せるということですし。一方「尊厳死」はもう少し広い概念かなと思います。遷延性意識障害の延命治療の中止なども含めた概念だと思います。しかし臨床現場では、ほぼ同義語として使われていてそれでいいと考えています。

 今日は、在宅医療の話をさせていただきます。すでに在宅医療をバリバリやられている先生も多いかと思いますが、在宅医療の目標は「QOL×寿命を最大値にする」ことです。その目的のためには、在宅だけでは完結しません。完結するはずがありません。病院医療、特に日慢協さんの病院に助けてもらう機会も多々あります。やはり病院との連携がなければ成り立たちません。「良質な慢性期医療」という枠組みで考えるべき時代であると思います。もちろんこの目標には、日慢協の病院が主役を演じていくものと確信しています。

 とはいえ、おおざっぱな言い方ですけれども、私は現在、年間80人ぐらいの方を自宅でお看取りしていますけども、これはすべて自然死、尊厳死です。大部分は延命治療と無縁です。

 よく尊厳死の是非が議論されていますが、実は在宅看取りはほとんど尊厳死であると言うと、みなさん驚かれます。尊厳死というとこのようになんだか特別なものであうと、怖がられます。ですから「平穏死」と言ってみたら皆さん受け入れやすいそうです。ただ、患者さん自身そして家族も、尊厳死とか平穏死という意識は全くありません。ただ住み慣れた我が家で自然の経過の先に亡くなられた、ただそれだけです。

 これに対して病院で亡くなるということは、多くの場合、延命治療の先にある死、延命死です。「病院という場ではなかなか平穏死が難しい」のようなことを本に書いたら、先日の日慢協20周年記念パーティーの時に、ある病院の先生が来られて「長尾先生、決してそんなことはありませんよ。私の病院は平穏死できる病院を経営しています」と話しかけて頂きました。先ほどのお話にありましたように、「患者さんの意思を尊重して尊厳死できる病院も日本にあるんですよ」と。ほかにも「平穏死病院も知っておいでくださいね」という方が、何人か私のところに来ていただき、本当に嬉しく、心強く思いました。 しかし平穏死と概念と無縁の病院がまだまだ多くあります。100歳の胃がん末期の患者さんにも、最後の最期に人工呼吸器をしっかり付けて、意識がなくてもしっかりフルコース延命治療をしていて、それが最大の医療者としての絶対的な務めであると院長先生が胸を張る病院もあります。その院長先生には「家で自然死させるなんて、長尾は殺人者だ」と責められました。そういうふうにはっきりと言われる病院長も結構おられるのも現実であります。

 しかし対立軸でとらえると在宅と病院の文化の差は、おかしな方向にいきます。やはり患者さんの立場に立つべきです。「納得死」「満足死」という視点でとらえることが大事だと思います。しかし終末期に何もしないということは、病院という文化の中では現実的には難しいことが多いと聞きます。病院は「何もしないで待つ」ことというのが、しにくい場所です。血圧が下がったら、上げなきゃいけない、酸素が足りないなら酸素を投与しなきゃいけない。食べられなかったら何か人工的にでも栄養を入れなきゃいけないという強迫観念のような世界です。そこで、「平穏死」はやっぱり難しいと言われています。

 介護の世界になるとなおさらです。よく「キュアからケアへのパラダイムシフト」と言われます。しかし、この「ギアチェンジ」のタイミングというのは実際の医療現場では、なかなか難しい。なにより過去に延命治療の中止によって「事件」になった過去が多くの医師の記憶に残っています。例えば射水病院事件や川崎協同病院事件などです。

 先日、「終の信託」という東宝映画を見ました。「終の信託」を英語で言うとリビング・ウィルです。川崎協同病院事件の映画化です。周防監督の奥様の草刈民代さんが延命治療を中止して逮捕される女医さん役、そして役所広司さんが延命治療を中止して亡くなる患者役をされています。たとえリビング・ウイルがあっても、延命治療を中止すれば警察が入ってくるということが1990年代から始まりました。延命治療中止を「異状死」として警察に通報されたのでしょう。医師法21条が、誤って拡大解釈されたのです。そういう潜在的な恐怖は多くの医療者の中に今も強く残っています。延命治療を開始しなかったということで、実際に有罪判決を受けたケースは無いそうです。しかし人工呼吸器の中止によって逮捕や書類送検された事例がありますので、そういう恐怖は医療者の頭から消えません。

 ここでちょっと法律、「医師法」の話をします。先日の国会、税・社会保障一体改革の集中審議の中で平穏死が1時間議論されました。生中継でご覧になった方もいらっしゃるかと思いますけれども、もう1度復習しておこうと思います。

 医師法20条は昭和24年に制定された法律です。簡単に言えば「医師は自ら診察しなければ診断書を書けない。ただし24時間以内に診ていれば、往診しなくても死亡診断書を書けますよ」という法律です。亡くなっても、なんと行かなくてもいいということです。言いかえれば「もし診ていなければ、行ってから診断書は書けます」ということです。しかしよく、「24時間以内に診ていないから死亡診断書を書けない」と誤解されています。あるいは、「24時間以内に診ていないから書けないし、警察を呼ばなければならない」と2重に誤解されています。医師法21条と完全にごっちゃにされるわけです。

 21条は明治7年にできた法律で、行き倒れの人を見たら24時間以内に警察に届け出てくださいね、という法律です。どちらも当たり前のことが謳われているだけなのですが、20条と21条に登場する2つの「24時間」という数字が世紀の混同の始まりだと思います。

 多くの医師がこの2つの法律を正しく理解していません。2つを完全に混同していて「24時間以内に診ていないから診断書を書けない」とか、「だから警察を呼ばなければならない」と誤解している医師が多いということで、厚労省から先日、通達が出たかと思います。

 奇しくも、昭和24年にできた法律が、現在平成24年に議論されるといるのは、不思議な偶然ですね。しかも24時間、24時間と、24が4つも重なったという偶然があるわけです。どうか皆様はこの4つの24の意味を、正しく理解して頂きたいと思います。63年も経った医師法20条が現在も活きています。要するに古き良き昔、「オールウェイズ三丁目の夕日」の時代に戻ったと考えてください。法律がおおらかな看取りを保障してくれています。それが、在宅看取りの追い風にもなっているのですがあまり意識されていません。

 さきほど「文化の差」と言いましたけれども、EBM主体とNBM主体に分けることができます。本当はEBMはNBM「ナラティブ・ベースド・メディスン」をも含む概念だそうです。EBMで有名な名郷先生にはEBMにはNBMも含まれていると教えて頂きました。一方、病院は情報公開されていますが、在宅は密室性があると指摘されています。

 病院と在宅の医療、特に終末期医療の文化の差はどこから生じるのでしょうか?病院のお医者さんは、たいてい病院しか知りません。一方、在宅医は病院と在宅と両方知っています。しかし、8、9割の大多数の医師や看護師、一生、在宅を知らずに過ごします。すなわちアウェイの医療を知らずに、ホームのみの医療で一生を終えていきます。そこでどうしても文化が生じるのかなとも思います。

 さて、胃ろうの話に移ります。この1〜2年の胃ろうのマスコミ報道は「胃ろうバッシング」として受け止められるようになりました。私自身は、胃ろうは入れるならできるだけ早く入れて、口からもう1回食べられるようにするのが、私は本当の胃ろうではないかと思います。すなわち「生きて楽しむための胃ろう」です。間違ってはいけないのが、ALSなどの神経難病患者さんの胃ろうは、延命処置ではなく福祉用具です。ただ、日本の胃ろうの多くは高齢者に造設されています。ほんとうは胃ろうを造設した時から、嚥下リハビリと口腔ケアを開始すべきです。しかし世の中には、入れっぱなしになっている胃ろうが沢山あります。

