老人医療NEWS第117号 |
今年度から、全国老人保健施設協会の役員に4年ぶりに復帰した。平成7年から六期12年間、老人保健施設協会関係の仕事を手伝っていたが、この4年間のブランクは想像していた以上に大きかった。東日本大震災、協会の公益社団法人化が重なったこともあるが、4年前にはなかった煩雑な作業に追われている。
2025年を目途とする「地域包括ケア体制」の構築に向けた診療報酬・介護報酬の同時改定に際して、今後の老人保健施設の在りようを明確に打ち出すときは今を置いてないとの思いがある。老人保健施設に対する私の基本的な考え方は小山秀夫先生の言う「何でもあり、ただしズルは駄目」、「食事は松・竹・梅があってよい」である。これらが分かる人には細かい説明を要しないが、分かろうとしない人、体験をしたことがない人にこれらの言葉の胸のうちを説明するのは至難の業であろう。
老人の専門医療を考える会の一員に加えていただいたのが平成2年であるから、かれこれ会員歴は20年になる。この間、老人を取り巻く医療・介護の制度は短い間隔でコロコロと変わってきた。新しい制度に乗っかっては梯子を外されるの繰り返しであった。
しかしながら、医療・介護以外に手を出さなかったお陰で経営的には我が法人存亡の危機に遭遇してこなかった。当会の会長を齊藤正身先生が引き継いで下さったので、私は認知症の診療に専心し法人の運営を息子に引き渡す作業に取り掛かるつもりでいた。
だが、不覚にも日本精神科病院協会の支部長を10年、全国老人保健施設協会の支部長を20年間続けてしまっている。それぞれ、奈良県独自の協議会も兼ねている関係から、県の委員会委員も引き受けている。さらに、「あんたも好きね」と言われながら、犯罪を犯した精神患者に関わる医療観察法の審判員や地方労災医員も断りきれずにいる。昨年からは「救急患者搬送困難部会」という委員会に精神科教授から頼まれ、出席しては理不尽と思われる要求に対して、切れまくっている。以前は、もっと上品だったはずなのにと惨めな思いで会議場から帰路につくことが増えている。
話を老人保健施設に戻すと、協会では運営理念や役割は明確に決まっているものの、その実態は多種、多様である。今後の老人保健施設の在りようを検討するために、もう一度モデル事業をやってみないかと言う話もあるが、詰まるところ「理念や役割を実践するにはどうするのか」ということに帰結する。
この20年間、老人の専門医療を考える会で学んだことや思いついたことを身の丈に応じて、常にモデル事業のつもりで取り組んできたように思う。報酬が付かなくても「やるべきこと、やってみたいこと」を行なってきたつもりである。問題はそれを実行できる少しの余裕があるかどうかである。経営実態調査で赤字、黒字とばかり言わないで欲しい。
折りたたむ...11月28日で70歳になった。自分ではそう思っていないが、統計上はこの5年間は64歳以下の労働人口に養われていたやっかいな老人ということになっている。
では65歳が高齢者の定義になったのはいつ頃であろうか。国連は1956年の報告書に、日本では1965年の国勢調査からとなっている。1965年の日本人の平均寿命は男68歳、女73歳。2009年には男80歳、女86歳となっている。この44年間に男12歳、女13歳程寿命がのびている。そこで現在65歳以上が高齢者となっているのを70歳以上とするように提案する。
これで計算すると2011年の高齢化率は23.4%から17.3%に減る。また高齢者1人を支えるのに必要な生産年齢人口は2.7人から4.1人となる。2025年では高齢化率は30.5%から24.6%に、高齢者1人を支えるのに必要な生産年齢人口は2.0人から2.7人となる。高齢者の定義をかえることによって2025年になっても高齢化率、高齢者1人を支えるのに必要な生産年齢人口は2011年と同じ事になる。その結果、日本が超高齢社会であるという呪縛から解放され、将来への不安が大きく減る。不安がなくなれば消費も増え景気の改善が望めるであろう。
そのためには慶応義塾長の清家篤先生がいわれているように70歳まで働ける社会の創造が必要である。働いてもあまり年金が減らないような年金の支払い体制の検討、定年延長は雇用側から考えればかなり困難であるので、パート雇用などいろいろな勤務体系の検討も必要になる。働きがいのある職場づくり、労働の種類や分担の見直しも必要だ。職場全体の理解と協業の精神が重要となるだろう。
