老人の専門医療を考える会 - 全国シンポジウム - 内容
第35回 医療と介護の「絆」を考えるIV -胃ろうの現状と課題-   平成23年5月14日 東京研修センター
シンポジウム冊子(PDF版:7.5MB)

  
13:30 開会挨拶 齊藤正身 老人の専門医療を考える会会長
13:40 プレゼンテーション(1)
  山下 晋矢  永生病院 医療技術部長
講演スライド1(PDF)
講演スライド2(PDF)
14:00 プレゼンテーション(2)
  中島 朋子  東久留米白十字訪問看護ステーション 所長
講演スライド(PDF)
14:25 プレゼンテーション(3)
  石飛 幸三  世田谷区立特別養護老人ホーム芦花ホーム 医師
講演スライド(PDF)

14:50

プレゼンテーション(4)
  池田 誠一  NHK報道局社会部 記者
講演スライド(PDF)
15:00 休憩
15:15 シンポジウム:医療と介護の「絆」を考えるIV 〜胃ろうの現状と課題〜
  シンポジスト:山下晋也、中島朋子、石飛幸三、池田誠一
  座長:桑名 斉(老人の専門医療を考える会福会長)
16:30 閉会挨拶 藤井 功 老人の専門医療を考える会副会長
 
開会挨拶 齊藤正身 老人の専門医療を考える会会長
大川

 老人の専門医療を考える会第35回全国シンポジウムを始めたいと思います。今回のテーマはどうする老人医療これからの老人病院Part35、「医療と介護の「絆」を考えるW〜胃ろうの現状と課題〜」です。

 まず、お知らせが2つあります。お配りしております白い紙は、休憩時間にシンポジストの方に質問がある方はお書きいただいて、後のシンポジウムでシンポジストの方にお答えいただくという形で行っていきたいと思っています。用紙は休憩時間に回収したいと思います。もう一つは、アンケート用紙があります。アンケート用紙に書かれたことは、集計しております。貴重な意見が多く参考になっておりますので、ご協力をお願い致します。

 遅れましたが、南小樽病院の大川博樹と申します。本日は総合司会を務めさせていただきます。宜しくお願いします。今、北海道は10度くらいしかないですから、暑くて暑くて汗をかいております。

 会に先立ちまして、当会の会長、齊藤正身よりご挨拶させていただきます。

齊藤

 皆さん、こんにちは。すごい人数ですね。今日のシンポジウムは第35回になりますが、最初の10回は今回の参加者数の倍ぐらいの参加数だったのですが、あるいは逆に一時期50人ということもありました。最近は年2回シンポジウムを開いているためか、定例化してきまして多くの方に参加いただけるようになってきました。特に、今日のテーマは胃ろうということで日頃仕事に携わっておられる方だけでなく、一般の方も多く参加されています。今日答えを出そうという訳ではありませんが、いろいろな意見を聞いて、個々のケースで異なりますが考えていこうということだと思います。

 御承知のとおり、どこの団体も施設も個人も震災の対応におわれている状況かと思いますが、2ヶ月が経過しました。私は埼玉県にいますので埼玉県のことについて少しお話します。当初、埼玉スーパーアリーナに3000人の方が避難されていました。今は騎西高校、という元高校に1400人ぐらいおられまして、埼玉県内のPT、OT、STのボランティア250名の方で、毎日多いときには10名のスタッフで、介護予防といいますか生活不活発病にならないように継続して支援しております。その活動も市民権も得て最近は手を振って下さる方もいるようになりました。時期が2ヶ月になると、私達も避難されている方々も今までと違ってきているように思います。それは自立という事なのかなと思います。昨日も会議がありまして、双葉町の町役場の方もおられました。それまでそんなことは言われなかったのですが、3月11日以前のことを忘れている住民がたくさんいます。以前のことを覚えていないのです。趣味はなんだったのか、今一生懸命思いだしているところですと言われていました。その話を聞いて、脳卒中で入院された方が2、3ヶ月たって、自分の生活を見始めるということを思い出しました。脳卒中になぞらえることがいいかどうかはわかりませんが、慢性期の医療、高齢者の医療に携わるものとしてこれからがんばる時がきたと実感しております。急性期、回復期の期間は過ぎました。このあと長い期間をどう関わってくるのか、テーマが出てくると思います。直接、胃ろうと関係ない話のように思いますが、実は関係のあることだと思います。その方の尊厳、生きる目的をこれからどう考えていくかという意味でも今日の議論が活発になることを期待します。

 最近は震災関連の会議が多くなって、私は、月、水、金の午後に会議に出ています。時々JMATで出かけていますが、一昨日ふと振り返って、自分はもし震災がなかったら何をしていたのだろう。病院で用事がない人間になったのかと一人落ち込んでいました。理事長は元気で留守がいいときっとみんな思っているのかなと思い、今は震災の方に目を向けているところです。

 老人の専門医療を考える会もこれから震災に関わる取り組みが始まるかと思います。そのときには、ご協力いただければ幸いです。本日は宜しくお願いします。時間は少ないので結論が出るかどうか難しいところだと思いますが、議論を深めていただいて、必要があればもう一度開催しようと思っています。ぜひ、みんなでじっくり語り合っていきましょう。ありがとうございました。

 
プレゼンテーション(1)
山下 晋矢 (永生病院 医療技術部長)

 本日はお忙しいところお集まりいただきましてありがとうございます。まずは、このような機会を与えていただきました、齊藤会長をはじめ、老人の専門医療を考える会の皆様に感謝致します。それでは永生病院における胃ろうの現状の課題について発表させていただきます。スライドの枚数も多いため、少し省略して説明させていただきます。ご質問、ご意見がありましたら、シンポジウムや個別にご質問いただければと思います。

 永生病院の概要を説明させていただきます。永生病院は高齢者の亜急性期から慢性期、在宅を切れ目ない医療・介護サービスを行っているのが特徴です。計628床のケアミックス型病棟を有しておりまして、リハビリテーションと在宅サービスに力をいれております。法人関連の在宅総合ケアセンター、地域の老人保健施設、急性期病院、在宅療養支援診療所との連携を行い、地域における療養生活の援助にも努めております。当法人の概要について説明致します。ケアミックスを有する永生病院を中心に、急性期を担う南多摩病院、在宅療養および在宅診療を行う永生クリニック、居住系施設としての介護老人保健施設イマジン、マイウェイ四谷、グループホーム寿限無。在宅を支援する、在宅総合ケアセンター等がございます。

 一般的に言われていることですが、経管導入基準をご説明いたします。第一に自発的に摂取できない状態。摂食嚥下機能の低下、摂食意欲等の障害を有する疾患、長期の栄養管理を要するような炎症性腸疾患、誤嚥性肺炎の治療と予防が挙げられます。次に、正常な消化管機能を有していることが前提となっているかと思います。また、当院においてはある程度生命予後が認められることがあります。80歳未満ですと4週間以上の生命予後が認められること、80歳以上ですと少し長く3ヶ月以上の生命予後が見込まれることが必要としています。発症前を含み患者本人が経管栄養法導入を拒否していないことが前提となっています。患者様に自己判断力がなく経管栄養法導入の事前指示がない場合は、1〜4に関して医学的に有効であれば適応となりますが患者家族の承諾を要することが必要と考えております。

 当院における胃瘻造設の適応基準をお示し致します。まず、8週間以上の長期にわたる経鼻経管栄養を実施する者が適応と考えられます。また、減圧ドレナージ目的、経鼻経管チューブを週に3回ぐらい頻回な自己抜去を行う方、積極的摂食嚥下訓練を実施する方で8週間以上経鼻経管栄養の継続が予想される方、経鼻経管チューブ留置による誤嚥のある方、当初から胃ろうを希望される方が適応されるものとしてあげられるかと思います。

 当院における胃ろう造設の特徴をご説明致します。まず、全例前処置・静脈内麻酔を併用で実施致します。これは、十分な疼痛コントロールを目的としております。次いで、イントロデューサー法を主体として造設させていただいております。これは咽頭常在菌による感染防止、特に咽頭におけるMRSAですとか耐性菌等がある場合がありますので、原則としてはイントロデューサー法を中心としてやっております。また、バルーン型チューブを流出する以外にバンパー型カテーテルを造設するようなプルプッシュ型にしても、原則として腹壁と胃壁を固定するやり方を行っています。これは、抜去事故を防止する目的でやっております。また、周術期を含めて原則として身体抑制等は実施しておりません。これは認知症対策のため実施しておりません。造設前またはチューブ交換時には小腸造影を実施しておりますが、これはダイナミックな消化管機能検査を目的としてさせていただいております。

 腹壁固定による胃ろう造設における様子を示しています。専用の固定具を使い、胃壁と腹壁を固定して造設をしております。

 当院における胃ろう造設数の推移について説明させていただきます。2002年から2010年の9年間の患者様は775名おります。だいたい2006年ぐらいが一番多かったですが、近年やや減少傾向にございます。次に、この775名の患者様の年代別の胃ろう造設数についてご説明させていただきます。主に70代、80代を中心として造設させていただいていますが、なかには、90代の方や100歳を超えられて造設された方もいらっしゃいました。

 胃ろう造設基礎疾患別についてご説明させていただきます。4分の3の方が脳梗塞、脳出血で脳血管障害における患者様で、パーキンソン等の難病の方が7%程度、いわゆる認知症、アルツハイマー病の方を含め6%程度の方が基礎疾患としてありました。

 胃ろうと経口併用を行っている割合としまして平成23年度3月現在におきましてのご説明をさせていただきます。当院における経管栄養実施者数は191名ございますが、そのうち170名の方が胃ろう造設の方です。胃ろうで管理している胃ろう率は全入院患者の28.8%でした。この胃ろうで管理させていただいております患者様170名のうち経口摂取を併用されている方は59名いらっしゃいました。この併用率は35%で約3分の1強の方が何らかの経口摂取を併用させていただいております。完全経口移行による胃ろう抜去症例は、年間4〜5名程度で胃ろうを造設させていただいております。患者様の約2〜3%程度であるということが一応わかっております。

 次に、認知症による摂食・嚥下障害のため胃ろう造設を実施しましたが、栄養状態や身体状況・精神状況の改善により経口摂取が可能となった代表的な症例を提示させていただきます。

 まず、最初の症例は78歳の女性で診断としましてはアルツハイマー型認知症です。入院までの経過といたしましては、平成12年に姉が他界したことによりうつ症状が出現いたしました。平成15年に金属の味がし、食欲がないと訴えがありました。10sの体重減が生じまして、平成17年不眠・無表情となり入院いたしました。平成18年にグループホームに入所されていたのですが拒食と誤嚥性肺炎を繰り返され、当院精神科病棟に入院となりました。入院後の経過といたしましては、入院後3カ月に胃ろう造設を実施させていただいたところ、栄養と内服薬のコントロールが良好となりました。また、作業療法の中で車椅子への乗車を行い、集団活動等への参加が可能となっています。胃ろう造設1ケ月後、STによるリハビリでゼリーを用いた直接嚥下訓練等を実施いたしまして、「何か食べたい」という食思が出てきました。胃ろう造設6カ月後にはゼリーを1個摂取しました。この後、摂取量が少しずつに向上し認知症の周辺症状も落ち着いてきまして、徐々に1食から食事量を増やすことも可能になり、本人の好きなバナナ等の食材を用いまして食思を維持していくようにしていきました。胃ろう造設7カ月後には3食とも経口摂取へと移行し、表情が豊かになり栄養状態も改善しました。3食経口摂取移行後も周辺症状には若干周期的変動を認めたり、体調または精神的に不安定な時期を認めたりすることから、胃ろうはそのまま残して、体調が不良な時には胃ろうからの栄養摂取を時に併用するような状況が続いております。

 次の症例をお示しいたします。この方は90歳の女性です。診断といたしましては変形性腰椎症、認知症がございました。入院までの経過といたしましては腰痛と不眠症のため在宅にてヘルパー、訪問看護の介護サービスを受けていましたが、90歳で独居のためショートステイを繰り返していました。年齢とともに変形性腰椎症と認知症が進行いたしまして、独居困難となり当院介護保険病棟に入院となっております。入院後の経過といたしましては、入院5カ月後の夜間にポータブルトイレにご自身で乗り移られようとされて尻もちをつきまして、この時からややADLの低下が生じてしまいました。入院15カ月後に認知面の低下と円背が進行いたしまして、ADLがやや下がってきましたが、リハビリテーションを実施をすることにより歩行器を使いながらの歩行は可能でした。しかし、入院18カ月後には嚥下機能の低下が顕著となりまして、STの指導のもと食形態を全粥きざみ食からゼリー食まで下げました。しかし、誤嚥性肺炎による発熱を何度も繰り返され、入院19カ月後に胃ろう造設を実施しております。胃ろう造設4カ月後には全身状態と栄養状態の改善に伴いまして、声かけに対して視線を合わせ、笑顔を見せて下さるようになりました。また、STによる摂食・嚥下訓練を継続したところ、胃ろう造設10カ月後には1食経口摂取が可能となりました。経口摂取が可能となってからは意欲の向上を認め、胃ろう造設13カ月後には3食とも経口摂取が可能となり、胃ろうチューブを抜去いたしました。このときには93歳でした。胃ろうチューブ抜去後も数回発熱を認めましたが、経口摂取の継続は可能でした。