 胃ろうに関する沢山の報道がありますが、いわゆる「胃ろう問題」の本質とは、いったん始めた胃ろうは、やがて植物状態になっても現実には中止が簡単ではないというところだと思います。もはや意思表示ができない、嚥下がもう全然できない。そして自分の唾液も誤嚥してしまう。そんな状態になって、かつ本人がそういうことは嫌だということを文書で表明していても胃ろう栄養を中止できないことが、胃ろう問題の本質です。

 最近、入院時にいわゆるリビング・ウィルを聞いてくれる病院が増えています。事前指示書に記入してもらうのです。しかしいくら文書で表明していても、実際には胃ろうの中止は、病院ではまだ相当困難なようです。日本老年医学会の調査によりますと2割ないし5割の医師が「胃ろうを中止した経験がある」と答えています。しかし、あくまで「阿吽の呼吸での中止」であって、これをおおっぴらに言うことは難しいのが私の知る範囲での現場の医師の声です。もし私の患者さんの中止ケースをテレビで放映すると私が「逮捕される可能性がある」というのが、某テレビ局の顧問弁護士たちの見解です。

 今年、日本老年医学会から水分と人工栄養の中止のガイドラインが出たことは、まさに歴史的な大転換だと思います。会田先生らが中心になって、すごく大きな仕事をなされた。まさに節目になる平成24年なのかなと思っています。

 ただ、ガイドラインは現場にはまだほとんど周知されていません。やはり、それに従って延命措置の中止を実際にやったときに阿吽ならそれでいいのですが、先ほどテレビの話をしましたけども、某テレビ局の顧問弁護士さんが見たら、「これは殺人罪だ」ということでした。だからなかなか、法的担保がなされていないという現状では、大きな病院では難しいという声をよく聞きます。アンケートには中止の経験を答えることができるけども、おおっぴらにはなかなか言い難いそうです。医学界のガイドラインには合致しても、延命措置の中止は、いわゆるグレーゾーンであるのが、まだ現状かなと思います。

 さてリビング・ウィルとは、不治かつ末期に陥った時に、延命処置をこういうふうにしてくれということです。本来はオーダーメイドであるべきかもしれません。米国ではオーダーメイドです。例えば、「3か月だけ人工呼吸器をやって、駄目だったら止めてくれ」とか、そういった具体的な料理の注文みたいなものであるべきです。日本では、いくつか定型的なものが多いですね。リビングウイルの保持率が米国は41%ですが、日本ではたった0.1%です。日本ではまだその概念が、国民に根付いていません。

 現在副理事長職を拝命している一般社団法人・日本尊厳死協会という人権団体は1976年に発足しました。これは現在、一般社団法人として、リビング・ウィルの管理と啓発活動をしている団体です。また「終末期の医療における患者の意思を尊重する法律案」に議論にも加わっています。(スライド14)

 法律案の要点を簡単にかいつまんで説明します。まず本人のリビング・ウィルが文章で表明されていることが大前提です。文書であれば書式は問われていません。「不治かつ末期」であるというのが第2条件です。第3番目の条件として、2人以上の医師が不治かつ末期と判定することが必要です。その条件を満たした時、延命治療を差し控えても、医師は免責されるという内容です。その差し控えとは、A案では不開始のみ、B案では中止のみと記されています。本命はB案ということで、現在、尊厳死法制化議連という、超党派の126人の国会議員さんによって議論されている最中です。

 中山太郎さんという人が議連の会長さんになられたのが8年前です。以来ずっとこういう議論が国会の中で続けられています。しかし法案はまだ国会に提出されていません。そして今後、こういう議論がどうなるのか、私自身も見当がつきません。以上が現状です。

 もちろん日本老年医学会の調査でも2割ないし5割の医師が「中止したことがある」と答えているわけです。議論されている法律案には、こうした従来からある「阿吽の尊厳死」を否定するものではないということも、ちゃんと謳われています。もちろん障害者やALS等の神経難病の患者さんにはこの法律は全く関係ないということも法律案の中にきっちり書かれています。以上は、日本における尊厳死の動向です。

 海外に目を向けましょう。この6月にスイスのチューリッヒで開催された「死の権利・世界連合総会」に参加してきました。欧米における「尊厳死」には、physician assisted death、あるいはphysician assisted suicide、自殺という、敢えて挑戦的な言葉が使われています。キリスト教文化圏ですから、敢えて神に挑戦すると言わなくてはならないのでしょう。例えばモルヒネを10アンプル注射するとか、致死量の麻酔薬を内服させるとかします。もちろんお医者さんがその適応であるか判断して処方箋を書いています。それが「欧米の尊厳死」です。尊厳死は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク以外にスイスでも認められています。オランダ等では、先ほど言いました安楽死も認められています。

 日本の尊厳死というのは、自然死、平穏死です。従って、欧米の尊厳死とはまた全然違うものです。欧米の尊厳死は、日本の安楽死相当です。日本においては、安楽死は、完全な殺人罪で、尊厳死と明確に区別されています。なぜオランダで安楽死法ができたかということに関して、非常に興味がありますが、今日はそれを話す機会ではないので省略します。

 フランスでは2005年にレオネッティというお医者さんが尊厳死法を作り終末期議論が前進しました。そこでは、尊厳死は緩和医療と両輪であることが謳われ、具体的手順が明記されています。しかしやはり終末期の法制化となると、イギリス、ドイツなど保守的な国ではかなり議論があるようです。尊厳死を望むイギリス人やドイツ人はスイスに渡って尊厳死をしています。

 スイスには2つの尊厳死幇助組織があります。ひとつは、エグジットという団体。もうひとつは、ディグニタスという団体です。エグジットは、スイス人のphysician assisted deathを扱う団体です。一方、ディグニタスは外国人の受け入れOKの組織ですから、イギリスとかドイツからの尊厳死も受け入れています。こうした「看取りの家」に数日滞在し、尊厳死をさせます。尊厳死は医師が薬剤をもって介入する死。亡くなった後は、警察が入ります。異常死体としてちゃんと検視をし、骨にして自国に帰ります。もし遺体のまま帰ると医師が捕まるそうです。尊厳死が認められているスイスにおいても、非常に苦労してやっているのが現状で、どの国も終末期は大変だなと思いました。

 先ほど、日本ではおもに在宅現場では、阿吽の呼吸で尊厳死を普通に看取っていると申しました。当院でも在宅はほとんどが自然死、平穏死、尊厳死です。さて、こういう議論は例えば1980〜90年代は、主に末期がんを想定していたと想像します。しかし現在は、むしろ非がんの在宅看取りが議論されています。老衰、認知症終末期、あるいは心不全や肺気腫などの臓器不全症の終末期は難しい課題を抱えています。今後の終末期議論は、どんな病態を想定するかで、大きく議論が変わってくるんじゃないかなと思います。

 すなわち、末期がんの場合、スライドの折れ線グラフのように最後にストンとADLが落ちます。しかし一番下に示す老衰とか認知症は、時間をかけてゆっくりとだらだらと落ちていきます。あるいは心不全とか、呼吸不全、臓器不全症は多少上下しながら落ちていきます。(スライド18)

 それぞれの病態において終末期の定義が変わってくる可能性があります。今まで、いろいろな議論がごっちゃにしてきたように思います。先ほど、「三大延命治療」と申しました。たとえば人工透析も、日本透析医学会が中止も可能とのガイドラインを公表しました。やはり人工栄養、人工水分、そういう水分栄養のこと、そして人工透析、そして人工呼吸器。これらを本当に同列に並べて議論していいのかという哲学的な命題もあるかと思います。機会があれば、また会田先生に教えて頂きたくお願いします。

 いずれにしましても、もはやDNRの時代からアドバンスディレクティブ(AD)、そしてアドバンス・ケア・プランニング(ACP)の時代だと思います。会田先生らが作られた意思決定のプロセスノートが本当に大事です。比較的元気なうちから、本人、家族と医療者で話し合っておきましょう、そのプロセスを大事にしましょうということですよね。「アドバンス・ケア・プランニング」はますます重要だと思いますし、ぜひ日慢協の病院や施設はACPを行い、平穏死が可能な場になってほしいと願っています。

