巻頭言
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老人医療NEWS第62号 |
三年前に、上智大学のデーケン教授の講演会に出席したときのこと。「日本人の高齢化率が上昇してきていますが、死亡率はどの位かわかりますか?」と質問されて、聴衆が戸惑い始めたその時に「一〇〇%でしょう!」と仰った事が印象的だった。その後の宴席に同席させて頂いた時に、そのジョークを使用してよいという許可をもらってから、今も時々そのジョークを使っている。死亡率一〇〇%。この言葉の持つ意味合いが、高齢者医療を行っている今大きなテーマになっている。
確かに超高齢社会日本を表現する記事が新聞紙面を占有している昨今、「老い」を題材にしたエッセイがベストセラーになっている。戦後間もない頃には、生活の中に「死」が大きな問題として認識されていたのが、いつの間にか生活の中で「死」はタブー視されてきたようだ。自宅での死亡が激減し、病院での死亡が当たり前になり、結核やらい病の隔離政策と同様、政府の行ってきた医療政策では「老衰」すら隔離されてきている。病院で死ぬのが当たり前という風潮が強くなっている。介護疲労のあげくの殺人という切ない記事が最近社会面を賑わし、自殺者数も三万人を超え社会問題になってきていても、また理由なき殺人という世紀末用語まで出現していても、身近に「死」を経験できなくなってきている社会の中では所詮他人事でしかない。
当院では、リハビリテーションを行う病院として認知され始めているが、入院時に出来る限り「DNR(心肺蘇生をしないこと)」をご家族、できればご本人に確認するように努力し始めている。リハビリテーションという魔法の言葉に踊らされて、「永遠の命を与えられる」と錯覚している人ほど、この説明に対して立腹される。不可逆的な心肺停止と判断されたときの無意味な蘇生行為をしないこと≠フ確認でしかないのが、まるで人非人と思われることもある。「死」と立ち向かっていかなければならないリスクの高い人だからこそ適切な医療≠行うわけであって、「死」を汚すような心肺蘇生を提供することはプロとしてできないと考える。その確認をせずに医療を提供することは、詭弁になると考える。
救命救急治療が「誰でも助かる」医療と認識されている嫌いがある。Lancet vol.358105-109の論文中に救急病院内で心停止した患者が三分位で心肺蘇生を受けられるシステムがあることに驚いているのだが、比較的リスクの低かった患者でも生きて退院できた率が十二〜十四%であることが書かれていた。当然「DNR」希望の人は、そのときに的確に判断されていて無駄な治療は受けていない。
さて日本、療養病床のみならず、一般病床においても貧弱な人員配置のために、これほど迅速に対応できない現状と考える。だからこそ、そして病院であればこそ「DNR」という確認事項を徹底しなければいけないと思う。