 次の症例をお示しいたします。この症例は81歳男性の方で診断は脳梗塞、右不全片麻痺、嚥下障害、誤嚥性肺炎、認知症の方です。入院までの経過といたしましては、4年前に脳梗塞を発症して当院に入院され、リハビリを実施しADLが改善され自宅退院となっております。しかし、4年間たちまして最近認知面の低下と繰り返す発熱のため在宅療養が不可能となり、当院の医療療養病棟に入院となりました。入院後の経過といたしましては、入院時の胸部レントゲンにて右下肺野に著明な浸潤陰影を認めております。そのため、輸液・抗生剤の投与にて加療しリハビリを実施しましたが、嚥下機能の回復は困難でした。また気分の変調が非常に強く、気に入らないことがあると大声で人を呼んだり枕を投げたりベッド柵を外したりするということがありました。また、点滴の自己抜去等も何度も見られました。このため、ティルトリクライニング車いすを用い、ナースステーション近くに場所を移しロビーにて頻回の見守りと声掛けを行っての療養生活を送っております。この方は胃ろうを造設しましたが、抑制は一切行いませんでした。胃ろう造設は先程ご説明したとおり胃壁を腹壁に釣り上げて2針固定を行い、イントロデューサー法においてバルーン型胃ろうチューブを留置いたしました。しかし、術後4病日にて胃ろうチューブを自己抜去されてしまい、発見された後に腹壁よりチューブの再挿入を行ったところ再挿入が可能となり合併症は一切認めておりません。経管栄養を主体とし、お楽しみレベルでの経口摂取を行うことにより、身体および精神状態の方が安定し、再度自宅療養が可能となっております。

 これらの症例のまとめとしまして、摂食・嚥下機能障害を持つ患者様に関しましては「栄養管理」および「食への楽しみ」「誤嚥によるリスク」の三種を考えた関わりが必要だと考えております。「胃ろう」の選択には患者本人、家族、そして関わるスタッフが正しい知識や情報を共有した上で、その人らしい「生きる尊厳」を選択していく必要があると考えます。また、胃ろうはその人のステージにおいて、いつ、何の目的で行うのかが重要であり、適切な時期に適切な選択をすることによって、より安全により豊かな「食」と「栄養」を提供できると考えます。胃ろう造設を行っても、部分的に経口摂取を行うことによる食に対する喜び、楽しみ、誤嚥によるリスクの回避、および生きる尊厳を維持することができるのではないかと考えております。

 胃ろう造設における課題と対策について提示させていただきます。まず、第一に本人の意思が最優先されると考えております。ただ、本人の意思が不明の場合は多職種連携のカンファレンスにおいて家族の考えを充分に聞いた後、経管栄養法導入の有無を家族同席の上で決定するようにしております。また、常に経口摂取の可能性を定期的に再評価し、可能であれば部分的経口摂取を積極的に導入するようにしております。単に高齢であるからという理由だけで経管栄養法の導入を見送るのではなく、多職種連携のカンファレンスを実施して、病状やADLの評価・患者家族の希望を検討することが重要であると考えております。経管栄養法の導入を拒否して、急な衰弱を予防するため末梢点滴を続けながら、例えば、自然な成り行きに任せるという場合には、多職種連携でターミナルケアカンファレンスをご家族同席の上で実施させていただいています。

 定期的にカンファレンスを実施して再評価を行い、以下の1から3の方針を決定することが必要だと考えています。1は末梢点滴を持続する。場合によっては、皮下点滴を行う。2に高カロリー輸液の導入を行う。3に経管栄養の導入を行うといったことです。また、安定して経管栄養法を実施している者が家族からの申し出によって、もう年だからやめてくれといったようなことで経管栄養を中止することは、現在のところ倫理上・法律上の問題を有しているのではないかなと考えております。

 また、明らかに医学的見地から中止する必要がある場合には代替の栄養補給方法を採用しなければなりません。家族参加の上で多職種連携のカンファレンスを実施して、以下の1から2の方針、1は経管栄養を実施する。例えば熱発がなくなれば経管栄養を行って熱発すれば点滴を併用し、これを繰り返す形で実施します。そして、例えば高カロリー輸液を開始して安全な栄養管理を行うことが必要かと考えております。しかし、特にこの6番、7番の問題に関しまして今後いろいろと議論の余地があり、患者本人、家族、医療関係者、社会で考えていかなければならない問題ではないかと考えております。

 高齢者医療の問題についてお示しさせていただきますと、高齢社会を迎え、社会の負担が増大してきています。このため食事が食べられなくなり、介護量が増大してしまった時期をその人の寿命と考える場合も出てきています。しかし、このような考えは、認知症、障害者、社会的弱者の切り捨てにつながる恐れもあります。そのため、評価の方法やタイミングを考えることが重要であると感じております。また、事前に自ら終末期医療に関して考える機会を設ける。あるいは、事前に自ら意思表示をしておくことが重要であると感じております。

 このような終末期医療における意思表示、リビングウィルのポイントといたしまして、いくつか提示させていただきます。まず、有効な治療法の無い進行性非可逆性疾患や悪性腫瘍に罹患し、終末期を迎える場合にどのような治療方針を選択するかということを考えることが重要だと考えます。また、高度認知症となり自己の判断能力を喪失した場合には、どのような治療方針を希望されるかということや認知症となってしまった後の意思決定権を誰にまかせるのかを考えておくということも重要ではないかと考えております。機能的に経口摂取が困難となった場合の栄養補給方法としまして、例えば、経口摂取にこだわるのか、経管栄養を導入するのか、中心静脈栄養を導入するのかといったことに関しても考えておく必要があるかと思います。終末期医療における治療選択としまして、酸素、輸液、経管栄養、胃ろう、高カロリー輸液、気管切開、人工呼吸器、昇圧剤等の治療を希望されるのかどうかといった治療の選択をしておくことも重要ではないかと考えております。

 また、終末期ではなく脳死になったときに臓器提供を行うかどうかということも、他のことを考えるときに一緒に考えておくということも重要ではないかと考えております。同じように、医学的見地からの剖検が必要になったときや、自分に献体が必要になったときにはどうするのかといったことも、何かの機会にいろいろと考えておくことも大切であるかと思います。そして、これらの内容の表明、いつ表明するのかといったタイミングや定期的な見直しが重要であると思います。例えば、意思表示の時期といたしましては20歳となったときや40歳ぐらいで働き盛りのころ、60歳頃で定年を迎えるといったとき、あるいは80歳ぐらいでだんだん終末期が近づいてくるときなどに繰り返し、定期的に見直しを行う。そうして、いろいろなことを自ら考えて、自分の意思を表明しておくということも重要ではないかと考えます。

 以上、ご清聴どうもありがとうございました。

 
プレゼンテーション(2)
中島 朋子 (東久留米白十字訪問看護ステーション 所長)

 皆様こんにちは。今日はこの機会をいただきましてありがとうございます。参加者の方の名簿を見させていただきましたら、私が働いているエリアの病院の方々もたくさんいらっしゃって、いろいろお世話になっている方もいるかと思います。いつもありがとうございます。

 今日、私は訪問看護で在宅という場で活動していくなかで、胃ろうについて普段見ている現状、それから私たちが日頃どのように胃ろうの方と関わっているのかという一部のところをお話できればよいかなと思っています。私は緩和ケア認定看護師の資格を持っています。癌の方達の終末期医療のことも意思決定のことに関わるので、本当に、倫理的な問題に毎日エネルギーを吸い取られているなと感じている日々です。

 東久留米白十字訪問看護ステーションの母体が株式会社ケアーズと言いまして、おおもとは新宿区市ヶ谷にあります白十字訪問看護ステーションでご存知の方も多いと思いますが秋山正子というものが代表をしている白十字訪問看護ステーションの初の支店が東久留米にありまして、そこの管理者をしております。ケアーズとしては市ヶ谷と東久留米の2ヶ所にステーションを持っているのと、市ヶ谷の方では訪問介護、居宅介護支援事業、ボランティアの会というものを運営しております。

 東久留米白十字訪問看護ステーションの利用者の状況ですが、年齢層は乳幼児、幼時から100歳を超える超高齢者までいろいろな方がいらっしゃいます。疾患としては、私のステーションでは末期の方が多いのですが、悪性疾患、脳血管疾患、慢性疾患、認知症、ALSなどの難病、また精神疾患の方も増えてきております。この全体の利用者の方が70名ほどいらっしゃいます。スライドの一番下にも書いているように最近グループホームと施設契約しております。週に1回定期訪問を行っていて、そこが3ユニットありますので27名入居者さんがいらっしゃり、常時約100名の利用者さんを抱えて運営させていただいております。しかし、そのうち1割の方が胃ろうをつけている状態で常時そのような数字の割合となっています。経鼻経管栄養の方はまれな状態になっています。通常の看取りの状況ですが、平均月に4名程度で、2〜5名程度毎月在宅で看取らせていただいている状態です。

 訪問看護がどのようなことを目指すかというと、一言でいってしまうとその人らしく生きること。どんな疾患、どんな障害、どんな認知症を持っていらっしゃったとしてもその人らしく最後のそのときまで積極的に生きることを支えるのが訪問看護かなと思っています。そのためには、患者さん家族のQOLをいかに維持、実現させていくかということになります。今話しましたように患者さんと家族のQOLを大切にしながら生活の場、常に医療者、介護者のプロがいない、あくまでも生活の場で展開していくというところが在宅の特徴となってきます。その人らしさを大切にするという意味では、患者さんの意思の尊重、患者さんの自己決定をいかに大事にしていくかというところに関わらせていただいております。ご本人の次には家族で、家族の思い、家族の意思決定を大事に関わらせていただいています。それに伴って、患者さん家族の人権擁護(アドボケイト)のところでも配慮させていただきながら関っております。

 今お話したとおり、在宅はその人らしく生きるためのQOLを大事にしていきます。そして、医療の場でもない、介護の場でもない、生活の場で生活している患者様に対して生活を中心にその人の生活を大事にしながら、医療、保険のサービスを組み込みながら、その人の生活を維持していくためのお手伝いをさせていただいております。日々の生活をその人らしく送っていただきながら、その延長線上に、穏やかに自然にやってくる尊厳ある死を迎えていただけるようにサポートしていくことが、私達の日々の業務というより役割とさせていただいております。

 今、私たちのステーションの胃ろうをつけている方の状況をお話させていただきたいと思います。常に1割の方が胃ろうをつけられていますが、1番多い疾患は脳血管疾患の方です。次にALS等の難病の方で、現在4、5名いらっしゃいますが、ALSの方達もいます。それから認知症。私のところには子供も多いので脳性麻痺のお子さんたちは6名ぐらいいます。しかし、胃ろうを造って、胃ろうからの栄養のみで日々何年と成長を続け、体も大きくなって成長されているお子さんも多いです。それから遷延性意識障害の方等もいらっしゃいます。胃ろうを造っている方達の介護力の状況を見ると、日中1人になってしまう日中独居の方もいらっしゃいますし、老老介護、皆さんご存知かと思いますが、高齢者が介護をしていて胃ろうの手技にとても戸惑っている方たちもいらっしゃいます。もっと大変なのが認認介護で介護する人が認知症というところでは胃ろうの手技を覚えるのが大変とか、それこそ胃ろうの意思決定のところから大変になってくることがあります。

 次に、ちょっとスライドの訂正をしていただきたいのですが、今私のところにはバルーンタイプとバンパータイプでバンパーの方が多いとなっていますが、反対でバルーンタイプの方が多いです。それは交換が簡単にできるという理由でバルーンタイプが入っています。チューブタイプとボタンタイプで比べますとチューブはどうしても引っ張ってしまう自己抜去の問題があるのでボタンタイプが多いです。

 胃ろうの交換場所は圧倒的に在宅で訪問診療した場合に交換していることが多いです。場合によっては内視鏡下で交換される方もいらっしゃいますし、胃ろうを交換することを目的としながらも、介護者の介護疲労を取るためのレスパイトケアも兼ねて短期入院という形で入院して交換される方もいらっしゃいます。バルーンタイプの方は定期的に家族に固定水の確認をしてもらい、家族が無理なときはそのあたりを訪問看護がフォローさせていただいています。それと自然に抜けてしまった場合としては家族に自然抜去したときの対応については随時説明させていただいていることと、場合によってはバルーンカテーテルを予備的にお渡ししておくこと、もしくは胃ろうの新しいチューブセットを1箱お渡ししております。そして、何かのときには入れてくださいというふうに家族の介護力、認知力、理解力等を含めてケースバイケースで緊急時の対応についてご説明させていただいております。

 在宅であまりトラブルがあることはないのですが、割と多いのは誤嚥性肺炎になってしまって、家で抗生剤によって治療したり、場合によっては入院したりという事はあります。スキントラブルやチューブ閉塞、下痢、抜管といったトラブルは私の経験では少ないかなと思っています。問題となってくるのは、胃ろうを入れている人たちが思うように介護サービスを使えないという問題が生じてしまっているのが現状かと思います。また、脳性麻痺の子供の場合、障害児の場合は通所施設や特別支援学校で胃ろうを注入する場合、誰が注入をするかといった問題がいつも付いて回っております。この場合については、今日は高齢者ということで飛ばします。