 在宅医療制度は非常に複雑になってきました。在宅療養支援診療所制度が2006年にできてから6年が経ちました。せっかく登録していても半数しか看取っていないとのことで、今年から「機能強化型・在支診」が登場しました。この「強化型」には2種類あります。「常勤医3名以上、看取り数2名以上」など条件があるのですが、すなわち、単独型の強化型・在支診と、連携型の強化型・在支診があります。患者さんから見ると3類型になります。連携の中に在宅療養支援病院が1つ入ってもいい。実は、こうした複雑な在宅医療制度が本当に必要なのか来週号の日本医事新報に書きました。「二極化する在宅医と、在宅ビジネス」という題で書きました。さらにちょっと過激なことを書きました。実は在宅患者さんが売買されています。紹介手数料はその月の診療報酬の2割だそうですが、その実態をレポートしました。

 最後に在宅医の二極化とはなにか?について話します。医療は言うまでもなく非営利です。しかし介護は営利OKですよね。営利が悪いとは決して申しません、しかしどこまでやるのかということです。要するにコンプライアンスとか、モラルハザードの問題です。今、「非営利が営利に引っ張られる」という構図が、大都市圏で見られます。もちろんごく一部でしょう。大多数は真面目にちゃんとやっています。しかしそうしたいわゆる在宅患者紹介業者が暗躍しているのも現実です。そういう営利の甘い誘いに対する距離感をもって、私は「二極化」と勝手に呼んでいます。決して、一馬力か、二馬力かとか、ミックス型か、あるいは在宅専門型かという意味ではありません。

 戻ります。患者さんから見たら同じ往診を頼んでも普通の診療所と、強化型在支診では、医療費が2倍も違うということはどうかと思います。在宅医療が「一物三価」になっている現状は、修正すべきではなかと主張しています。さらに在宅療養支援病院制度ができたことで、在支病ともうまく連携する時代になりました。とにかく3つの医療機関が、組んで在宅看取りを行う時代です。こうして在宅医のグループ化が進んでいます。そのような状況のなかで終末期の価値観、倫理観をどう共有していくかという大切な課題がありますこれからの在宅医療の大きな課題ではないかと思っています。 私は朝日新聞電子版アピタルに365日、毎日、医療記事を書いています。毎日読んで頂いている方もおられるかもしれませんが、実はまさに今日「悪い在宅医の見分け方」という文章を書いてきたところです。(笑)今日は読者からの質問に答えました。「在宅医療を受けていたが、がんが悪くなってきたら、緩和医療はできないので病院に入れ、入れと勧められた。それでも自宅にいたいと主張したが、無理やり病院に入れられた」みたいな投書が舞い込みました。「長尾先生が書いている在宅医療は嘘だ」みたいな内容です。実はスライドにも書いたように、在支診の「チェーン化」という問題があります。チェーン化とか、フランチャイズ化で全国展開して、儲けようというグループが出てきています。顔が見えない医師たちが、市外から尼崎の老人マンションにどんどん入ってくるというのが阪神間の現状です。悪い在宅医の見分け方は簡単です。「往診してくれるかどうか」を聞くだけ。悪い在宅医は、往診をしません。電話をかけたらコールセンターの事務員さんが出てきて「そうですか、大変ですね、今から自分で救急車を呼んで、勝手にどこか病院に行ってください」という対応をするのが悪い在宅医です。(スライド22)

 最後に「地域包括ケアシステム」についてお話しします。白紙撤回を期待している医師会の先生の声をよく聞きますが、もうこれはもう変わりません。2025年まで、これでいきます。他にいい方法がないのですね。これしかないということで、もはや好き嫌いじゃなくて、これをみんなでこれを、やっていくしかないのです。少し考えれば、これはまさに慢性期医療そして慢性期介護そのものであることに気がつきます。病院も在宅も一緒になって、また福祉も介護も行政もNPOも全部一緒になってやるのが地域包括ケアです。みんなが集う場も必要です。 島根の「なごみの里」の柴田久美子さんという人を知っていますか?「看取り師」という人です。看取る時に一緒に寝てくれるおばさんがいるんですよ、変なおばさんが。(笑)でも在宅看取りの時にそんな人がいてくれたら、ちょっと助かりますよね。昨夜、私の地域の多職種での勉強会で、彼女の講演を聞きました。みんな泣いていました。なんというか、地域、地域で死生観を共有していく、そういった時代です。そして、私は「マジクル」という言葉を大切にしています。これは造語です。ごちゃまぜになる、交わって狂うとか、マジで狂う・・・もう何でもいいんですけれども、みんなでマジクル時代なのです。職種を超えて一緒になる、フラットになる時代。死生観もそうです。 私が今日ここにいること自体も、みなさんとまさにマジクっていると考えます。病院と在宅では、また医療と介護では、終末期の価値観の違いがまだ相当あります。しかしこれからは終末期の価値観の差を埋めて、共有していく時代。死生観においても、シームレスな連携を模索する時代です。

 おかげさまで、7月に出版された「平穏死・10の条件」という本が、現在8刷りになり10万部を突破しました。しかし先日、主任ケアマネ研修会で100人にこの本の存在を知っている人を調べたらなんと、0人でした。皆さん、ちょっと、ここでちょっと質問していいですか、今日もちょうど100人ということで。

 「この本を買った人はいますか?」 1人、2人、3人……。ありがとうございます、4人ですね。じゃあ、知っているという人は? ありがとうございます。今日は数%でした。今までで最高です。0%から数%に上がりました。嬉しい!ぜひ、先ほど言いましたように病院のスタッフに読んでほしいのです。すでに10万人もの市民に共感していただいたと考えています。この本を読んだ感想、素朴な疑問がたくさん、山のように届きます。それを朝日新聞電子版で毎日、一問ずつ答えています。これらは誰でもネットで無料で読めます。これは入棺体験のスライドですが、今日は詳しい話はできませんね。そうそう、日刊ゲンダイにも毎週火曜日に「医者も知らない平穏死」というタイトルで連載しています。さらに日本医事新報、医療タイムスにも毎月連載しています。来月「胃ろうという選択、しない選択」という一般啓発書がセブンアイ出版から出ます。この本についてもまたご批判を仰ぎたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。(スライド26)

 
シンポジウム 「医療と介護の「絆」を考えるV」
座長:桑名斉、大川博樹
シンポジスト:プレゼンテーション講師4名
大川

 それでは皆さん、パネルディスカッションを始めます。まず、座長の桑名先生から一言お願いいたします。

桑名

 まず、各先生方の中で「もう一言」とか、「言い忘れた」ということがありましたらお願いいたします。では猿原先生、お願いいたします。

猿原

 薬剤という異物を入れること、例えば点滴は本人の許可がないと身体の中に入れられないという考え方が根底にあるんでしょうか。認知症の高齢者に限った話ですが、末期においては高齢者の意思を明確に確認できない。従って、積極的に薬剤を入れるという行為はしていないのではないかと思います。

 急性期の場合はまた話が違いますが、いわゆる慢性期の最後のところでは、そういう話になってきているような感じですね。従って、海外では認知症高齢者の医療というのは、かなり早い段階で引き上げる傾向にあるような気がしています。ところが、日本は文化的背景も違いますし、宗教観も違うと思いますので、誤解を恐れずに言えば、ダラダラと、最後の最後まで一生懸命にやっている。

 現実には、非常にエコノミックな理由なのでしょうが、そうした現場からどんどん人手を引き上げている。介護保険においても、例えば介護報酬が他の施設に比べて高いので老健へ行きなさいという政策の中に、やはり人手を引き上げるという考えが根底にあると思うのです。

 しかし、それでは将来的にわれわれも疲れ切ってしまう。働く側が疲れ切っちゃいます。「燃え尽き症候群」みたいになってしまう、欧米化される危険性があるのではないかと感じます。以上です。