生産年齢人口が増加すれば、人材不足にあえぐ医療・介護の大きな担い手となる可能性が大きい。国は2011年6月に社会保障・税一体改革で2025年医療供給体制のビジョンを出しているが、看護・介護者の数が100万人単位で不足するのに、この対策を全く論じていない。一向に進まない外国人労働者をまだ頼りにしているきらいがあるが、全く当てにならない。現に看護師の資格獲得者は一桁単位であり今後の大幅な増加は全く望めない。全く望みのない政策をこのまま続けてゆく価値はないと考える。国の政策だからと病院団体が後押しするのは如何なものかと思う。医療労働者の充足を担うのは65歳以上の人々と、女性労働者の働く環境の整備しかない。日本人の労働力を確保することで、いま失われようとしている日本の文化や食生活を守ることにもなる。
資格を新たに作るチーム医療ではなく、今の資格を生かしたチーム医療と必要ない規制の緩和や撤廃も必要となる。規制の緩和や撤廃は立場によっていろいろと主張が違うが医療現場の意見が重視されなければいけない。経済界やアメリカの要望に惑わされてはいけないと思う。
今後、いつでも、どこでも、誰でも医療が受けられる体制が維持できるのか、あるいはどこかで制限が必要になるのか、そろそろ考えはじめる時期ではないか。高齢化社会は人口構成で今後二〇年は確定している。今後の日本を考えれば、高齢者対策よりも少子化対策が重要である。
超高齢社会の日本が、世界に先駆けて高齢者の定義を70歳以上とすることを実践、提案してはどうか。
折りたたむ...私は、脳卒中やクモ膜下出血後に摂食障害を持ち合わせる高齢者の患者さんを受け持っています。
治療の大原則は、人間的な家族関係を保ちながら全人的治療をさせていただくことです。従って、初回面談に時間を費やします。スタッフと一緒に、ご家族の話をゆっくりと伺うことを守っています。どのような既往歴があったか、現症はどうであるのかなどは前医からの情報提供書にもありますが、家族の理解を知るために話を伺いますと、医師、看護師の観点と違った情報を入手出来ます。それは、次への方向性を見つける機会でもあります。
最近の2つの症例をふり返って、胃瘻の造設を決めるのは急性期病棟なのか、介護病棟や療養病棟であるのがよいのかを考えてみたいと思います。
〜症例1〜
脳梗塞後右完全マヒ保存的加療、健側、両下顎の痙性が亢進したため経口摂取不能で胃瘻となりました。既往にうつ病(閉経後25年間)、パーキンソニズム(薬剤性)、甲状腺機能亢進症。転院時体重61.5kg、上唇が鼻腔を閉塞してしまうのでカラの経鼻カテーテルを使用して空気をとり込む。
太っているという理由を大きくみて、ダイエットを考えました。CZH1をアイソカルにしたことが成功しました。7か月後には51.9kgと約10kgの減量になりました。顔の表情がかわりました。上唇が下向きになりカラの経鼻カテーテルが不要となりました。
次の手は内服薬の減量です。うつ剤を中止しました。やはりそれも徐々にしていきましたので、特に障害なく出来ました。症状の変化としては、発語が多くなり、表情も明るくなりました。
ご主人は毎日こられ、お孫さんがみえると穏やかな表情になります。会話が成立しているような場面にも出くわしました。現在は、あいさつの言葉も出ます。
〜症例2〜
脳出血(左被殻)、開頭血腫除去術後、右完全麻痺、失語、摂食障害の例。
術後精神的不安定(感情失禁)となり、精神科にコンサルトして内服が四剤増えた例です。もともと内向的な性格の人だったそうです。既往歴に膀胱癌があります。薬剤を中止しただけですが大声を出さなくなりました。しかし、それだけではなく、リハビリ、ワーカーさん達のケア及び病態の共通認識があり、日常生活に信頼関係が構築されて来ていることが大きく影響していることはもっとも大切なことです。
現在では歌を歌ったり同室の方の髭剃りの音を聞くと、自分で起き上がり、待っています。剃ってもらえると期待することが出来ます。もちろん自分で剃れませんが。
この2つの症例のように思わぬ展開を見せてくれる場合があり、医療人としてこの上もない幸福感をスタッフと共有出来る瞬間です。