 今サービス利用の支障があると話しましたが、具体的には胃ろうを造っているばかりにデイサービスになかなかいけない。ショートステイの受け入れ制限があって、市内にいくつかある施設でも胃ろうのある方は特定のショートステイしか使えないという、ある程度制限があって、そこの施設ではなかなか順番が回ってこないので、なかなかショートステイに入れないという制限があります。また、特養や療養型の病院に入院、入所する際にも胃ろうが入っていることで受け入れが困難になる場合もときどきあります。

 それから、在宅生活を継続していく上では胃ろうの手技に関しては、家族か医療者しか行えないというところで日中独居のような形でお昼の注入を誰がやるのかというところが結構問題になっていることが多いです。グループホームに入所している方が嚥下困難になって胃ろうが必要になったということが去年ありました。私達はグループホームに週1回お邪魔しておりますが、常時いるわけではありません。そのため、このグループホームでは胃ろうの管理ができないということで、その方は退所されて入院して胃ろうを造ったという方もいらっしゃいました。先程話しました、日中独居、完全な独居、高齢者世帯の場合の介護力が充分でない場合をどうするかというところが問題となってきています。

 こういった在宅生活を維持していくためにいろんな問題があるわけなのですが、とりあえず在宅生活を継続していくための工夫で割と多いのが、入院中は1日3回経管栄養を落としていた方が、日中独居になってしまってお昼に注入するのが難しいという場合には、1日2回に切り替えることも起こりえます。これも尊厳として1日3食の食事を2回に減らしてしまうのはどうなのかなと思うこともありますが、どうしてもやむを得ずこの方法を取らないと在宅生活を維持できない場合は、このような方法を取らせていただくこともあります。注入時間の工夫としては半固形食の注入に切り替えて家族が朝、身支度をして、介護をして仕事に出勤するという、朝の忙しい時間帯の時間短縮、もしくは家族が仕事に出ていても昼休みに自分の時間を割いて一旦家に戻ってきてそこで経管栄養を落とすという生活を何年もされている方もいらっしゃいます。その方の場合でも注入時間の短縮ということで半固形食に切り替えることもあります。

 また、日中独居でお昼の経管栄養の問題解決策といたしましては、例えば訪問看護が注入開始のころは誰もいない家に入っていき、そこで訪問看護が注入を開始して落とす。そこで、落とし始めたころにヘルパーさんがやってきて、ヘルパーと訪問看護がバトンタッチして訪問看護は帰る。そして、ヘルパーさんは注入している間の見守りと、終了時にチューブを抜いてもらうということだけをしてもらうということも考えられる工夫かなと思います。それから、もし利用者自身がある程度ご自分でできる人であれば、麻痺があり、セルフケアできないとしても、ある程度ご自分でできて判断力、理解力がある方の場合には、利用者さん自らがやってその一部分の介助をヘルパーさんがやるという方法でなんとか在宅生活を維持していくようなケースもあります。

 私が今日一番お話したいことは、胃ろう造設をするか否かの局面のところにかなり訪問看護が関わらせていただいているので、このあたりをお話させていただきたいと思っております。胃ろうを造った段階で訪問看護が開始になる方もいらっしゃいますし、長年訪問看護を受けていた方がいよいよ嚥下の機能が悪くなって、胃ろうを造るか造らないかの問題が生じてくる方もいらっしゃいます。その場合、頻繁に誤嚥性肺炎等をおこして入院されて、一旦訪問看護をお休みとなっていても、入院中にご家族が訪問看護ステーションに何度も来られ、胃ろうを造るか造らないか相談に来られるケースもあります。そういう場合には後で事例でも話しますが、かなり時間を割いて丁寧に説明させていただいております。そのほかには、訪問看護で関わりながら、例えば難病の方がそろそろ嚥下に問題が出てきて、胃ろうのことを意思決定しないといけないと思われる1年ぐらい前から、嚥下、胃ろうについて折を見てお話をしております。

 どちらにしても、そういう場合にどうやって説明させていただくかというと、私達は医師ではありませんので看護師としてできる範囲ではありますが、まずは患者さん、ご家族の意向を確認すること。それから、適切な情報提供。胃ろうについて事細かに造設するときの手順のことや、胃ろうのタイプの種類、胃ろうを造ることのメリット、デメリット。具体的にこのようなことが可能になる、このような支障が出る、家族にはこのようなことをしていただかなければならなくなるということをきめ細かく説明させていただいています。その時には、リーフレットやDVDといった視覚的な材料を使って、利用者さん家族に情報提供した上で何を選択していくかという迷いのところに、ゆっくり寄り添って時間をかけて意思決定ができるように黒子となって支えさせてもらうことがとても多いかなと思います。このようにとても時間をかけて説明していくわけですけれども診療報酬が付くことはありません。全部ボランタリーなことになりますが、そこは2時間割いちゃったなあと思いながらも、必要なプロセスの支援として割り切って、私達ができる役割として活動させていただいております。

 このように情報提供しながら意思決定を支えていく支障としてはもちろんQOLのことがあります。QOLの定義は広く難しいものなので、一言でいうことは難しいですが、1人1人のQOLをどう考えるかというところと、本人と家族の意思をいかにこちらが引き出して確認をしていくかというところになってきます。けっこう意図的に引き出さないと患者さんと家族の本音を聞き出すのは難しいと実際感じています。家族の意思決定に時間をかけて寄り添うということは、実際患者さんが亡くなった後のグリーフケアにも繋がっていくという思いも込めて家族の意思決定に携わらせていただいています。このときには倫理原則とか患者の権利というところを大事にしています。この患者の権利はリスボン宣言に11項目挙げられていますが、この11項目のなかでも私たちとしては良質の医療を受ける権利、選択の自由の権利、自己決定の権利、それと認知症等で意思決定ができない方、意識のない患者、法的無能力の子供などの権利、患者の意思に反する処置をしていないかどうか、適切な情報を得る、健康教育を受ける権利、尊厳を得る権利、このあたりを意識しながら、本当に患者さんの権利が守られているのか、尊厳が守られているのかという人権擁護のところを強く意識してお話させていただいております。

 簡単に事例についてお話します。88歳の女性で数年前から要介護度5で寝たきりで認知症も進んで廃用症候群になっていた方で、会話としては日によってむらがありますが、簡単な頷き程度なら時折可能な状態でした。この方がいよいよ誤嚥性肺炎を繰り返して胃ろうを造ろうという話が出てきました。肺炎を起こして入院したのでどちらかというと病院側から胃ろうしかない、胃ろうを造らないと死んでしまうと言われていました。患者さんの家族としてはそう言われてしまうと造らざるを得ないと感じて、本当にそれでいいのだろうかと相談に来られました。それで、ご家族にいろいろと情報提供して家族の意思を確認していました。

 このケースは入院中でしたが、私どもの方から病院の方に声をかけて胃ろう造設に関してのカンファレンスを開催していただいて話し合いました。この家族はお嫁さんが主介護者でしたが、時々やってくる患者さんの娘たちが口だけ出すという、典型的な口は出すけど手は出さないというご家族でした。お嫁さんの立場も守らないといけないなというケースでしたので、いろんな親族も来ていただいてカンファレンスを開きました。最終的に胃ろうを造らずに看取ったのですが、胃ろうを造らない決定をした決定的な材料は、カンファレンスに来ていたお孫さんの発言でした。おばあちゃんが何年か前、元気な時に一緒にテレビを見ていたときに、気管切開や胃ろうを造っている人のテレビを見て、おばあちゃんが自分はこんなにしてまで生きたくない、私にはそんなことしないでねとおばあちゃんが言っていたよという話を話してくれました。親族は初めて聞く話だったのですが、お孫さんの一言でおばあちゃんの意思を尊重しようと、迷ってではありますが胃ろうを造らない決定をしました。在宅に戻ってきて、氷水とアイスクリームだけを食べて2カ月、本当に穏やかに毎日過ごし、眠るように静かに穏やかに旅立っていかれたケースです。ご本人の意思表示はできませんでしたが家族としてはおばあちゃんの意思を大事にしながら本当に穏やかに看取ることができ、そして、家で、家族皆で看取れて本当によかったと思ったケースでした。

 2番目の事例は、80歳の男性でレビー小体型認知症でした。この方はインテリジェンスが高かった方です。哲学的な会話が多くて、訪問看護に行っても人間とは何か、人間の文化的生活とは何ぞやとか、そんなことを問われてしまって結構わなわなすることが多かったです。しかし、自分が終末期においてこのような病気になったことが不本意で悔しくて残念であり、自分は文化的に生活していきたいのだと常々おっしゃっていた方でした。この方もいよいよ誤嚥性肺炎を繰り返して、入院先の病院で胃ろうの造設を明日、明後日の内に造ろうという話になってご家族が相談に来られました。やはりこのケースも、患者さん家族に私達の方からいろいろと時間をかけて胃ろうについての説明を行い、家族の意向を尊重して病棟にカンファレンスを開催してもらい、もう一度医師からインフォームドコンセントをしてもらって意思決定をするプロセスを再度ふみました。最終的にご本人が強い拒否を示したことを尊重して、この方も胃ろうを造らずに在宅にもどってきて、最後まで在宅で穏やかに生活して看取ったケースです。これも奥さんと娘さんのご家族が非常に迷ったケースでしたが、胃ろうを造らないという意思決定をした後も、訪問看護がずっと奥さんと娘さんの気持ちのフォローをしながら支援していました。看取った後は、お父さんの意思を尊重して穏やかにお父さんらしく生きることができてよかったかなとおっしゃったケースでした。

 これはちょっと別の事例ですが、50年多発性硬化症を患っている方がいて、PEGを造ったところから訪問看護が始まったケースです。先日、心室頻拍の不整脈がありまして、ペースメーカーを入れるかどうかということになり、同じように私達が意思決定のところに関わらせていただきました。結果、ペースメーカーを入れないという本人の意思表示がありまして入れておりません。現在この方は健在ですが胃ろうだけでなくペースメーカー等の意思決定も起こりうります。

 それから最後の事例です。13年前ぐらいに出会ったケースなのですがこの方は78歳の女性で右麻痺、失語症があって全介助の方でした。このケースもPEGを造ったあとから訪問看護が始まりましたが、主介護者が息子さん一人で床屋さんの自営業をしながら仕事の合間を見ながら介護して、介護のために実家に寝泊まりしていた人でした。この方は経管栄養の時間になると涙を流して経管栄養を拒否されていました。筆談で、これ以上生かさないでほしいと涙を流しながら筆談したケースでありましたが、この方についてはその後4年間ぐらい在宅で生活して最後穏やかに亡くなられていきました。この方についてはなるべく生きている喜びを感じてもらえるようなケアを盛り込んでケアさせていただいた記憶があります。

 駆け足でお話させていただいておりますが、数少ない事例から考えられることとして胃ろうを造ることに対して、もちろん病院でICを受けていらっしゃると思います。しかし、なかなか家族が1回聞いただけでは理解できない部分は多いので、そのあたりで充分な情報提供がされているのか、実際造ったあとの生活がどのようになるのか、介護はどうなるのか、サービスを使っていくのにどうなっていくのかという具体的なレベルまで落として、適切な情報提供をしているのかということが大事ではないかと思います。

 それから、若い人、100歳を超える方、認知症の方といったいろいろな人が胃ろうを造ります。どういう状態だから胃ろうを造らなくていいということではなく、胃ろうを造るまでのプロセスが大事ではないかと思います。このプロセスに医療者がどのように寄り添っていけるのか、患者の権利、倫理原則に沿って、1人1人のQOLを守っていけるのかというところが大事ではないかなと思います。

 最後に今後の課題としては、まだまだ医療職には死が敗北であるという認識がどうしてもあるように感じます。しかし、人間生まれれば必ず死がやってくるものとして、死イコール敗北ではないという意識改革も必要なのかなというところと、一般市民の方に対しては日頃から自分の人生について考えること、それから話し合う社会の雰囲気をつくることが大事ではないかと思います。そういった意味ではメディアの力も大事だと思います。後ほど、石飛先生が平穏死のことについてお話されますが、私は平穏死の本が出版されたときにすぐ買わせていただきました。満足死についての本も出版されております。患者さん本人、家族、関わった医療者、みんなが満足できる死というのを満足死と呼ぶというように発表されています。本当に満足死、平穏死というものをいかに今後考えていくかということが大事ではないかと思っています。

 以上です、ありがとうございました。

 
プレゼンテーション(3)
石飛 幸三 (世田谷区立特別養護老人ホーム芦花ホーム 医師)

 皆さんこんにちは。実は、私自身、どうして『「平穏死」のすすめ』が売れているのかしばらくわからなかったのですが最近ようやくわかってきました。みんな切実な問題として「死」を考えていたのだということだと思います。ご家族のこと、またはいずれ自分の番が回ってくるということとして考えているのだと思います。