桑名

 はい、どうもありがとうございました。会田先生、お願いします。

会田

 はい。先生方のご講演、大変勉強になりました。ありがとうございました。恐らく、今日、ご参加くださっている皆さまは、長尾先生のお話を聴かれた後で「あれ、ちょっと会田の言ったことと違う」と思われるところがあったと思いますので、まずその点について、お話ししたいと思います。

 長尾先生には、私どもの研究班の活動についても何度も触れていただいてありがとうございました。お話しのなかで、いったん始めた胃ろう栄養法を終えて看取るということについて長尾先生は、ある弁護士さんが「これは殺人罪になると語っていた」とおっしゃいました。会場の皆さんも、そのお話が多分気になっておられると思うんですよね。

 病院の顧問弁護士さんは、病院で法律上の面倒が起こるのを防ぐ役目ですから、治療の中止に関わるようなことは「しない方がいい」と、通常、おっしゃるかと思います。ですが、「本人にとって必要がない。治療継続はかえって本人の負担になる」と、本人の最善を考える家族や医療者が決定したことについて、その通りにしたら殺人罪になるのかというと、私には大いに疑問です。

 こうした病院の顧問弁護士さんの発言をめぐる問題は少なくないと思います。実は私が救急医学会で発表した際に、私と同じセッションで発表をなさった医師がおられたのですが、その先生は、ある公立大学の病院の倫理委員長でいらっしゃる、とても立派な先生なんですが、その先生が、自分の病院で臨床的に脳死と診断した患者さんについて、「その状態になったらもう治療をやめて看取ってほしい」という本人の事前の意思表示があったので、この患者さんについて人工呼吸器の使用を終了するかどうかを検討したときに、担当の医療チームでは、「これは呼吸器を止めて看取るのがよいでしょう」という結論になった。

 しかし、人工呼吸器を終了して看取りということは、やっぱり現場の医療者だけでは不安なので、その病院の倫理委員会に諮った。その倫理委員会では、「今の時代の流れでは、この状況であれば人工呼吸器の使用を終了して看取ることが本人にとって最もいいし、これは医療の選択として適切だ」という結論を出したのですが、その倫理委員会が終わる時に、メンバーの1人が「顧問弁護士にきいてみよう」と言い出した。それで、「じゃあ、そうですね、法律家の意見は重要ですね」ということで弁護士さんにきいたところ、「それをしたら警察が来ると思います」とおっしゃった。

 それで結論はどうなったかと言いますと、現場の医療者も家族も「本人の意に沿って看取ってほしい」と言っているのに、しかも病院の倫理委員会は「これが医療の妥当な選択」と言っておきながら、顧問弁護士の一言によって結論がすっかりひっくり返ってしまった。

 しかし、「顧問弁護士さんがこう言いました」と言っても、治療の差し控え、つまり本人にとって必要のない医療行為をしないということは、臨床上の決定であって弁護士には関係ないことです。同様に、いったん始めた治療行為であっても、「本人にとって必要がなくなった、あるいはすでに負担になっていれば終わる」というのは治療の一環であって、治療上の意思決定であるわけです。すみません。長くなってしまいました。

桑名

 どうもありがとうございました。西川先生お願いいたします。

西川

 ありがとうございます。僕も今日のシンポジウムに参加させてもらって非常に良かったと思います。ほかのシンポジストの先生方とだいたい価値観が近いということが分かって良かったと思います。僕自身は、現場のチームとしてどう活動すべきかを、本当に現場チックな話をしたいと考えてお話ししました。

 先ほどの講演で、僕自身は言いたいことを言えました。こんな質問が欲しいなと思うことがあります。例えば、「本人の意思を尊重しきる」ということをテーマに今日話をしてきたと思うのですが、家族と本人の意思が違っていたらどうかとか、たぶん現場の一番の問題だと思うので、私たちはこうしているということを、後から発言してもらえたら嬉しいと思います。また、医学的判断と本人の意思のどちらを優先するかということ、本人の意思だったら医者はそれを全部聞かなければいけないのかなど、現場の問題があれば事例を挙げてもらえると議論が活性化できて嬉しいと思います。以上です。

桑名

 ありがとうございます。長尾先生、お願いします。

長尾

 3点申し上げます。1点は、先ほどの顧問弁護士の問題ですがちょっと言葉足らずで申し訳ありませんでした。私が遷延性意識障害のある在宅患者さんの人工栄養を中止しました。リビング・ウィルがありましたので、在宅医療の中で中止しました。家族も中止を強く希望しました。入院していた病院では、中止してくれなかったんです。そこで、「中止してくれないから病院を訴える」と家族が主張されました。その家族が私のところに相談に来られ、結局、自宅に帰って来られました。それで、実際に中止したら10日後にお亡くなりになりました。これまでの私の経験の中で、限りなくグレーに近いシロというべきケースでした。その状況をテレビ局が撮影していました。そして実際に放映される予定でした。しかし放映直前になってそのテレビ局の顧問弁護士が、「社内コンプライアンスに引っかかるのでダメだ」となりました。

 なぜか? 「それを放映すると、長尾医師が逮捕される」と言われました。それはそれで、私はよかったんですが。(笑)こういう問題は、誰かが逮捕されないとダメなんですよね。議論がなかなか盛り上がらないし、ちょうど休みたかったし、逮捕されてもいいかなと思いました。しかしそのあと「長尾先生、それでは済まないんですよ」とも言われました。「家族も殺人ほう助罪で一緒に牢屋行きですよ」と、顧問弁護士に言われました。

 要するにテレビ局としては、放映することで医者や家族が逮捕されるような放映はできないという意味のようです。結局、こういう議論になってくる。ガイドラインに沿って実際にやっていることも、メデイアのフィルターを通すとやっぱりそうなってしまう。これが現状だということで、追加させていただきました。これは宣伝になりますが、福井で11月に日慢協の学会があります。そこでまた同じようなことを話しますので、ぜひ皆さんにも来ていただいて議論させていただきたい。

 そして、来年3月30、31日、もう年度の一番最後です。松山市で在宅医学会があります。メインシンポジウムは私が司会で、各医学会のガイドラインのすり合わせをします。すなわち、日本老年医学会、日本透析医学会、ちょっと透析医学会から出せないかもしれないと言われていますが。日本緩和医学会などのガイドラインを、それぞれの学会に代表者に出ていただいて在宅現場でどう使っていくかのすり合わせをします。どうガイドラインを「統合」していくかです。今は、縦割りのガイドラインになっていますが、横糸を通してみようという試みをします。ぜひ松山においでください。よろしくお願いします。メディアの方もどうぞ。ついでに来年6月22日に緩和医療学会が横浜で開催されますが、その中で終末期医療のシンポでもお話をする予定です。緩和医療も大事ですので、ぜひ来てください。

 最後に3点目です。「在宅、在宅」と国が言う割になぜ在宅がそれほど広がらないのか?これはやっぱりね……。この際、はっきり言いましょう。開業医の労働問題があります。いままで勤務医の労働問題を扱ってきました。これはパンドラの箱と呼ばれ本にも書いてきました。在宅医療を推進していくと、開業医の労働問題に関わることに気がつきました。開業医は事業主ですから、開業医の労働問題という概念はそもそも存在しません。よく「24時間365日なんて俺はイヤだ」と言う開業医がいて、「そんなわがままな医者がいるのか」みたいな論調になりますよね。しかしよく考えたら、それは当たり前の主張かもしれません。開業医も人間です。ですからその辺の事情にも踏み込まないと、地域における「エンド・オブ・ライフ・ケア」ということは、いくら綺麗事を言っても現実には前に進まないかもしれない、ということを追加させていただきます。以上です。

桑名

 どうもありがとうございました。本日、会場からのご質問がたくさん寄せられております。通常の学会などでは、3人ぐらい質問すると時間がなくなって打ち切られますので、質疑応答の時間は十分にありませんが、今日はものすごく多いので、みなさんのご期待に沿えるかどうかは分かりませんが、できるだけご紹介したいと思います。