現在は急性期病院の医師が、栄養確保のためにとり敢えず胃瘻を導入するきらいがあるように思います。(短い期間での決定ではいたし方ないようにも考えられますが…)最近、当地方でも「胃瘻の功罪」についての公開シンポジウムが開催されました。一般市民に向けての啓蒙活動が始まっていることも知りました。
マスコミにおいても積極的にとりあげてくれています。市民活動家の中にも、自分自身に置き換えて考えていかなければいけないと考えている人達が増えて来ていることも耳にします。着実に地についている運動になっていると信じています。
現場の医療人達も市民活動へ参加していただいて、皆さんで高齢化社会をどう支えていくのが良いか議論していくことを望んでいます。
折りたたむ...消費税引き上げ、保険料引き上げ、そして社会保障給付の引き下げという大きな圧力がかかっている。公債残高が一千兆円を超え、国内総生産の四分の一が公債残高という、世界一の借金大国という現実が重くのしかかる。
社会保障給付の引き下げも、負担の増加も、それを希望する人は、少数派にすぎないが、これ以上子どもや孫の世代に負担を強いるのは、あまりに無責任である。
それにしても、後期高齢者は増加し、一人暮らしが急増し、家族や地域の力が低下し、若年労働者と呼ばれる人々は、低所得、非正規雇用によって、痛めつけられている。
社会保障給付は、主に高齢者の生活を支えていることは、だれでもが理解できるし、給付を引き下げれば高齢期の生活が脅かされる。その一方で、高齢者の不動産所有や貯蓄残高は、二十代、三十代の人々と比較すれば、高額である。今、問われているのは、高齢者にも一層の我慢が求められているに違いない。しかし、政治も経済もフラフラしており、高齢者がもっと負担しても良いという意見は、表面上みられない。
負担増がいやなら、給付の引き下げということにならざるをえないが、このようなメッセージを国民は明確に受け取っていない。多分、もうどうにもならなくなっているのに、選挙の票目当てに、政治が十分機能していないのが、原因としか考えられない。
小泉元首相は「私の在任中は、消費税を引き上げない」と言った。その後の安倍、福田、麻生、鳩山内閣でも、税の引き上げも、給付の引き下げもしないで、ただただ先送りし、国債残高を積み上げてきた。その責任は重い。
診療報酬と介護報酬の同時改定に関する議論がさかんな今日この頃だが、明確な政治の意思は国民に伝えられることもなく、党利党略というか、リーダーシップなき政権政党内のモメゴトに終始している。
介護保険についてのみ見ても、軽度者の利用者負担引き上げ、ケアプランの有料化、介護職員の処遇改善、軽度者の施設入所抑制、高額所得者の利用料引き上げ、大企業健保の負担強化(総報酬割の導入)など、さまざまな見直し案が示されてきた。
どう考えてもこれらの見直しは、厚生労働省や財務省の官僚のアイディアだ。彼ら彼女らは、社会保障制度をまもるために働く。何も喜んで引き下げや、負担増を検討しているわけではない。ただ、政府はどのような案に対しても、臆病としかいいようのない対応に終始している。多分、官僚たちは「我々は一生懸命になって制度の持続性のため考えているのに、政府がソッポを向くなら何もできない」と思っているに違いない。
負担増か給付の引き下げかといったことは、二者択一ではない。多分、今後は両者とも必要にならざるをえないというのが正直なのであろう。考えておかなければならないのは、負担増に対して「不安」だからといって反対しないことではないか。また、引き下げは「ゆるせない」といってみても、制度が続けられなくなってしまっては、どうにもならない。
万民の理解をえることは難しい。これからは、将来の負担増と給付の引き下げの必要性を繰り返し、わかりやすく説明し続けるしかない。結果がわかっているのに、これ以上引き延したり、あるいは対案もないのに「その時期でない」というような主張を政治家が強弁して欲しくない。
社会保障制度は堅持しなくてはならないし、子育て支援策も必要である。もちろん、制度に不都合があれば見直しを進めるべきだ。
その上で、我々には、負担増を恐れることなく、適切な主張をし、超高齢社会を乗り切るために、連携し、協同することが求められている。
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