 私は後期高齢者でございまして、私の話はバイアスがかなりかかる話だと思います。胃ろうをつけられるかどうかという立場に近いもの、私が現在行っている芦花ホームにも100人の入所者がいます。中には私より随分若い方もいらっしゃいますが人ごとではない。自分ならどうするかというバイアスがかかった話になるかと思いますのでご承知おきいただきたいと思います。

 高齢者の胃ろう、高齢者の命を延ばせる可能性があるのに胃ろうをつけないことは社会的弱者の切り捨てだとよく言われます。医療費がかさむからといって、私は『「平穏死」のすすめ』を出した時に「絶対に金の話はしないで下さい」と、ある厚生官僚から言われました。せっかく今考えるヒントを、石を投げたのだからそれだけでいいので、金の話をすると必ずいろいろ波紋を呼ぶので絶対金の話はしないようにときつく言われています。

 しかし、今日は本当に高齢者の医療を考える専門家の会ですから、ある程度思い切って言った方がいいのではないかと思っております。なにしろ最近、私のところに届いた資料によると、胃ろうをつけてだいたい3年ぐらい生きるらしいのですが、1年間に払われる医療費は一人当たり約500万円だそうです。3年間で1500万円です。日本で今30万人の人が胃ろうをつけております。その内で、先ほどまでのプレゼンテーションからいろいろ出ておりますが、本当に必要なものもあります。しかし、90も100も過ぎて、意識もなくムンクの叫びのような形で口を半分開けて、自分では動けなくて、自分の意思でなく胃ろうをつけられて寝ている人が、今日本には少なく見ても7割はいるだろうと言われております。20万の人がもしそうだすると、年間にこれに必要とされる医療費はなんと1兆円です。お金の問題ではありませんが、我々の基本的な姿勢が問われている中で、どういう波紋を呼んでいるかということを、そういう意味で私は触れさせていただきたいと思います。

 胃ろうについては私のような高齢者の立場からすると、何をされるかという話ではなく、基本的に自分がどう生きるか、いよいよ年をとって最後が近づいてきて、自分の大事な一生の最期をどう締めくくるかという自分の問題です。そのため、どうされるかという話ではなく、本人の尊厳はどうあるべきかを考えるところにあるということを最初にお断りしておきます。そういう感覚で、死期が来たとどうしてわかるのか、胃ろうをつけておけばまだ生きられるのに可能性がゼロだとどうしてわかるのか、どうしても切り捨ての話をする立場から出る話はこれなのです。これは感覚を間違えている。そんなものどう議論したとしても出てくるわけがないのです。本人にとってどうかということを考えないといけない。こちらが最期を決めるとか他人がする話ではないのです。要は自然が最期を決めるのです、神様が決めてくれるのです。必ずこちら側の論理、胃ろうをつけるかつけないかという医療側の論理、看護側の論理、家族の論理といった、本人でない者の論理は心理的な負担が伴うものです。

 医者の場合は、私自身そうでしたからそれは反省の念を込めて言うのですが、胃ろうをつけておかないと保護責任者遺棄致死罪に問われるのではないだろうかという、結局自分のことを言っているのであり、これからの老人の医療、介護をすすめていく立場としてはダメです。本当に、本人の立場で尊厳を考えるということが何かいうと、本人の立場を充分に考えるということです。こちらの論理、都合を言うのではない。それをぜひここで申し上げておきたいと思います。そのため、そういう考えが基本に出てくるようになったのは、病気と老衰とは違うのだということを半世紀、約50年外科医として、延命一筋としてやってきて、自分がいよいよ棺桶に半分足を突っ込む年に近づいてきてからです。大事な1回しかない人生、病気という危機に見舞われたときは徹底的に戦って、挑戦して人生を全うしなければなりませんでした。

 先ほどから話していますように、老衰、これは生物体である以上必ず最期は来るわけです。しかし、これは本人にとっては別なのです。宿命なのです、受容しなければならないものなのです。よく胃ろうをつけて生かす方法があるのにつけない、それをどうするかという、結局こちら側からの論理でやります。しかし、よく考えてみて下さい。本人は老衰の末期が来ていて生物体としては体が燃料を求めてない。もう死ぬのだから食べたくないのです。食べさせないから死ぬのではないのです。それが本人の尊厳を考える場合の基本です。スイッチがもし狂っているとしたらスイッチを切り替えてください。大切なのは本人の意思を尊重すること、もしも本人の意思を聞けない場合には代わって考えてあげるということ、こちらの都合は絶対言ってはならないということです。その代表的なものが老衰の果ての胃ろうです。

 今日、私が問題としたいのは老衰の果ての胃ろうなのです。意味がある、まだ回復の望みのある胃ろうとは全く意味が違います。これはピンチヒッターとして大いに意味がある。そうであるのに、今30万人つけられている胃ろうの内の7割近いものが本人の役に立つものかということ、老衰の果ての胃ろうではないかということが、今日本で大きな問題なのです。世界に恥ずかしくてこのようなことは言えないですよ。えらく調子にのって言いますが、テンションが上がっていまして、すみません。

 この場にいる方で、最後に老衰の果てに胃ろうをつけてもらうかというと、おそらく誰もいないと思うのです。ところがアンケートをして、8割の方が胃ろうをつけないと言ったのに今日本では8割の人が胃ろうをつけられています。これはおかしいではないですか。倫理の基本です。自分がして欲しくないことは他人にはしてはいけないのです。単純な話なのです。

 私は特別養護老人ホームというところで、日本では珍しいですが常勤の医者として働いております。世田谷区は行政区として日本で1番大きいところです。人口85万人、今から10何年前はバブルの真っ最中でしたから税金がどんどん入ってくる。当時、大場区長が日本一の特養をつくるということで1床あたり1億円をかけて立派な建物をつくりました。見学に来たい方はどうぞ見学に来て下さい。その後いろいろ問題がありまして、ハコモノは立派だけれど中はどうかという事態も起きたのですが、今は名実ともに立派なものになりました。

 その自慢も込めてちょっとお話しますが、特養100床、今は東京のような地代の高いところには、待っても待っても入れません。宝くじに当たったようなものだと入れた人は言いますよ。入れる条件は、いかに本人が大変か、介護する家族が大変か、合算した点が高い人から入っていくのです。順番を待っても、後ろから点数が高い人が来たらその人が前へ行くのですからダメなのです。だから結果的にどういうことが起こるかというと、認知症の人が9割、待って待って、待っているうちに年をとって平均年齢90歳。男は命がポッキリだから、圧倒的に強い女性が9割というこれが実態です。

 そういう人たちがどういう経緯をたどるか、私は5年間じっとみていて、坂を下る。何の例外もありません、皆さんそうです。徘徊します、不安定です、骨折します、倒れます。女性はすごい骨粗鬆症です。ホルモンの関係で当然です。平均年齢90歳。ちょっとしたことで大腿部頚部骨折。転ばなくても介護の人が気持ちをこめて体位変換しただけで、足を痛がり付け根が腫れてきて、レントゲンを撮ってみたら大腿部頚部骨折。当然動けなくなる、ADLはさらに下がる、反射は落ちる。あるいは、介護の人が一生懸命もう一口食べさせようとして、それが仇になって誤嚥性肺炎。切ないものですよね。本当に高齢社会を支えているのはあの若い介護の人たちです。済生会で副院長だ、血管外科医だなんてえらそうな顔をしていて、本当に来てよかったと思いました。こういう世界で、こういう人たちで、この時代が支えられているのだと本当に心が洗われましたね。すぐに仲良くなりました。誤嚥性肺炎で病院に送る、病院では肺炎は治してくれます。しかし、食べられない、誤嚥することは治せない。ところが先程から話が出ているようにいろいろな制度上の、施設上の都合をもって、次に移ってもらわないと、病院は居座られたのではどんどん収入が減ってしまいますから胃ろうをつけて、次に渡そうというわけです。

 しかし、胃ろうという本質を皆さんご存知ですか。じっくり考えたことはありますか。私は芦花ホームに行く前、何にも知らなかった。血管外科医だから胃ろうということをあまり知らなかった。だけど行ってみて、明日の我が身はこういう可能性があるのかと思ったときは、それは大変なショックでした。本質は食べる量を加減できないということ、これが根本的な問題です。尊厳の問題です。

 我々は3歳のときから自分の口で食べています。好きなものは食べるけれど、嫌いなものは食べない。私なんか好きな酒は飲むけれど、野菜を食えとかみさんに言われてもクソ喰らえってくらいで、すみません。挙句の果てに何が起きるかというと、老衰の末期ですから、それを燃料入れて機械を動かすように頑張れってやるのだから、当然エンジンかぶってしまいます。胃のなかにいくら入れたって、下へ降りるとばかりは限りません。あふれてきたら、食道は通じているのですから上にあがってきます。誤嚥性肺炎を防ぐつもりでつけた胃ろうが誤嚥性肺炎を起こす。もっとひどいことは、今日は調子が悪いので食べたくないと言えない。そのため、定時的に入れられたらどうなるか。本人のところに行ってみたら枕の横に経管栄養剤があふれて、ということで窒息です。

 私は芦花ホームに行ってそれを見たのです。これはいけないと思った。だから胃ろうをつけた以上は、今度はこちらに、肺の具合とか心臓の具合とか責任がある。とにかく優秀な看護師が一杯います。「先生、山田さんの左の下肺野の音がおかしいです」と異変に気付いてくれます。そうして、量を減らすということで見事に状態はよくなりました。それまで肺炎が次々出て、誤嚥性肺炎で頻繁に病院へ入所者を送っていました。私が行ったときは100床のうち、なにしろ20何床が空いていたのです。では次の人を入れればいいではないか、そうはできないのです。その空いているところは病院に行っているのです。帰って来るまで空けておかなければなりません。芦花ホームに介護保険料は入りませんから、病院の方で医療保険を算定していても芦花ホームは大赤字だったのです。

 口から食べるということは大事なことです。年をとってくればくるほどその大事さがわかってきます。だから終末期が近づくと本当にこの人にとって必要なカロリー、必要な水分はどうなのだ、持続して生きていける状況であれば、ある程度推定できます。そうではなくて、先ほどから問題にしているのは老衰の果てです。最終章にかかってきていて、どんどん状況は変わってきて、あるいは週毎に変わってきている。そうであるならこちらが加減しなければいけない。だから、状況を見ながら量を減らしていきました。すると、見事にたんの吸引回数が減りました。肺炎が減りました。

 タモツさんという方がいらして、八歳年上の姉さん女房がいました。タモツさんは戦争に行く前に2軒隣のお姉さんをきれいだなと思っていて、幸い戦争から生きて帰って来ることができたが東京は焼け野原。お姉さんは元気で、お母さんと妹を面倒みてくれてみんなで元気だった。本当に感激したとともに思いがかなって、それから60年です。姉さん女房はアルツハイマー、誤嚥性肺炎で病院に入院して、先生からは胃ろうをつけないとダメだと言われました。そのとき、タモツさんは、自分はこんなに恩のある女房を胃ろうをつけてまで生かしたら、恩を仇で返すことになるから絶対にしないと言いました。奥さんは、自分のことも旦那のことも全くわからないようになっていました。私は旦那の片棒を担ぎました。病院の先生は30歳そこそこで、こちらは70歳をこえているから親子以上に年が離れている。亭主も年寄りのため、年寄り二人で、先生もういいんだ、これは看取りなんだ、保護責任者遺棄致死罪なんて、こっちが責任を持つからいいよということで連れて帰ったのです。

 特別養護老人ホームでは数年前に誤嚥性肺炎で入院のため入所者を病院に送って、そこで亡くなった人がおり訴えられていました。それで負けて賠償していました。だから介護する人たちはみんな腰が引けているのです。これは大変な問題です。今でも週刊誌に似たようなことが書いてあるじゃないですか。もっと世の中が、みんなで超高齢者を施設で預かるということが、身体的にも社会的な意義としてもどういうものなのかという本質をもっと考えないといけない。只々、頑張らせればいいというものではない。私は、そういった場所にどっぷりいますからよくわかるのです。

 タモツさんはとにかく自分で責任も取るのだから、ぜひ連れて帰りたい。最初は職員にはひどく抵抗がありました。食べさせて誤嚥させたら又訴えられはしないかと。しかし、タモツさんは密かに勉強していました。奥さんはマツさんというのですが、マツさんのほおをなでて、たたいて、そして口の中をマッサージして、そうしたらマツさんはタモツさんの指を吸い始めました。スプーンでエンジョイゼリーをとって、ごっくんと飲んだときは、それはもうギャラリーでいっぱいでしたから、みんなが手を叩きました。これが幕を開けたのです。それから、職員はみんなで協力し始めて、タモツさんに好きな映画に行かせてあげたいと言いだして、一生懸命に摂食介護を始めて1年半生きたのです。その間の1日の摂取カロリーは600キロカロリーです。メーカーを言ってはいけないのかな。この際いいのではないですかね。エンジョイゼリー2パック、ときどきアイスクリーム。600キロカロリー、これは経験から我々が学ばせていただきました。そして最後は、先ほどから話もあるように本当に食べなくなった。そうすると寝て、静かに寝ていますよ。何の呼吸苦もない最後で穏やかに息を引き取った。