 まず、猿原先生への質問からいきたいと思います。先生のスライドの「その他」について。このグラフは国立社会保障・人口問題研究所が出したものだと思いますが、「死亡診断書」との関係などについてもう少し解説をお願いいたします。(16ページ、スライド7)

 それから、ちょっと大きな話題になりますが、「多死時代」について説明していただきたいというご質問です。よろしくお願いいたします。

猿原

 2030年に死亡場所が不明とされる「その他」約47万人は、これから増えるであろうサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)などですね。特別養護老人ホームのように、あまり医療系が関与していない所で死んだときに、かかりつけの先生もいらっしゃらない。そういう時の死をどのようにして補完していくのかということです。

 そこにおける「死亡診断書」については、ちょっと誤解があるかもしれませんけれども、言いたいことは「死亡診断書」の書き方が緩やかになっていく方向にあるのかなということで、お示ししたものです。

 それから、2番目のご質問の「多死時代」について。今、110万人ぐらいでしょうか、死亡していく方々は。近い将来には、150万、160万人ぐらい死ぬという推計もありますね。しかし、死亡者数が増えるだけではなくて、それと同時に少子という現象が起きています。今、1人の女性が一生に産む子供の数が日本では1.3ぐらいと言われていますので、子どもの数がどんどん、どんどん減っていく。減っていくんだけれども、死亡する方々が増えるので、スライド4ページ、「年齢区分別将来人口推計」というものを出したのですが、減っていく子どもたちが多くの死を看取らなければいけない時代が来る。それを「多死の時代」というふうに大阪大学の石倉先生が命名していたので引用したということです。よろしいでしょうか?(15ページ、スライド5)

桑名

 ありがとうございました。次に、会田先生へのご質問がたくさんございます。まず、インフォームドコンセントと意思決定の違いについて、もう少し説明をしていただきたいということです。

会田

 インフォームドコンセントと意思決定は、「違い」と言うような対立する概念ではありません。意思決定のプロセスにおいて、本人から直接その医療介入についての同意が取れること、取れる場面においては取るのは基本ですし、それは法律上も求められていることです。ですから、本人が自分で意思決定できるときにはインフォームドコンセントを取るのが基本です。

 ただ、私が講演の最初のほうでお話しさせていただいたのは、日本人に「自分で決定しろ、自己決定しろ」と言っても、なかなかそれが難しい場合もある。特に、高齢者の場合には難しいことが多いと思います。今日は、特に終末期医療のお話なので、自己決定というのがどのくらい、絵に描いた餅ではなくて現実的なお話になり得るのかと言うと、「なかなか難しいんじゃないでしょうか」というお話をさせていただいたわけなんですね。

 そもそも自己決定という概念が出てきたのがどういうところなのかと言いますと、いわゆるアメリカの公民権運動に端を発したもので、権力や抑圧に対して、「弱者よ立ち上がれ!」という運動の中で出てきたものなので、そもそもこれを日本の医療現場にそのまま当てはめるということになると、なかなか難しいところが出てくるのではないでしょうか。

 いろいろな物事をはっきりと表明しない日本人、特に高齢者世代は自己主張しないように教育されてきた人達なので、何らかの発した言葉、あるいは書いたことというのは、思っていることの一部の表現ではあるけれど、すべてではないことが少なくないのではないでしょうか。それよりも、その人のその人らしさとか、その人の人生を尊重するという意味でその人を大切に思う、そのような方法でみんなで意思決定していけばいいんじゃないでしょうかというお話を私はさせていただいたと思っています。

桑名

 ありがとうございました。次は、経過が長くて病状が変わりやすい患者様に対して、その変化に伴ってご家族の意思、意見が変わってしまう場合に、意思決定を一緒にうまく相談できるような方法があれば教えていただきたいという質問です。

会田

 患者さんの経過が長くてご家族の意思も折々変わったりする。その揺れ動く気持ちというのは自然なことだろうと思うんですね。

 先生方、現場の皆様は本当に大変だと思うのですが、揺れ動くのはそれはそれで当たり前なんだというような認識を持っていただき、いったん右に傾いたけれどでも、「ちょっと待って、やっぱり」と言ったら、それはそれで「あ、そういうふうに悩むこともありますよね」と受け止めていただけるといいのかなと思うんですね。

 私は、一部ですが患者家族調査というのもやっておりまして、それによりますと、一緒に考えてくれた医療者、ドクターでもナースでも他の職種でもケアの方でも、一緒に考えてくれて、一緒に「そうだね」って言って、「そういうのがいいかな」って一緒に悩んでくれたその軌跡があると、その医療ケアチームに対する信頼度、尊敬度がかなり上がって、この一緒に悩んだっていう軌跡が、ご本人様が亡くなった後で「あーそういえば、あの時に悩んだけれど、一緒にこういうふうに医療者に考えてもらって、結局こうしてお婆ちゃん亡くなったけど、あれはあれでよかった」とご家族が納得される。それはグリーフケアにもなると思います。

 お時間のない中で毎日大変だとは思いますが、ご家族のお気持ちが揺れ動いても「当然だよね」と思ってほしい。「なんだ、昨日と話が違うじゃないの」ということではなく、「そうだよね」という大きなお気持ちでご一緒に考えていただけるといいかなって思うんです。

桑名

 ありがとうございました。

大川

 西川先生にいくつかご質問が来ています。質問の共通点は、「エンド・オブ・ライフチーム」というのはどういうメンバーが加わってやっているかということ。それから、そのチームで、特にMSWや医師としての関わりですね、それから患者さんのご家族との関わり、それで具体的にもう少しそこのチームのですね、やり方などに関する質問です。

西川

 チームのメンバーは、がんの緩和ケアチームが身近にいらっしゃらないと分からないかもしれないですが、それとあまり変わらないようにしています。というのは、緩和ケアの流れをがんから非がんにも誘導したいので、がんの緩和ケアチームを基準にプラスアルファして活動しているからです。違うところがあるとすれば、例えば、精神科医でも、当院の場合は認知症などに長けた医者がチームに所属しています。「リンクナース」のように高齢者医療について専門性の高い看護師を入れてみたりもしています。リハビリスタッフも加わります。がんの緩和ケアは、専従の医師と専任の薬剤師と専従の看護師、そういう基本3職種に加えて、リハビリ、MSW等々です。栄養士さんとかね。そういうスタッフも全部チームに入っています。ですから、基本的には一緒です。ただ、高齢者ケアに強いスタッフを入れているところだけが違う。チーム活動のやり方も、ほとんど、がん緩和ケアチームと同じように活動しています。がんの緩和ケアチームとまったく別物と思われたくないというか、がんの緩和ケアチームが、非がんや高齢者ケアにもとりくめるような流れを作りたいという私どもの意図があります。

大川

 ありがとうございました。もう少し具体的な話になりますが、チームの中でMSW、ソーシャルワーカーの役割として期待されていることをちょっと教えてくれますかという質問があります。

西川

 がんの緩和ケアチームと一緒です。コアメンバーとサポートメンバーという2つに分かれていて、コアメンバーは医師、看護師、薬剤師です。サポートメンバーの中にMSWが入っています。がん緩和ケアチームと何ら変わりはないと申し上げます。「がんの緩和ケアチーム」と「エンド・オブ・ライフケアチーム」ではMSWの活動内容は、一緒だと思います。チームの価値観を一緒になるように、特に認知症や高齢者に対して、「判断力がない人にどう対応すべきか」という価値観が一緒になるようにしています。一緒に価値観を共有するような努力は他のチームよりよくしていると思いますが、「何をするのか?」という点は一緒だと思います。「家に帰りたい」と言われたら、家に帰るためのサポートをする。ですから、MSWの活動に変わりはないとお答えをしたいと思います。