 だから2通りあるのです。これはいよいよ最後だということで、本人の意思を尊重して何もしない、自然に任せる平穏な最後。もう一つはいや方法があるから栄養入れよう、そして肺水種、かなり厳しい呼吸苦のなかで最後を迎える。あのタモツさんが言った名言があります。空腹は最高のスパイス。本人に生きていく力があれば自分で食べる。タモツさんはマツさんを、徹底的にそれで1年半生かしたのです。この感覚が大切なのです。芦花ホームが今よみがえったのはタモツさんのおかげであり、この言葉のおかげで、介護する人たちが変わってきました。一口でも多く食べさせる、一口でも多く食べてもらって元気に生きてもらわなければならない。「食べさせなければならない」それは無理ですよ。本人の力があれば食べるのだから、本人を尊重しましょうよ。

 同時に経管を付けた以上は、今度は量をこちらが責任をもって管理しないといけない。また、口腔ケアも、経管の人ほどしっかりやらないといけない。なにしろ唾液が出なくなりますから、口が渇くので雑菌が増えます。今、芦花ホームは看護師で申し送りの間の空いている人は一斉に行って、その時間を惜しんで経管の人の口腔ケアをやっています。そのおかげでスライドの通り、老衰で自然死の方がどんどん増えていっています。

 私が芦花ホームに行ったのは平成17年の12月1日からで、それまで肺炎で最後を迎えていましたが、自然死がどんどん増えてきました。結局、救急対応が減ってまいりました。家族と医者が話し合って、胃ろうをつけない選択をし、数日後に苦しまずに亡くなった。医者は適切と判断して家族と一緒にそういう決定をした。これだって医者の正当な役目だと思います。只々餓死させる気かといって、医療をすすめるわけではないはずです。誰が私を訴えるのですか。5年間このようなことをやっていますが成城警察の刑事がしょっぴきにやってきていません。親族の誰からも私は訴えられていません。

 刑法第219条、保護責任者遺棄致死罪。延命させる方法があるのにしない。こればっかり問題にする。でも説明があるのです。医師に課せられる法的要件は不作為の殺人、人工呼吸器を着けなかったといったことです。外したということで裁判になったケースもありましたけれど、川崎市民病院は有罪になりましたが、あれは別な件ですから。要するに呼吸停止剤を追加して安楽死させたわけです。人工呼吸器を外したことについて有罪にはなっていないのです。本当に不作為の殺人というのは本来行われるべき治療が行われないという、当たり前のことが書いてあるのです。本来行われるべき治療が行われない、当然ですよね。だから不作為というのは極端な話、3歳の子にご飯を食べさせないで虐待した。これは当然不作為の殺人です。

 もう一つ治療義務の限界。無価値な治療は行う義務がない。これはきちんと条文に書いてあります。殺人罪、人を殺したること。自然の死期に先立って他人の生命を断絶すること。きちんと説明されているではないですか。自然の死期に先立ってという条件が付くのです。したがって、老衰での自然な最後の前だと殺人になります。しかし、延ばすことは殺人になるのですかというと、これは理屈ですが、この辺りのことで、今枯れ尾花に多くの医者が怯えて保護責任者遺棄致死罪で餓死させることになるということが未だにあるのです。

 幸い、今は病院協会が倫理要綱を見直してくれるという動きになってきました。医者も変わってきつつあると思います。川崎市民病院の裁判官、インターネットで見ていただければと思いますがこんな問題を裁判所に持って来ないでくれ、まだ日本の刑法は人間の尊厳を裁くほど、国民のコンセンサスがそこまで行き着いていないので刑法が育っていません。この問題はもっと国民レベルで考えて、是非意思統一して下さい、刑法というものは国民のコンセンサスに沿うものなのですと書いてあるのです。是非インターネットで見て下さい。

 先程から話がありました。日頃から介護をしてない家族が来て、医療、延命の方法があるのにどうしてしないのかと言ってくることがあります。本人は胃ろうを望まない。生命の時間というのは、長さが大切なのでしょうか。よくわかりますよ、年が近いですからね。85歳の私の先輩と話をします。みんな同じ思いです。いかにきちんと生きて、そして、車が止まるときはぽとっと止まる。結局、どこかで止まるのです。餓死させるのか、これはないですよ。今日、この辺りは充分説明しました。この辺りのスライドも出ています。

 時間が超過しているようなので、もうこの辺でよかということにさせていただきたいと思います。どうも失礼しました。

 
プレゼンテーション(4)
池田 誠一 (NHK報道局社会部 記者)

 NHK社会部で記者をしている池田と申します。胃ろうの問題というのは、石飛先生からお話がありましたけれども、昨年、石飛先生の『「平穏死」のすすめ』の本が出てから、おそらく水面下にはずっとあった問題が表にボンっと出て、議論が始まっているような状況ではないかと思っています。一方では、まだまだ現場の専門職の方々の間での議論という部分も強く、一般の方から見ると、いきなり胃ろうという問題にぶつかり、戸惑われ、どうすればいいのだというところが現状ではないかと思います。そこの部分をしっかりお伝えをして、問題提起できないだろうかと思って取材をしておりました。過去形になってしまうのは、震災当日まで取材をしていたのですが、後はほとんど被災地の方に取材に行っておりまして、ちょっとまだ頭が戻りきれていないという状態です。ご容赦いただければと思います。私自身は家族の思いについて取材させていただきましたので、そこについてお話できればと思います。どうぞよろしくお願い致します。

 私自身、この分野の取材をしていて、施設でお会いする寝たきり、重度の認知症で胃ろうをつけている高齢者の方は、現場の方々にとっては普通のことなのかもしれません。しかし、一歩引いた目を持ちながら現場を取材する記者としては、本人の意思もわからないまま長期間生き続けるということ、それもそういった方がかなり多いというのは、まず初めに目にした時に率直に何が起きているのだろう、何のために生きているのかということを疑問に思いました。しかも、これから高齢化が進んでいって亡くなる人の数はどんどん増えていくわけです。そうすると、こういった方々がどんどん増えていってしまう。これはどういうことなのだろうと思っておりました。

 そうしているときに、現場のご家族からお話を取材と合わせてお聞きしました。さきほどからお話があがっている全日本病院協会の実態調査が先月まとまっております。これは、急性期、慢性期、特養、老健、訪問看護も含め、在宅の方も含めて幅広く実態調査をしたもので、これまで例のない規模でありました。私は先程から申し上げているように、家族の方はどういう思いでいるのかというところで家族票に注目して、家族に聞いた調査に注目しました。5000人あまりの家族に調査をしています。やはり、先程の問題意識から誰が胃ろうをつくることを決めたのかというところに注目しますと、急性期病院、訪問看護と事業所ごとにアンケートを取っているので幅があるものとなっています。こうして見てみますと、本人が決めたという人は1割にも満たないわけです。ほとんどは家族が決めている。医師というケースもあります。現場では当たり前なことかもしれませんが、数字で見ると9割の方が本人の意思とは関係なく胃ろうをつけて、結果として延命するということが明らかになっています。今回の調査でも、推定で26万人の方が胃ろうをつけていらっしゃるということなので、その数字がどんどん増えていくと考えると、どういうことなのだろうと改めて思いました。そして、胃ろうをしてよかったのかどうかというところも家族に対して聞いていますが、よかったというふうに答えた方が半分以上いらっしゃるということです。よくなかったと答えた方は非常に少ない。一方、何とも言えないと回答された方が一定数いらっしゃいます。ここが何なのかというところがポイントかなと思い、家族の取材を進めてみました。

 ご家族の例ですが、グループホームに入所していた84歳の実の母を、結果的に看取った57歳のご長男さんにお話を伺ったのですが、口から食べられなくなったときにこのまま死んでもいいとは思えなかったということから、胃ろうを造ることになったということでした。全く戸惑いはなかったということでしたが、その方は非常に意識が高い方で石飛先生の『「平穏死」のすすめ』も読んでいて、胃ろうというものは何かしらマイナスの要素があり、必ずしも良いものとは言えないものであるということも含めて最初は感じていらっしゃったようでした。しかし、いろんな説明を聞いていくなかで自分の息子としての気持ちからすれば、胃ろうをつけようと判断された方です。その後、栄養状態が改善されて、一時はアイスを食べるというよりはなめるということですけれど、そこまでは回復されて、半年後に亡くなられました。その方がおっしゃられていたのは、その半年というのが、母の死を受け入れるための時間をいただいたようなことだと自分では思っているとおっしゃっていました。親と別れがたい子の思いというのはどの家族にもあることで、なるほどとすごく感じました。ただ一方で、胃ろうをつけて半年生きていただいたというのは、ご本人は認知症の方でしたので意思表示ができないような状態でした。家族の心のケアのために半年生きたのだろうかという疑問も私自身感じたところです。

 もう一人は、93歳の祖母を37歳の孫が5年前から介護している、ちょっと異例のケースです。孫の母が癌でなくなられたということもあり、お孫さんが仕事をやめて住み込んで自宅で介護するというかなり珍しいケース、逆に大変なケースだと思い取材をしました。胃ろうをつけるとき、この方もやはり迷いはなかったとおっしゃっていました。おばあさんが100歳まで生きたいと常日頃言っていたということもありましたし、つける直前までコミュニケーションできていたので、そういうことがわかっていたということでした。また、つけた後にこのおばあさんは水彩画を描くのが趣味で、お部屋に行くとたくさん貼ってあるのですが、それを描けるまで回復したということでした。私などちょっと引いた目で見てみると、介護の負担があって、仕事をやめてまで介護しないといけなくなったお孫さんなので、何かしら後悔とかしてないのだろうかと率直に思ったのですが、いや全然後悔していないとおっしゃっていました。それは、本人の意思と好きなこともできたという、胃ろうのメリットといいますか、そういった部分があったからだとおっしゃっていました。これもなるほどとすごく思ったところでありました。

 一方で、いろんな葛藤を抱えられるという話がよくありますが、葛藤を抱えていらっしゃる方もいらっしゃいます。この方は77歳の義理の母を、40代後半の義理の娘さんが自宅で介護されているケースです。重度の認知症で、2年前に急性期病院を退院する際に胃ろうを造りました。そこで説明を受けたのですが、初めて胃ろうということを知ったので、退院するには胃ろうをするしかないという受け取り方をして胃ろうを造ったということでした。それから、2年間介護が続いているわけですが、1日3回の胃ろうの管理、摘便もご自身でされていて、家を離れられないという状況でした。そういうなかで、義理の娘さんからすると、本人の意思も分からないまま毎日毎日、向きあい続けているので、本当は望んでいないのではないだろうかというところです。生かし続けていることが、人間というよりは機械のように生かし続けているのではないだろうかという葛藤を抱えていらっしゃいました。このケースは、まさにインフォームドコンセントの部分で先程、中島さんの方からもその過程が大事なのだと、説明の過程が大事だという話がありましたけれど、その逆のケースが典型的に出たものだと思いました。

 すでにいろんな話が出ていて重なっていて恐縮ですけれど、やはり世間全般としてまだまだ終末期の医療、介護、どう死を迎えればいいのだというところについては、ここにいらっしゃる専門職の方々や当事者の方は日々向き合っていらっしゃいますが、世間一般に関してはまだまだ無知で、ある日突然ぶつかってしまう。一方で、どんどん高齢化して認知症の方も増えるなかで、準備もないままこういう時代を迎えてしまっている。そして、自分の意思で最後を迎えていない形になってしまっているのではないだろうかと感じました。

 だから、いろんな支援が必要となってきていると思いますが、一つは震災の直前に取材していた取り組みで、聖路加看護大学の旧姓・野田由美子助教の家族の判断の支援をしようという取り組みがありました。基本的には胃ろうを造るかどうかということは、すでに先生方のお話があったように本人の意思を最優先するべきなのだが、目の前の現実を考えると、急にそこまでリビングウィルなりといった取り組みが進んでいくということはなかなか難しい。そのため、今できることは本人に代わって意思決定という重荷を急に背負わされる家族への支援が必要だという考えからの取り組みです。実際、先ほど先生方から現場での精神的な、例えば、一年前から誤嚥しそうな方には、DVDを見せるなどして丁寧に説明していくという話がありましたが、なるほどそういうことをされているのかと私も思ったところです。逆に、そこまでできている事業者さんというのは全体から見ればごく一部なのではないだろうかと思います。

 また、こうして家族の支援をするガイドラインを作って、医者の方々や家族にどんどん提供していって、道具として使っていき、家族の葛藤の負担を減らしていくということは一つの有効な手立てだと思ったところです。具体的には、カナダのオタワ健康調査研究所というところがあるらしいのですが、そこにすでにこういったガイドラインがあるそうです。それを今の日本の現状に合わせた版、改良するという取り組みもされていて、今はまだ試作版があるという状況のようです。近々、これが家族の葛藤を減らす効果がどのくらいあるかということをこれから現場の方と協力して、テストしていくようでした。

 最後に、これもすでに先生方がお話になっていることで重なってしまって恐縮ですが、終活という言葉を使わせていただきました。やはり人生の終了への活動、準備です。リビングウィルにしても生前に心象というものを書いていこうという、市民レベルでの草の根活動の取り組みなどもNPOなどで徐々に始まっているところも一部あります。コクヨなどから出版されているらしいのですがエンディングノート、自分の人生最期の医療、介護、住まい、お金をどうするかといったことを書いておく本なども売れてきているようです。こういった取り組みがもっともっと表に出て、考えていくことが当たり前にならないと、なかなか根本的な解決にはならないのだろうと感じたところです。国民的議論が必要だと、最終的には何かしら国がこうするべきだと方針をまとめることに至れば、現場の方々の葛藤、迷いが消えるところもあるのだろうなと思いますが、そこに向けて私も、現場のことをお伝えしていければと思っているところであります。

 まとまりませんが以上です。ありがとうございました。

 
シンポジウム 「医療と介護の「絆」を考えるIV」
座長:桑名斉(老人の専門医療を考える会 副会長)
シンポジスト:プレゼンテーション講師4名
桑名

 信愛病院の桑名でございます。よろしくお願いいたします。

 今から20年ぐらい前にカナダのウィリアム・モーロイ医師が『最期の選択―大往生するための本―』(川渕孝一訳)を出しました。原文は『Let Me Decide』という本で、おそらく読まれている方もたくさんいらっしゃると思いますが、その本では自分の意思決定をしっかりするべきだということだったのです。20年たった今日でも、そこのところがまだまだ浸透していないという現状があります。

 約35年ぐらい前でしょうか、PEGが始まった時期ですが、一度は非常に限定された方達だけに造設されていました。それがだんだん診療報酬上の問題や介護の問題などが重なってきて、急性期病院では胃ろうにして、早く退院させないといけないということから、すごく増えてきて今まで続いてきたわけです。そうは言いましても、ここ10年間ぐらいは胃ろうに対する見直しの時期に入ってきたのではないかと言われています。ちょうど、フランスでは10年前にすでに胃ろうの見直しということがなされていて、フランスから10年遅れて、日本もようやくそういう時期に入ったということで今回のシンポジウムを企画させていただきました。各シンポジストの先生方どうもありがとうございました。

 まず、最初に各先生方同士で何か追加発言、質問等ございませんでしょうか。山下先生、よろしいですか。

山下

 まず、胃ろうの問題に関しましては桑名先生からお話がありましたが、みなさんもお感じの通り、導入の適応に関して問題が一つあると思います。あるいは、終末期を迎えた患者様の胃ろうに関しての管理というのはちょっと違った問題であるかなと思います。これはあくまで切り離して考えてもいいのかなと個人的には思います。ただ終末期といいますか、本当に亡くなる直前の患者様に関して現状考えていくべき時代であり、背景が存在しているかなというのは間違いない事実なので、こういう機会に自分も含めて、ご家族も含め、いろいろな意味で考えていく、いろいろな機会を設けていくということが非常に大事ではないかと感じました。

桑名

 ありがとうございます。中島さんいかがですか。質問でも結構です。

中島

 今日、たまたま挙げた事例は胃ろうを造らなかった事例に集中したのですが、一言、胃ろうを造って非常によい生活をされている方もいらっしゃることをお伝えしておきます。それから、私としては胃ろうの問題が最近非常に多くて、去年1年間で出会った3人のALSの方は58歳、60歳の2人を含め3人だったのですけれど、そういった若い人も胃ろうをつけないという意思決定をされています。自分は食べられなくなったら人生の最期だと思うということで胃ろうを造らず、呼吸器を着けず亡くなっていった若い方に、去年1年間で3人出会いました。いろいろ考えさせられることが多いです。

桑名

 ありがとうございます。池田さんどうですか。

池田

 先程の話のなかでも申し上げましたが、やっぱり1番の問題だと私が感じたのは、終末期の特に意思表示ができない、認知症などの高齢者の問題なのではないかと思います。だから、意思決定の話になっているのだと思います。何かしら胃ろうをめぐる報道が多くなっていますが、先生方がおっしゃっているように、胃ろうの医療技術が何か悪いというわけではないということは私も思っています。

桑名

 ありがとうございます。石飛さんお願いします。

石飛

 日本人の問題の先送りというか、戦後の高度成長、とにかく物資優先という波の中で、じっくりものの本質を見極めようとしなかった。その一面なのだなということを私は思います。先日、実は胃ろうだけの問題ではないと、人工透析学会の元会長が結局一緒だと言われていました。それから、小児の医療センターの外科部長が、先生これは胃ろうだけの問題ではありません、老人だけの話ではありません。実は小児の先天性の問題も含めてしっかり医療の在り方、尊厳のあり方、物質だけの話でなくみんなで考えていかないといけないと言ってくれたので、期せずして大変な石を投げたなと思いました。

桑名

 ありがとうございます。人間の尊厳というところになるわけですが、会場からの質問のなかにもそれに関連したものがありますので、少しその質問に答えていただきたいと思います。

 みなさんの意見を聞きたいというご質問で、高齢者で認知症の方に食べられなくなったら、寿命と考えてはいけないのか。本人の意思表示ができない場合です。さて、いかがでしょうか。難しい質問と思いますが、高齢者で認知症がある場合、食べられなくなったら寿命であるという考え方はいかがでしょうか。

山下

 まず、一つはやはり、ご本人がお元気だったときにどのような考え方であったかというのが重要になると思います。積極的に前向きにトライしていく性格で、病気に対しても普段からいろいろと気を遣い、いろいろとやられていたということがあれば、そういう意思を尊重する必要があるかもしれません。明確な意思表示で胃ろうを造り、1分1秒でも長く生きたいとかいうような意思表示があれば、それに応えていってあげることも必要だと思います。

 ただ、そのようなことが不明確な場合で、お元気だったときにどういうふうに考えていたかということが分からなかった場合は、やはり、ご家族の気持ちや、ご本人が若い頃にどのような生き方をしていたかということを主治医も含め、いろんな立場の人間がご家族と相談して、その方にとって一番良い方法を考えないといけないのではないかと思います。

 しかし、ご本人がご家族にとってどのような立場にあるのかということも重要になるかと思います。その方の意識がはっきりしていなかったり、認知症状が強かったりしたとしても、家族の人が病院に行って認知症の患者様に会って、笑ってくれた、今日は自分のことをわかってくれた、今日はしゃべってくれた。そういうことで、例えば、心の平穏を感じ、お父さんお母さんが生きていてくれてよかったという、ご本人が認知症であったとしても周りに与える影響、存在意義というのはあるのかなと感じております。ですから、ご家族が例えば、ただ元気というか生きていてくれるだけで本当に幸せだと感じて下さるようでありますと、そういった気持ちを大事にして、胃ろう造設とかも積極的にする必要があると感じております。

桑名

 そうすると先生は、そういうケースで食べられなくなった場合に、家族の方に食べられなくなったので寿命が来ましたよということは、説明はなさらないということですか。

山下

 説明はさせていただきます。胃ろうを造るといったことも、ご飯が食べられなくなったからといって、いきなり胃ろうという発想は皆さんないと思います。おそらく、半年とか3カ月とか経過を見ていくなかで徐々に弱ってきた、徐々に食べられなくなってきた、何度も熱発を繰り返すという状態で、やむなくこれは胃ろうしかないかなという段階で考えられるケースもあるかと思います。あるいは、私の方でお示しさせていただいた胃ろうを造設するタイミングという点で言えば、例えば、認知症があって嚥下機能が低下してもお食事が元々好きな方で、ご飯を食べることに生きがいを感じていたような方が何度も誤嚥性肺炎を繰り返す。そうであれば結局は口から物がなかなか食べられない状況が延々続いてしまって、食べたい食べたいという希望が叶えられない状況が続きます。しかし、逆に胃ろうを造ってあげることによって、ある程度そういった症状をコントロールしてあげて、体調が良いときに、ちょっと食べたいものや飲み込みやすいようなものを定期的に食べさせてあげる。そういう点で食に対する生きがいや喜び、ものを食べることができる喜びを、より安全により確実に提供させていただけると思うので、その辺りを含めて考えています。

桑名

 ありがとうございます。先程の食べられなくなったら寿命ですよということについて、中島さんいかがでしょうか。

中島

 難しくて一概には言えないです。高齢者であるから胃ろうをしなくていいというわけでもないですし、認知症だからしなくていいということには決してならないと思いますので、本当に難しいです。しかし、その人その人の胃ろうを造った後の生活がどうか、どんな自由度があって、どんな生活になるのかといったところが考えるポイントになるのかなと思います。また、先ほどからQOLという言葉が度々と出てきますが、寝たきりだからQOLが低いかというと決してそうではないです。また、認知症だからといってQOLが低いかというと決してそうではないのです。そのため、一人一人の人生の質をどう考えるかというところかなと思います。

 石飛先生がお話されたように、本当に人生を老衰という形で、人生の幕を閉じようとしている、本当に自然の老衰の形で自然に食べられなくなり、2日寝て2日起きているというライフスタイルに変わっていっている。そうであるなら、本当の自然の老衰の形に、食べられなくなったら寿命で体が欲してないのかな、と判断するかなという感じはしますが一概には言えないと思います。

桑名

 ありがとうございます。池田さんは医療者ではない立場からいかがでしょうか。

池田

 これは当然ながら、意思表示ができない状態で食べられなくなったら寿命という考え方はあると思うのですが、一実にそう言えるかというとおそらくそうではないのだろうと思います。ちょっと例は違いますが、ALSの患者さんで最後動けなくなって、それこそ意思表示ができなくなってしまう方がいらっしゃると思います。そういった方も生前の意思で、家族のために生きるのだという選択をされる方もいらっしゃいますので、そういった選択肢がなくなるというのは怖いことだなと思います。

桑名

 ありがとうございます。石飛さんいかがでしょう。

石飛

 本人は意思表示できないという前提ですから、私の話は老衰の末期のことに限定させていただきますが、本人は意思表示できないから誰が意思表示するのかという具体的なことになります。これは、医療者は決められないと私は思います。結局、現実には家族しか決められない。その家族がどれだけ本人の立場で物事を判断できるかという、直截な言い方をすると、インテリジェンスの問題が一つ条件として出てくるかと思います。その次に、現実に起こっていることは、先ほどの発表のなかにありましたが家族の情愛といいますか親子の情愛、血縁、これは本当に切っても切れないし、お母さんに1日でも、1時間でも長くこの世で生きていて欲しいということを誰も否定することはできない。それが家族のエゴだどうだと言われても、本人が意思表示をできないということが前提ですが、我々施設側のこととして一つは考えざるを得ないと思います。もう一つ問題なのは社会的にもっと整理しないといけないというか、勉強してもらわないといけないことは日頃介護していない人が来て、建前、束縛、ねばならないという世界だけでものを言う、そういう人はこの際、頭を冷やしてもらいたい。これは現実の問題として言わせていただきます。以上です。

桑名

 ありがとうございます。そうしますと老衰というのは、高齢になって認知症があるなしに関わらず食べられなくなってしまう場合、これは老衰といってよいのでしょうか。

石飛

 老衰の最期の終点は、生物体としては自分の口で食べられなくなることだと思います。そこは、私自身はそのように考えております。それをどう考えるかということは、人それぞれの面があると思います。それが現実だと思います。

桑名

 ありがとうございます。他にもたくさん質問が来ているのですが、細かいことでいくつかあります。

 山下先生、末梢点滴のことみたいですが、皮下点滴を実際に行う症例はありますか。1回の点滴量はどのくらいでしょう。トラブルは起きませんかという、具体的な質問です。

山下

 例えば、お食事が食べられなくて、経口摂取にこだわってお口でできるだけ食べられる、経管栄養の導入を拒否されて、お口で食べられるだけ食べて、食べられなくなると具合が悪くなることを理解されている。そのような患者様で1cc、2kcalの高カロリーの経口経管栄養のようなものを1回例えば、朝昼晩、1日3回50ccですとか、100ccですとか、そういう量をお飲みいただいて、600kcal前後あたりのカロリーは取っていただく。水分は全然足りなくなりますので、1日1本500ccの点滴を皮下注射という形で、最低限の水分と、最低限の経口摂取で誤嚥をたとえ繰り返したとしても、経管栄養は導入しないで、経口摂取が不可能であれば抗生剤の内服薬を使いながら、最低限の水分補給を行い、本人が食べたければ経口摂取を続けるという形で診させていただくケースはあります。こういったことは経管栄養の患者様がいろんな合併症を起こされて、量がとれない方も同様に考えております。

桑名

 ありがとうございます。ちょっと追加させていただきます。癌の緩和ケアの立場では点滴量をしぼるということをします。それは、症状を緩和するための点滴の制限なのですが、例えば1500ccとか行うとむくんでいきます。そのため、ちっとも楽になりません。家族がどうしても、せめて点滴はとおっしゃったときに1日500cc、250ccぐらいの皮下点滴をします。この利点は、引っ張って抜けたとしても血が出ないということです。もう一つの利点は、血管に関わらないのでどういう場所でもできる。例えば、大腿部とか腹部でもできます。