大川

 はい、ありがとうございました。長尾先生、「施設で『平穏死』をするためには、どんな医師が必要でしょうか」という質問が来ています。

長尾

 ありがとうございます。先ほどの猿原先生のお話にもありましたが、施設では平穏死がしにくいという声をよく聞きます。例えば鳥海房枝さんで有名な特養「清水坂あじさい荘」では、バンバン看取って、正面玄関から見送っているという特養もあるのですが、やっぱりまだ一部なんですね。

 老健も同じですね。一般の老人ホームなどでも、看取りはなかなか難しいと聞きます。企業の内規で、施設で死なれたら困るから必ず救急車を呼んでとか、病院に行けと定められています。トラブルを避けるための企業方針ですね。

 実は、医師が外付け、内付けということについて、特養は末期がんのみ外付けでした。外から医師が入れたのが、今回はもうちょっと広がりました。サ高住(サービス付き高齢者向け住宅)は一応居宅です。問題は医師よりも訪問看護だと私は思っています。訪問看護が施設には上手く入れないんです。企業系の施設では、看護師が訪問看護と称して昼間だけちょっといるのですが、イザという時に必要な看護が提供しにくい環境です。看取りをするのは、実際は訪問看護師ですよね。医師は「死亡診断書」を書くだけです。お答えになるかわかりませんけれど。施設に訪問看護師がうまく入れることが一番だと思います。

 もちろん医師も外付けなら外付け、内付けなんて中途半端ですね。嘱託医は、なんかボランティアみたいな安い給与で、「どこまでやらさせるねん」っていう感じですよね。あれは改善しないと思っています。最近よく、施設での看取り、看取りって言われますけど、現状を見たら制度がそうさせない、ということでございます。それでお答えになってるかどうか分かりませんが、要するに施設での看取りには課題山積です。厚労省の方、今日はおられないですか?施設での看取りをもっとやり易い環境にしてほしいことを、要望したいです。

桑名

 ありがとうございました。西川先生にご質問です。「3本の柱」の所でしょうか、「本人の意思に合う」「尊重された」というのは、どういうことから判断されているのでしょうか。それから、「3本の柱」とナラティブの関連、あるいは相違点についてお願いいたします。

西川

 はい、分かりました。ご質問ありがとうございました。本人の意思をどう判断したかは、すごくあいまいな判断であるということを最初に言っておきます。ですから、先ほどのように「(尊重された割合が)何パーセント」と示すのも、科学的には適当ではないかもしれません。チームで、「本人だったらこう考えただろう」というのを辛抱強く話し合うだけなのです、家族と一緒に。「多分本人はこう考えた」というふうに考えがまとまって、その通りに最後できたら、本人の意思を尊重できたと考えます。科学的ではないナラティブなデータと考えてください。

 「3本の柱」とナラティブとの関係については、「過去」に、アドバンス・ケア・プランニングとか、アドバンス・ディレクティブが残っているかどうかというのを確認しますが、本人がその人の物語を書き記しているものを確認するわけですから、まさにナラティブです。「現在」も、微細のサインをキャッチするわけですから、ナラティブですね。当然、「現在」というのは「過去」を背負ってきているわけです。ナラティブだと思います。「未来」に対しての最善の利益というか、最大の恩恵を考えることは、なかなか難しいけれど、過去と現在という物語を背負って、「将来この人はどういう物語を歩みたかっただろう」というような観点で考えます。意思決定の「3本の柱」全てナラティブだと思います。こんな答えでよろしいでしょうか。

桑名

 はい、ありがとうございます。他に胃ろうの問題についてのご質問もあります。「胃ろうが必要な方もいるのではないか」と。「全部すべきではないという風潮はとても疑問を感じる」というご意見です。

 これは、われわれの会としても全く不要とは考えていません。胃ろうが適応する場合もあるわけです。回復している方も現在、現実におられるわけで、胃ろうをしないという風潮には必ずしも賛同してきていない、ということをご理解いただければと思います。

 それから、会田先生へのご質問ですが、法律家ではなくて、警察や検察の現場への啓蒙と合意形成はされているのでしょうか。先生へのご質問でよろしいでしょうか。

会田

 はい、ご質問ありがとうございます。現場への啓蒙ということですと、例えば今日のような講演に呼んでいただいた時に、皆さまがご心配になっていらっしゃるような法律問題は、現在は意思決定プロセスのガイドラインに沿っていただければ問題ないですというお話をさせていただいております。実際に私たちのガイドラインに、名前を公表して賛同するとおっしゃってくださっている法律家もこれだけおられて、というお話をさせていただいております。

 これまで日本では複数の医学会とか病院関係の組織が終末期医療のガイドラインを作ってきましたけれど、ガイドラインに関して法律家に意見を聞く取組みをしたのは恐らく私たちが最初だったのではないかと思います。

 なぜこういうことしたかと言いますと、私たちの研究班の重要メンバーである東京大学法学部の樋口範雄教授は、2007年の厚労省の「終末期医療の決定プロセスガイドライン」を作った委員会の座長ですが、あれを2007年に発表したときに、刑事免責要件の記載がないことについて批判がありました。特に現場の医療者からは、「法的な免責の要件が何も書いていないのでは役に立たない」と言われて、非常に残念な気持ちだったそうなんですね。

 樋口先生としては、医療現場のこと、終末期医療やケアのことは法律で画一的に決めるものではなく、例えば条件A・B・Cが揃ったらドクターは免責とか、こういうことではなくて、一人ひとりに対して本当に本人が望むことを行い、その人の人生の集大成をみんなで支える、このようなやり方で、つまり画一化しない方向こそが人々が望んでいることなのではないか、ということで、このような決定プロセスガイドラインにしたのです。 

 そこで、2007年の厚労省ガイドラインの時から一歩、二歩先に進むために現場の医療者が心配しているのが法律問題であるなら、これは現場のアウトサイドにいる研究班が「大丈夫」と言っただけでは説得力がないので、刑法学者にも最高裁判事でいらした方にも意見を伺いました。裁判官を含め法律家の方にお伺いして、臨床現場ではこれが妥当な意思決定の仕方であって、そもそも臨床現場のことには警察も裁判所も関係ありませんということを言っていただいたわけなんです。

 今日、参加してくださった皆さまは、私がこういうことを言っていたとか、ということをご自分の病院やその他の医療機関や介護施設にお戻りになった後でおっしゃっていただくと、少しずつこういう考えが広まっていくかなと思うのですね。

 そうすると、大事なことは一体何なのか、本人にとっての一番良いことを探って、それを実現することであって、そのために、もし治療の終了が必要ならばそうするというのは、自然な臨床上の意思決定であって警察は関係ないということを医療者であれば納得してもらえると思うんですね。

 そもそも、そこに警察が介入するという考え方のほうが、社会的には馴染まないと思います。誠実で良心的な医療者が自分でやるべきことをやっていて心に恥じることが何もないならば、なぜこれが法にとがめられる恐れがあるのか。

 そういうことで皆さんに臨床でやっていただければ、次第にそういう考えが広まっていくのではないかなと思うんですね。家族としても、それが一番良いことだと納得できれば、あとは警察問題ではないということになると、日本での世間体と言いますか、社会常識のレベルで段々変わっていくところはあるかなと思います。

猿原

 発言よろしいでしょうか。昨年ですが、組織体が違いますが、全日本病院協会(全日病)で、老人保健の補助金をいただいてターミナルケアについてのガイドラインがどうあるべきかということを調査研究しました。

 その背景には、今先生からお話があったように、われわれはやっぱりお縄を頂戴するのはわれわれであって、いくら言ってもですね、なかなかそういう文化が育ちにくい。いろいろなガイドラインが出されて4つも5つもありますが、そういうのを検証してですね、そして全日病の会長さんは、当会の前の会長さんの木下先生ですが、そこのところで色々調べました。