 その考え方を療養病床に応用して、療養病床でもだいぶ行うようになってきております。1つのよい方法ではあると思います。すべてが適応になるとは言いませんが、そのトラブルはあまり起きておりません。逆に入れ過ぎた場合のトラブルの方が大きいと思います。

 山下先生にまだ質問が来ているのですが、PEGを造って医療的に落ち着いていった方は移せなくなる。例えば、老健のような施設から受け入れてPEGを造っても、元の場所に戻せない場合はどういうふうにしていますか。

山下

 例えば、施設にいらっしゃった方で、嚥下機能が障害されて私共の病院に入られている方は、まずできるだけ経口摂取できるか頑張ります。何とか食べてもらえるように、リハビリスタッフ、介護スタッフ、みんなで頑張って、もう一回食べていただけるよう努力します。

 しかし、やむなく経管栄養を導入せざるを得なくなった場合には、胃ろうとか造設させていただくようになります。その場合、元の場所に戻れなくなるような場合は、2つほど大きな選択肢がございます。1つは、私どもの病院の中で保護というか、病院の中で療養生活を継続していただく方法があります。ただ、私どもの病院はどちらかというと、1回入院されると一生入院するというよりは、お元気になられたら元々の施設なり、お家に帰っていただいたりして、私どもの在宅療養なり、在宅のサービスで全面的にバックアップさせていただいております。そのため、入院期間が長くなるようですと、胃ろうで対応していただける老健ですとか施設ですとかをお探しさせていただいて、長期療養をお願いしたりして退院先を探させていただくケースもございます。

桑名

 ありがとうございます。中島さんから胃ろう造設のときのプロセスについてのご説明がありましたけど、今の例などでも胃ろうのメリット、デメリットを医学的なものとは別に、今後の生活にどう影響していくかという、その辺の説明が充分になされることは1つの選択肢を選択する場合に重要な視点になると思います。そこですよね、中島さんが苦労されているのは。

中島

 そこまでは苦労はしていませんが、内心お金にはならないけれど説明は必要なことなのでやっています。皆さん病院で説明を受けても具体的なイメージがないので、例えば、お風呂がどうなるのかということや、1回の経管栄養が何時間程度かかるのか、本当に日常生活の1コマ1コマの具体的なイメージができないので悩むことがあります。その具体的な悩みを解決してあげると、それだったら大丈夫、造設を決定し、お家で介護していけるというふうに意思決定される方も逆にいらっしゃいます。また、いろいろ考えて造らないというように決定される方もいます。その説明をより具体的にわかりやすくする、特に視覚的な材料を使って、具体的な生活をイメージするための説明というプロセスが必要なのではないかなと思います。

 それとちょっと付け加えで、在宅でも皮下注射を行っていますがトラブルはないです。

桑名

 その説明に使用しているDVDとかリーフレットは、我々にももらえますか。

中島

 残念ながら、私達は自分達で作る余力がないものですから、パワー的にも金銭的にもないので、胃ろうのメーカーさんからもらった資料です。それをメーカーさんに積極的に電話して担当の方に来てもらって、いろんな資料をもらったり、後はネットで取り寄せた資料だったり、具体的なPEGのチューブをたまたま内緒でもらったりしています。そのため、具体的にこのようなものがお腹に入るんだよというふうに説明しています。ですから申し訳ありませんが、メーカーさんにもらって下さい。

桑名

 メーカーさんだそうです。後はご家族が胃ろうについての説明を受けた場合に、決断されるまでの時間はどのくらい必要なのでしょうか。

中島

 これもケースバイケースです。入院中の場合ですと在院日数がありますので、造らないなら帰って下さいねという話にもなっています。造る、造らないということを明後日までに決めないといけないということもなくはない。ただ、最初から在宅で関わらせていただいている方にはある程度の長いスパンを見て、嚥下のこと、嚥下の機能のこと、肺炎のこと、それについて解決するためには胃ろうがあるという一連のことを、とても時間をかけて説明します。そのため、本当に長い方は1年、1年と長いプロセスをかけて悩んでいらっしゃる方もいます。様々です。

桑名

 中島さんに質問が多いのですが、もう少し質問いいでしょうか。ケマネジャーの方からの質問です。ご利用者のご家族が胃ろう造設にゆれています。少しずつ経口で食事を取られているのですが、栄養が足りなくて褥瘡が一進一退である。医師は胃ろうにして栄養をつければ褥瘡もよくなるよと言っているので、94歳なのですが、どういうふうにご家族に添っていったらよいのでしょうか。

中島

 これもケースバイケースなので、具体的なお話はできないですが、まずは本人の意思がどうなのか。今、意思表示ができないのであれば、病前にどういったことを言っていたか、どのような人生観を持っていたのか、死生観がどうだったのかとうことも家族に投げかけて考えてもらうきっかけを作ったりします。ご本人の意思、家族の気持ち、全身状態、介護力、経済的な問題、いろんなことをひっくるめて考えるので、一概にこうとは言えないです。すみません。ただ、一緒に寄り添って考える。そのスタンスが大事なのではないかと思います。

桑名

 ありがとうございます。「Evidence-based Medicine」という言葉と「Narrative-based Medicine」という言葉がありまして、最近では「Narrative-based Medicine」という、その方の人生、ストーリーを大切にする。それがQOLにつながるということもだいぶ言われるようになってきています。そのため、寄り添うということは、「Evidence-based Medicine」を示していくだけではなく、やはり「Narrative」の部分を充分に勘案しながら説明をするなり、意思決定の参考にしてもらうなり、というところが大切なのではないでしょうか。

中島

 そう思います。

桑名

 ありがとうございます。他のご質問は石飛さんへのご質問になるのですが、お話のなかで出ているかとは思いますが、誤嚥性肺炎を繰り返す方の時に悩みます。実際にPEGを造って肺炎が減って、安楽な生活になる方もいらっしゃいます。家族は割り切れない、医療スタッフも割り切れないことがあります。という、質問というより悩みということでしょうかね。

石飛

 胃ろうを造ってこういう効果があった、こういう経緯になった、元気に食べられるようになった。結果的にそういうものも出てくるかと思います。特にパーキンソン病などでは、こんなに機能が落ちていて、もうダメかなと思っていても、意外に家族の希望でつけてこんなに誤嚥が減ってきて、体力が戻ってきてよかったなと、こちらが勉強させられるケースは確かにあります。

 それから、どうしても決断ができなくて結局、経鼻胃管のまま帰ってきて、それで様子を見ているうちに、方法として暫定的な状況ですが、人工的な経管栄養が功を奏して体力が戻ってきた。あるいは、平衡状態、意識がないままそういう状態が続くとなるとこれもある程度反射がある場合は、経鼻胃管のままでは本人がつらいであろうという気持ちで胃ろうにするとか、いろんなケースがあります。結果的な状況で判断して、少しでも家族の思いが治まるようにこちらも一緒に考えて対応していくというのが現実ではないかと思います。ただ、最初つけるかつけないかという判断をしなくてはならない場合は、こちらもできれば本人のことを一番考えて、そういうスタンスで家族と一緒に話し合う。最終的には家族が決めるという原則で行っています。それが実際のところですね。

桑名

 ありがとうございます。家族の判断はとても大切だということと、実態としてやはり全日病の調査でも家族の意思で造設されることが多いということがありました。中島さんは実際行っていらっしゃいますけど、家族の判断をサポートしなければならないという、急性期の医師にとっては非常に苦手な部分だと思います。その辺、家族の判断をサポートするためには、どんな職種が一番適していると思われますか。山下先生、医師の立場でいかがでしょうか。

山下

 まずは、一番ご家族に近い場所にいらっしゃる方という点でいうと、もし在宅から入院されているケースであれば、ケアマネジャーさんですとか訪問看護ステーションの方が一番、ご家族の様子とか患者様のいろんな環境、家のなかの様子までよくわかっていらっしゃると思います。そういう点では、ご家族が一番信頼するというか心の拠り所になるのはそういう方なのかなと感じます。

桑名

 そうしますと、キーパーソンということですかね。

中島

 そうですね。一番ご家族のご相談に乗るキーパーソンではそうかと思います。もちろん、医学的な面とかいろいろな説明という点では主治医が大切になるとは思います。しかし、いろいろな悩みを打ち明けたり、気持ちを共有したり、お話を聞くということになると実際のところは、そういう方達がとても大きなウェイトを占めると思います。私どもの病院で言えば、リハビリのスタッフが必ず個別のリハビリで入っておりますのでそうかなと思います。そのため、意外と嚥下とかADLとか、リハビリスタッフに相談するケースも多いかと思います。

桑名

 ありがとうございます。中島さんいかがですか、誰が頼りになりますか。

中島

 それも本当にその人に関わっている人の中でのことなので、必ずしも医師、看護師でもないかなと思います。しかし、とりあえず私は看護師なので、看護師の視点で言うと一応看護師は体のことと生活の両側面から人を見るという役割があります。そういう意味では看護師が割とそういう機会が多いのではないかなという気はしますが、ただ、いろんな他職種と関わって決めていく。決めていきながら、そのケースに必要な職種が関われるのが一番よいのではないかと思います。

桑名

 主体は看護師ということでしょうか。

池田

 とも言えませんけれども。

桑名

 そんな遠慮なさらなくてもいいと思います。ありがとうございます。池田さんから見て、いろんな取材の場ではどういう人がサポートするのが一番うまく行くと思いますか。

池田

 それもおっしゃられたようにケースバイケースで、一番身近な方は誰なのかというところ次第なのだと思います。しかし、人が誰かということも問題ですが、先程中島さんがおしゃっていた、一番重荷を背負わされている家族の支援をするという、大きな役割がボランタリーになっているということが大きな問題ですね。何かしらそういう部分を制度上見ることができないのか、というのが論点になってくるのではないかという気がしました。

桑名

 そうしますと、職種ではなくて、役割という新しい職種が必要だということになりますかね。例えば、ソーシャルワーカーですとか、そういった人たちではダメなのでしょうか。

池田

 よく分からない部分もあるのですが、それぞれの現場の方々の限界、日頃の業務の負担も含めてあると思います。そういったなかで、制度上抜け落ちているのであれば現状のようなまま、一番大事なところなのに抜け落ちたまま進んでいってしまうのではないかということが懸念されます。どこの職種の方が担うかというのはわかりませんが、制度上位置づけていれば、どこどこが担うとなってくるのではないかと思います。

桑名

 ありがとうございます。何か無理やり答えていただいたようでごめんなさい。

 石飛さん、先生のところでは、いわゆる老衰の判断を先生がなされるのでしょうけど、看護師、介護士、相談員さんとかいらっしゃると思いますが、状態を一番とらえている方というのは先生を除いてどんな方でしょう。

石飛

 みんな願いは一つです。あんまり問題を難しくしなければ、7年も8年も介護地獄やってきて、首に2回手をかけそうに家族がなるとか、その最終章、それは本当に最期穏やかに幕を引いてもらえれば家族はほっとします。また、それまで少しでも体をきれいにと一生懸命尽くしてきた介護の方、最近は看護の方も医療のことは言わなくなりましたね。熱が何度で、血圧がどうだという、それがどういう意味を持つのだという調子でしますので、結局、先程から話にあるように本音のところですっと話が決まっていっていると思います。やはり、相談員も非常に役割大事ですね。

 先程の一連の話につながりますが、誰がそういう場面でいろいろリーダーというか主導になるのかというと、今の日本の実情を考えてみると、先日もこんなことがありました。訪問看護の方が家族とだいたい日頃お話なさっていて、もう胃ろうをつける状態ではないし、最期静かに迎えさせてあげたいねと言っていた方でした。その方は誤嚥性肺炎で入院して、先生から餓死させるのかと言われました。これは半年前、現実にあったことです。病院の医師、私はまさに病院の医師でしたから懺悔の気持ちも込めて言うのですが、とにかくその時点、その時だけの主治医ですからね。胃ろうをつけたらどうなっていくのかということが、実は病院の医者には何もわかっていない。もちろん、山下先生は全然違いますよ。今日、お話を聞いていていろいろわかっていらっしゃるなと思いましたけれど。しかし現実には、そういう病院の医者が非常に多い。今それをやはりきちんと考えていかないといけない。その時だけの主治医では医者としてあまりにもさみしい話です。

 先日も世田谷区にある中核病院の肺外科の先生が電話してきて、是非会いたいということでした。私はまだ急性期病院を卒業して6年目です、その病院の入院患者の9割以上が高齢者の誤嚥性肺炎。肺がんの人が入るベッドがふさがってしまっている。私はまだ6年目。かけだしが余計なことは言わないで、肺炎の治療の勉強をしろと言われればそれまでですけれど、肺炎を治す10日から2週間の間だけの主治医です。治すと消化器外科にその患者は回っていきます。その方がどういう経緯でこの病院に来られたのかは知らない。また、治した後どうなっていかれるのかも知らない。そんな医者になるつもりではなかった。今の現実に、本当に胸をうたれましたね。そういった面があるのだと思います。