 その結果、結論は何だったかというと、宗教家、法律家、いろいろな方のお話を伺いましたけども、「日本はなかなかまとまらない」という。補助金を頂いて結論がまとまらない。やはりターミナル、特にこれから増えるであろう認知症高齢者で、自分の意思決定がうまくできない人たちの終末期の医療をどうするんだというところの検証がやっぱりできなかったということです。

 強制的に、「ここで手を引きなさい」とか、そういうことが決められることの怖さというのは、やっぱり重々われわれも承知していかないといけない。今のような形で議論を重ねて、積み重ねていくその歴史が将来的に日本の文化を1つ形成していくものだと思います。結論が出ないことを話し合うということは非常に重要だと思います。

 今日みたいな、老人の専門医療を考える会の企画というのは、これからやっぱりいろいろな所で開催され、将来的に200万人とか300万人と言われる方々が認知症になられて、最後はやっぱり死を迎えるわけで、その中における医療をどのようにするのか。「コントロール」という言い方はおかしいですが、どのようにしていくのか。そのコンセンサスを得ないと、われわれも非常に不安です。

 私の和惠会記念病院は、100床の認知症疾患、療養病棟、介護保険でやっています。介護保険の中には非常にいい仕組みとして担当者会議というのが義務付けられています。そういう会議を頻回に行いながら、その都度その都度、最低限でも4枚の紙を交わす。

 途中で症状が悪化すれば6枚、7枚の紙を交わしながらやっています。そういうふうにしないと、職員だって不安になるので、その担当者会議を利用してやっています。しかし、どうしたらいいのかよくわからない。桑名先生に考えていただければと思います。

桑名

 突然、振られました。まだ先生への質問は終わっていなくて、先生の病院で意向の確認をやっておられますが、家族からのサインはどういう方から、何人からもらえているのか。それとも、代表1名でしょうか。

猿原

 代表1名です。代表1名で、介護上はキーパーソンと言われる人で、法的根拠は全くありません。全くありませんが、頻回に面会に来ていただけるという範疇でやっています。それを巡って兄弟間の争い、親族間の争いというのは時々あります。

桑名

 介護保険下ですと、「重要事項説明書」というのを説明した時にサインをもらいますよね。あの人がキーパーソンになるわけですよね。

猿原

 そうですね。

桑名

 分かりやすいと言えば分かりやすいですよね。

猿原

 病院側、施設運営側からすると、「誰がお金を払ってくれるのか」というのがキーパーソンになりますよね。

桑原

 はい。

猿原

 それからもう1つは、和惠会記念病院という病院は、精神科のカテゴリーの病院ですので、入院についてはですね、いわゆる任意入院と医療保護入院というのがあります。

 僕が一番避けたいのは、自分の親を背負ってですね、まず避けたいのは、精神病院はやっぱり避けたいと思うんですよね。それから、医療保護入院になった場合には、保護者を決めねばなりませんが、これは家庭裁判所に書類を出して決めます。ですから、精神病院や裁判所の門をくぐらねばなりません。

 これはやっぱり、子どもの心理的な負担というのが相当あると思うんです。自分の親のことに関して、一生涯、縁がないと考えていた精神病院と裁判所へ行かざるをえない状況になります。従い、当法人が運営する「和恵会記念病院」等では、精神科病院ですが、「任意入院」を中心にして、裁判所へ行くという心理的な負荷を減らしたいと思っていますが、中々大変です。入院時に署名できる認知症の方が少ないからです。それでも懸命に説明して、署名を求めます。その病棟を「介護保険」で運営しているのは何故か?と質問されれば、認知症への治療が本当にあるのかどうか疑問を持っているから、と答えています。

 認知症にはゆったりとした療養環境と手厚い介護が必要です。

桑名

 では、長尾先生。

長尾

 先ほどの宗教にちょっと戻らせていただきます。実は今週、日本宗教連盟という団体の集会があって私が呼ばれました。医療界は、30数兆円産業ですが、宗教界はもっとでしょう。税金払っていませんからね。巨大な団体です。仏教系、神道系、キリスト教系全部が集まった日本宗教連盟が、終末期医療のシンポジウムを開くということで、私が名指しで呼ばれました。しかし、これは「シンポジウム」ではございませんでした。ただ長尾和宏を潰すためだけの会でした。それはすごかったですよ。私のブログを読んでください。本当に酷い集会でした。メデイアも酷過ぎて報道できていない、と困っていました。本当に何も考えていないですよ、今の坊さんたちは。(笑)

 「殺人者」を連呼されました。「長尾和宏の言うことを聞くと、ナチスドイツのようになり皆殺しにあって、日本の国が滅ぶぞ」と。御用学者たちは何度もそう叫んでいました。これが宗教界の実態なんですね。結局、8時間も費やし大いに勉強してきました。その後の記者会見も酷かった。僕は、「宗教の教えからしたら、自然死というのはきわめて自然なことなんじゃないですか?と質問しましたが、全然だめです。尊厳死など言うやつは殺人者だと、何度も繰り返すだけです。

 そういえば、全く同じ構図が弁護士会でもありました。4月に日弁連で東京弁護士会主催の全く同様のシンポジウムがあり、そこにも呼ばれました。これも全く同じことでした。悲惨でした。沢山のテレビカメラが入っていますから、どこかに録画フィルムがあると思いますよ。長尾和宏を潰すだけの、ただそれだけの会でした。司会者が野次り、全く議論をさせてくれません。そういう学者さんたちに囲まれました。ALS協会が主導して人工呼吸器を装着した患者さんが沢山、動員されていました。難病や障害者団体に誤った洗脳を施して、無駄なエネルギーを使わせている学者たちの罪は大きいと感じました。

 実は終末期の議論になるとこうなるのはどうも世界的傾向のようです。ヨーロッパでこうした議論をやるときは、警察が必ず出動します。何が言いたいかと言うと、宗教家とか、法曹界の皆さんの中には、きっと心ある方も、いるんでしょう。しかし偉い人ほど悪い!(笑)すみません、本当のことを言ってしまいまして。そういうことなんですよ。結論から言えば。単純に宗教者の団体だから終末期についてをしっかり議論できるだろうと楽しみにして出ていったら、大間違いでした。ある1つのイデオロギーで凝り固まって、こうした議論の余地は全くありませんでした。日本の宗教界や法曹界に未来はない、と思いました、本当に。法曹界や司法界の一番大きな名前がついた集会に名指しで呼ばれて言ったら単なる長尾をリンチするだけの会でした。全く議論させていただけませんでした。今日はこのように議論させていただき、本当に嬉しく思います。

桑名

 先生、有名になると叩かれまして辛いですね。

長尾

 これが宗教なんですね。日本宗教連盟でしたが、まあ、びっくりしました。もう、大丈夫ですか?って感じでした。

桑名

 はい。お怒りがなかなか収まらないようですけど。先生、あの、日本尊厳死協会の尊厳死宣言書の動きをちょっと教えてください。

長尾

 それについては、先週、BSイレブンの「インサイドアウト」という生番組で1時間、詳しくお話しました。YouTubeで観ることができますので是非ご覧ください。マイブログにもアップしています。ところで皆さま方の施設ではリビング・ウィルを書いておられますか。長寿医療センターでのビング・ウィルはいかがですか?