 一方、先程言った、実態、生活を含めて充分把握してご家族と一緒に気持ちが通じ合っていらっしゃる訪問看護の方は、医者が餓死させる気かということで、そのまま胃ろうをつけられるのに抵抗できなかった自分の情けなさを泣きながら言っていました。そういう極端な話ですがいくつかあるのだと思います。それは、今みんなで考える話です。だから、今日こういう会だとつくづく思いました。

桑名

 ありがとうございます。PEGを広めた鈴木豊先生はPEGドクターズネットワークを作っておられ、その先生が言われたことだからかなり信憑性が高いと思って印象に残っています。患者さんの将来ビジョンを考えて造設すべきだということをおっしゃっています。広めた先生がやはり今現在に至って、そういう思いが集約されてきているのだなと思いました。先程から議論になっていますが家族の方に、あるいは患者さんに寄り添うということは、患者さんがどういうふうに幸せな道を辿るのか、あるいはその逆なのかというその辺りを考えた上で造設する、しないというのを選ぶべきだということだと思います。とってもわかりにくいのですが心情的にはピンとくるものがあったのでお話させていただきました。

 残り時間が15分となりました。会場からのご質問に答えていただきたいと思うのですが、どなたかご質問はありませんか。はいどうぞ。

木下

 山口県の光風園病院の木下と申します。今の誰が判断するべきかという質問は私が書いた質問だったのですが、今日のお話を聞いていて、私達慢性期の仕事なのだなと感じました。患者さんが急性期に行って、どうしてこの患者さん胃ろう造ったのだろうとか胃ろうを造ったあと、慢性期の病院に来て、どうしてこの患者さんに胃ろう造ったのだろうと感じることがあります。急性期の医者が短時間で分かるはずがない、1週間しか診ていない先生に人生なんか分からないというところを私達が、この方はこういう生き方だから胃ろうを造った方がいいのではないかとか、そういう部分で急性期をもっとサポートしないといけないのかなと、伺っていて思いました。実際、皆さんそういう活動をなされていると思いますがいかがでしょうか。例えば、石飛先生のところにご相談に行かれて、若い主治医の先生と相談されたとか、そういったことをもっと強化しないといけないと感じたのですがいかがでしょうか。

石飛

 関連する話になりますが、1番私のところに話を聞きに来てくれているのがケアマネなのです。それから、介護の方、看護師さん、最後に医者です。やっと最近医者からの反響がでてき、医師会でも話をさせてもらって、病院での話も来つつありますが、1番悩んでいらっしゃるのはケアマネではないかと思うのです。今は制度の上では、ケアマネに対応を丸投げしているようなところがありますから。今木下先生がおっしゃった急性期病院の医者、私のように急に特別養護老人ホームの中から見始めたという変わり種もいますけど、みんなで本当にこの問題を考えないといけない。

 最終的には診断書を書くのは医者ですから、医者が実はしっかり自分の矜持を、この際責任逃れなんかしないで、全体を見通して決定していかないといけない。それには、急性期の病院で胃ろうをつけたらどうなるかということをみんなでしっかり考えていかないといけない。それが全くおろそかになっている。みんな現場でその場で判断しないといけない。ケアマネの人だと経験がなく、制度上だけの方がいますから。そういった立場の人が判断するなんて実際には無茶な話です。そういうことが多々起きていると感じました。

桑名

 ありがとうございます。やはり、この場は慢性期医療を主体に行っている会員が多いわけで、慢性期医療を行っている我々がサポートをしていく中心にならなくてはいけない、というような示唆をいただいたのではないかと思います。他に質問はいかがでしょうか。どうぞ。

鈴木

 鶴巻温泉病院の鈴木と申します。石飛先生にお伺いしたいのですが、実務的な話になりますが、私の病院ですと急性期で経鼻で管が入ってきて、それでその後でPEGにしようかどうかということになるのがほとんどです。ですから、最初から何もない人は選択があるのですが、経鼻が入ってきている方にPEGの方が管理上は易しいということになると、流れとしてはそういうふうになってしまう。そうしますと、そのとき経鼻が入っている方にPEGをしませんという選択をした場合、どういうふうに経鼻を抜くのか、その辺のプロセスをお聞きしたいです。

石飛

 そういう場合には、実際には脳梗塞の人の流れですね。とてもリカバリーできないような形で受け入れされている。私は、もしその場合、ご家族がこんな状態になった母親をいつまでも経鼻にしろ、将来胃ろうにするにしろ、ただ栄養を入れて生かすのはやめてくださいと言ったら、じゃあそうしようかと考えます。医者も状態を見て、意識も反応もほとんどないので経鼻胃管も抜く、そうするといくら長くても2週間以内に最期が来ます。

 今、私は弁護士さんと勉強会を半年以上やっていますが、人工呼吸器の取り外しの例ではありませんが、積極的な安楽死の何かをしない限りしょっぴかれるわけないと思っているのですが、それが本音です。それは、家族もそれを望む、医者も現実を見てそれが本人のためだと思ってそうする。まあ、ひどい言い方ですけれど、何もばれなきゃ、それまでの話。これはばれなきゃというのは検事の辞め検の人も含めた勉強会で出た話です。まあ、ご参考までに。

桑名

 他にどなたかご質問ございませんか。医師以外にも、おそらく医師より悩んでいる職種の方もたくさんいらっしゃると思うので。

石飛

 もう一言言っていいですか。

桑名

 はい、どうぞ。

石飛

 ばれてですね。週刊誌にばれて、例えば、世田谷警察が来て、私をしょっぴいていくと、週刊誌種になりますよね。なったらすばらしいことだと思うのですがね。この際、みんなで大議論すればいい。もっとみんなで関心を持つべき話だと思います。

桑名

 胃ろうの差し控えという問題が、やはり法的に触れるのではないかといことが、とても神経を逆なでするような記事がたくさん出てきています。法律的には医療の差し控えは医者の判断であれば犯罪にならないのです。先程、石飛さんがおっしゃったのですが、ちょっと追加しますと、神奈川県の病院の人工呼吸器を外して殺人罪で訴えられた例と、射水で訴えられた例の2つを比べてみますと、射水の方は無罪になって、神奈川の方は殺人罪になりました。どこが違うかというと、外してから、もしくは外す前に筋弛緩剤を注射したということが正当な医療行為ではないということで、その部分だけが殺人罪になっています。そこを知らずに、外したから殺人罪になったと誤解されないようにしていただきたいと思います。

 ですから我々がいろいろな場面に関わる場合は、やはりご家族の判断が揺れていますので、医療者は医療者としてのプロですから、プロはプロなりにこういう方法がある、あるいはこういう方がいいと考えるのがよいと思います。この方にとっての幸せ、あるいは平穏はこういうことだと思いますよ、ということを言ってあげて、後の判断を待つというスタンスで行けば、そんなには問題にならないと思いますし、その結果、外す結果となったとしても、それはこっそり外さなくても、罪に問われることはないということを報道関係の方も言っていました。だから、あまり萎縮してびくびくしてやめてはいけない。ずっと続けないといけないということではないというところを、よく知っておいていただければと思います。

 他に何かございますか。何か質問したいけれど、こんなにたくさんいると質問しづらいなということで帰ると後悔しますよ。せっかく、『「平穏死」のすすめ』を読んだのに石飛先生に何か聞きたいなあという方は、後でサインをもらって下さいね。

 あと2、3分で時間になります。シンポジストの先生方、これだけは言っておきたいということがございましたら、最後にお願いしたいと思います。一言ずつお願いします。

山下

 先程、ご質問も出たかと思いますが、常に誤嚥とかを繰り返されて嚥下機能が低下して、胃ろうを造った方がよいのか、造らない方がよいのかというケースで悩まされている方をお抱えになっているかと思います。そういう方に関して、今日まだちょっとご説明していなかったのですが、資料となっている以降のスライドにその辺りの資料があります。

 例えば、嚥下障害者における栄養摂取方法の違いによる利点・欠点。栄養投与経路としての胃ろう造設のフローチャート。あるいは途中でご説明しているのですが、ダイナミックスタディーとして消化管機能検査というものを、私どもの病院ではガストログラフィーを使って、実際に胃から腸への排出の具合はどうなのか、胃から食道への逆流があるのかどうか、小腸内の流れはどうなのかといったことを評価しています。例えば胃ろうを造った場合に、比較的に安全に使えるようなことが予想されるのかとか、造ったけれどやっぱり合併症を起こして、実際は造ったけど使えなくなってしまう可能性が高いのかどうかと、予めそういったことを想定しながら胃ろう造設を行った方がよいのかどうかという、参考にもさせていただいております。ここのレントゲンの写真は胃ろうのチューブから造設している写真なので、NGチューブで造設している写真ではないのですが、その中の具体的な所見などを提示させておりますので、参考までにフローチャートとか写真を見ていただいて、造設をお考えいただくような判断にしていただければ良いかなと思っています。

桑名

 ありがとうございます。中島さんどうぞ。

中島

 先程、慢性期が担うべきかという質問がありましたけれど、私は訪問看護をしていていろんなことに関わらせていただいていくと、訪問看護ってライフサポーターだなと思うときがあるのです。なので、看護師がやらなければいけないとか、看護師でないといけないということでは決してないと思うのですが、一般の市民の方達が気軽に相談できる、そういう窓口があればいいのかなと思ったりすることもあります。例えば、それがかかりつけの開業医ということもあるかもしれません。また、地域の看護師かもしれません。私もその必要性を感じて、先月、訪問看護ステーションの事務所を開放して、NPO緩和ケアサポートグループと共同主催で「ふらっとカフェ」というのを始めています。一般の市民の方達がふらっと来ていただいて、お茶を飲みながら何でも相談できる場というのを作って始めたところなのですが、そういう場がいろんな地域にあればよいのではないかと思います。それをいろんな職種が行っていって、人生のコンシェルジュ、人生の案内人みたいなものを支える役割を医療福祉職が行っていってもよいのではないかと思います。そして、そういう市民への意識づけにはNHKのようなマスコミ、メディアが重要ではないかなと思います。

桑名

 私もそのカフェを作ろうと思っていますので、その節はご指導よろしくお願いします。池田さん、いかがですか。

池田

 今、中島さんからもプレッシャーをかけられましたけど、まさにそうなのだろうと思います。先程、石飛先生がおっしゃられた胃ろうの中断に関してもそうですし、実際、日本老年医学会の調査ではアンケートの対象になった医師の5人に1人、20%近くの医師は胃ろうの中断を経験しているという調査もありました。水面下になっていることだけで、世間一般にどういう問題で、自分にとっても他人事ではないのだということが、全然伝わっていないなというのが私自身取材して感じているので、議論にしていくためにまだまだ私も取材の途中で終わっているので、しっかり問題提起できるようにしたいなと思っております。ありがとうございます。

桑名

 NHKの使命は重いですよね、よろしくお願いします。

石飛

 私も心からお願いします。先日も私と同年輩ですけれど、東大の名誉教授で大井玄さん、今年の2月でしたかね、人間の大往生。先程のカナダから遅れて30年目ですが、『人間の往生』新潮新書でしたか書かれていて、1935年生まれで私と誕生日が数カ月しか違わない。その人が訪ねて来られて、おっしゃるには、医者は宇宙観がないと言う。彼は哲学者でもあり、環境医学の大家であり、精神医学にも造詣の深い方です。本当にそう思います。私は50年外科の医者をしていて、こんなことを全く知らないで只々延命。命は助けないといけないと思って、それだけを行ってきていました。私の話の経緯はある日突然、うちのかみさん訪問看護師なのですが、だいたい医者は点滴のやりすぎよと言われて、特養の話を持ってこられて、行ってみてそうなのだということなのです。だから、みんなでこの問題は関わっていかないといけない。つくづく思いました。以上です。

桑名

 ありがとうございます。最後に石飛さんが上手くまとめて下さったようで、私の役割はなくなりました。4人の先生方にもう一度拍手をお願い致します。どうもありがとうございました。会場の皆様のご協力もありがとうございました。

 これでシンポジウムを終わりに致します。

 
閉会挨拶
藤井 功 (老人の専門医療を考える会副会長)
大川

 最後に当会の副会長、藤井功よりご挨拶させていただきます。よろしくお願いします。

藤井

 皆さん、長い時間どうもありがとうございました。胃ろうのこのシンポジウム、非常に熱気があったように思います。これが1回だけで終わるのではなく、2回、3回とシンポジウムができる題材ではないかと気がしております。また、是非ご案内致しますので次回もご参加いただければと思います。

 私は、今日シンポジウムを聞かせていただいて、我々医療人というのは、患者さん、あるいは患者さんのご家族がハッピーに、いかに最期を暮らせるかということを追求するのが我々です。そのため、その患者さんが胃ろうをつけてハッピーになるのであれば、胃ろうを造ればいいし、ハッピーにならないのであれば、造らなければよいというように、いろいろなケースがあるなという気が致しました。

 皆さん、本当に悩んでおられる題材だと思っています。また今後も、我々いろいろな企画をさせていただきますので、次回もお集まりいただきたいと思います。

 本日はどうもお疲れさまでした。

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老人の専門医療を考える会 JAPAN ASSOCIATION FOR IMPROVING GERIATRIC MEDICINE