西川

 はい、あります。

長尾

 おそらく日本尊厳死協会と似ているのではと思います。先ほど猿原先生がおっしゃったように、まだ法的根拠はありません。それは全部同等だと思います。要するに、リビング・ウィルというのは紙に書けば、その辺の紙でも自分で書いても書いていれば、これは立派なリビング・ウィルだそうです。

 法的担保はありませんが、きっちり書いているほうが法的根拠は高まるんじゃないかというのが法律家の認識です。リビング・ウィルに、法的担保を与えましょうというのが法制化ということですね。

 尊厳死法制化議連が、中山太郎議員を会長に8年前に立ち上がりました。今は120人の国会議員さんが参加されています。皆さま方の病院で使われているリビング・ウィルと、ほぼ同等であると思います。

 「ほぼ」と言うのは、1点違うんですね。家族の扱いです。家族をどう扱うかということです。すなわち、個人の意思決定が確立しているかどうかです。たとえ家族が反対しても本人の意思を最優先する、これは西洋的な考え方です。しかし日本では、家族全員が発言します。やっと全員一致しても、そこに遠くの親戚が1人反対したらそれで全部ぶち壊しになるとか。その辺の家族の扱いが、実は病院ごとに違っています。いろんな病院のリビング・ウィルをよく読むと扱いが違っています。

 実はそこが一番議論が必要な点で、終末期議論はいつも結局は、家族の問題になってしまいます。日本の終末期医療では、多くの家族が「死を外注化」しています。実は、「自分の最期は自分で決めるぞ!」って言っている人たちも最期には自分で決められなくなるかもしれません。結局、家族の問題なのです。もし家族が決められないのであれば、代理人、あるいは成年後見人という問題になります。

 しかし、先ほどから議論されていますように、精神病院、裁判所など、縦割りの中では成年後見人制度の手続きは煩雑です。また、それに対して司法書士会とか弁護士会が協働できない現実があります。予め後見人をプールしていこうという動きもあります。認知症時代を目前に、後見人制度をもっと簡素化していかなくちゃいけない。 すなわち、リビング・ウィルとか、アドバンスディレクティブは、実はそういう代理人制度や成年後見人制度と両輪で考えていくべきです。現在の成年後見人というのは財産処分とかは任されますが、リビング・ウィルを引き継ぐことは定められていないはずです。そういう法的な隙間があるということです。以上です。

大川

 全部の質問を読むことはできませんでしたが、長尾先生、会田先生などは、いろんな中にヒントなり答えがあったかと思います。まだ時間が10分ほど、5時までには止めたいと思いますので、お帰りの方もいらっしゃいますから。ここでフロアの方からぜひ私が発言したいという方がどなたかいらっしゃいましたら手をお挙げください。早いもの勝ち。誰かいらっしゃいませんか。よく私と目を合わせないようにしますね。当会で一番偉い方の奥さま、斉藤先生。どうぞ。

斉藤

 すみません。霞ヶ関南病院の斉藤と申します。まさかあのー、お声がかかるとは思わなかったんですけど。とても勉強になりました。日々やっていることは、というか現場で考えることは、今日先生方がおっしゃってくださったような同じようなことを悩み、考えているなということで、それが字になって、きちんとまとめてお話が聴けたのが、とても私は今日は良かったです。すみません。感想です。

大川

 他に誰かいらっしゃいませんか。日本で、こういう分野ではトップの先生方になりますので、こんな機会はないのですが。一番前に座っている一番裕福な先生お願いします。田中先生。在宅をやっていらっしゃる人ですね。

田中

 群馬県の「内田病院・いきいきクリニック」の田中です。今日は本当にありがとうございました。私自身は高齢者複合で、病院もあり、老健もありグループホームもあり、特養もあり、在宅もありということで、いろいろなステージでのエンド・オブ・ライフをそれぞれのスタッフと考えています。

 現場で最近強く感じることは、やはり日本人が元々持っている死生観というのが、今までのを振り返ると、「戦争に負けたけれどみんなで生きていこうよ」というような、「とにかく生きなきゃ」というその日本人の歴史にあって、そこから、「とにかく生きなければいけない」、「生きるが勝ち」っていうようなベース、日本人のベースの中で、その文化を少しずつ変えていく必要が多分あるのかなって最近強く思っています。

 私たちが医学部のころに教わった「亡くなることは敗北」。感染症でさえ、高齢者の誤嚥性の感染症でさえ亡くなってしまうことは敗北というところから、徐々に嚥下障害の方は感染症で亡くなってしまっても、もうそれは、ある意味でエンド・オブ・ライフの考え方なんだというふうに、大きく時代が変わっているんだと思いますが、まだまだ一般の方、それから急性期医療をやっている先生方に関しては、「生きるが勝ち」というところの、「何があっても生きなければ」という日本人の昔の感覚っていうか、古き良き強さみたいな、だからこそ日本はたくましく成長したんだと思います。

 そこからまたきっと大きく曲がり角に来ている、国として曲がり角にきているのかなと強く感じながら、日々現場でエンド・オブ・ライフをやっています。そんな中で、死生観というのを恐らく医療関係者や福祉関係者も授業の中に入れていかなければいけない、もっとコマ数を入れていかなければいけないんだなと思っていまして、そのあたりをぜひ先生方にお願いしたいと思います。

桑名

 今日は、この辺りでよろしいでしょうか。皆様、本日は本当にありがとうございました。この問題は、結論らしい結論が出ないのですが、やはり一番重要なのは、われわれがどこに視点を置くかということではないでしょうか。

 視点は患者さんやご家族に置くとして、そこにどうアプローチするかということに尽きると思います。アプローチの仕方が病院、施設、あるいは在宅、それから、最近の「サ高住」などの住まいが出来てきていますが、それぞれの場所の違いはありますけども、視点をずらしてはいけない。そのために大切なことは、どうコミュニケイトしていくかということだと思います。当会で2回のワークショップをやった時の結果でもありますが、結局、患者さん、家族とわれわれのコミュニケーションをいかに良くするかが1つ。

 それから、われわれの病院の中でも、「あの先生が言うとせっかくの議論がめちゃくちゃなっちゃう」という話がいっぱい出ました。だから医療者同士で、病院全体で、介護施設の中などで良いコミュニケーションを作る、そこがまずなされないと、次に進まないんじゃないかという議論になりました。

 今日のお話の中でも、それぞれの立場は違うのですが、やはり同じものは、いかにうまく、しっかりとその関係性を築いていくかということに尽きるのではないかと思います。

 今、緩和医療の世界では、「日本緩和医療学会」と「日本死の臨床研究会」があります。これまでは、がんに関する議論が多かったのですが、この2年ぐらいでしょうか、高齢者や非がんの緩和ケア、あるいはターミナルケア、エンドオブライフケアについてもシンポジウムで取り上げられるようになりました。さらに、終末期に関するいろいろなガイドラインが示されてきておりますので、これから当会が議論を集約させていく時期に来ているのではないかと思うのです。そういう意味で本日は、4人の先生方のお話はとても有益でとても勉強になりました。本当にありがとうございました。

 
閉会挨拶
藤井 功 (老人の専門医療を考える会副会長)

 皆さんご苦労さまでございました。猿原先生、会田先生、西川先生、長尾先生どうもありがとうございました。

 エンド・オブ・ライフは非常に難しいところで、私も特養をやっていまして、今年になって10名を看取りました。「在宅で最期までいようね」って、ご家族とみんなで話し合って最後までいっているのですが、「最後には入院しようよ」っていう話になっちゃう。ナーシングホーム、介護などの施設で過ごしていても、「やっぱり入院させてください。」となり最後の2、3日だけ入院して亡くなるんですね。そういう症例も出てきています。

 ですから、先生が言われた、訪問看護は難しい。医療も、医者も難しいですね、在宅で看取るというのは。軽々しく在宅で看取ると言っても、本当に難しいなって思います。自分の身体を壊しかねないし、つい入院させてしまっている現実があります。だから施設で、特養で亡くなるほうが楽ですね。看護師もいますから亡くなる直前まで看てくれて、最後は呼んでくれる。在宅の場合はそうはいかないですから。

 自分自身まだ、どういう支えをしたらいいかということを考え続けておりますけれど、結局、患者を最期まで看取る熱き思いというのをみんなが持ち続けて、これから高齢者の方をしっかり支えていければ、我々の老人の専門医療を考える会も、何か目標といいますか、結論的なものができてくるのではないだろうかと思っています。

 今日は、これでシンポジウムを終わらせていただきます。皆さん今後のシンポジウムを開催する時も多数ご参集いただきますよう、お願いいたします。本日はどうもありがとうございました。

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老人の専門医療を考える会 JAPAN ASSOCIATION FOR IMPROVING GERIATRIC MEDICINE