オピニオン

老人医療NEWS第83号

老人専門医療への期待
社会医療研究所所長 岡田玲一郎

この原稿を書くことになったのは、平井会長の熱い思いの文章にふれたからだ(第八十二号)。内容は、この四月の診療報酬改定に到るまでのプロセスで、「老人専門医療」を推進されてきた団体及び個人としての(さまざまな)思いが、行間にも本文にも溢れていたからだ。その思いへの共有をお便りしたことが、きっかけなのだと思う。

「老人専門医療」については、私は医師ではないから医療には言及するが医学的なことは書きたくない。しかし、四十歳のときから「老人」については立教大学の社会学部で学習し、研究発表もしてきた。また「老年学」もトロント大学などで学習してきたので、その観点からいま思うこと≠述べてみたい。

別に順位はないのだが、老人専門医療に関して悩ましい問題はいくつかある。そのひとつが、老人の急性期医療である。ピーターパン・メディシンズについてはご承知のことと思うが、老人医療の急性期医療といったらよいのか、急性期の老人医療といったらよいのか、要するに急性期病棟における老人の医療(メディシンズ)はわが国では大いに問題がある(断言しちゃう)。永遠に加齢しないピーターパンに対する急性期医療と、加齢してしまった老人に対する急性期医療が同じわけがないと、私は思っている。むろん、北米では当然のようにそれは峻別されている。

そのピーターパン医療による(すみませんが)産業廃棄者≠フ多くを受けるのが「老人専門医療機関」である。これは、この会の病院ではおそらく痛く感じられていると思う。私自身は、実際に療養病棟で必ず訴えられる苦渋として経験している。いわゆる「ここまでやるか」というピーターパン・メディシンズである。しかし、愚痴を言っても仕方がないという私のリアリティは、医療界、行政をあげてこの問題に取り組むしかないという覚悟がある。

さらに、いまひとつの問題は「老年医学」と「老年医」の未成熟がある。これは、先の急性期医療とも関連するのだが、わが国の急性期病棟でのリアリティは、老年医のコンサルテーションがないことが挙げられる。昨年も米国の老年医を日本に招いたのだが、彼女の証言によると急性期専門医から老人患者のコンサルテーション依頼は一週間に少なくても一回はあると言う。

本誌の読者は、ほとんどが医師だと思うが日本に老年医学や老年医が急性期病棟で活用されていると思われるだろうか。私は、一社会人、老年学徒の一人として、急性期病棟での老年医学と老年医の活用はほとんどないと断言できる。ただし、急性期専門医として老人への急性期医療を経験したプロセスで、老年医学を経験的に学習され、それを急性期老人医療に援用されている医師は何人も知っている。

「老人は急性期であっても抗生物質は三日で切れ」「高カロリー輸液よりも腸管栄養」「安静より動だ」と言われる医師である。

しかし、その経験的老年医の人も言われるように、若い医師はピーターパン・メディシンズに凝り固まってしまう医師が多い。それは、急性期病棟でのナースの嘆息でもあるのだ。老人専門医療医、いわば老年医が急性期病棟での急性期老人患者の治療にアドバイスを与えられるシステムがあったら、老人も家族もずいぶんと辛い思いから解放されると思う。

しかし、現実は厳しい。日本の医師は、医師独特の「二枚の盾」をもっている。ひとつの盾は、他の医師の意見を聞こうとしない裁量権の盾である。この硬い盾で、他の医師や医師以外の医療者の意見は、はね返されてしまう。また、その盾を貫こうとしたら自身が傷つくので言わなくなってしまう。いまひとつの盾は、医師自身の中にある「言ってはいけない」という盾で、これは目にみえない精神的な盾である。特に、診療科が異なるとこの二枚の盾が機能してしまうようだ。そこに患者がいるのか、と辛く思うことがある。

いまひとつが、老人の終末期医療である。あるいは、いわゆる植物状態の患者である。植物状態に「いわゆる」と付したのは、私自身は「鉱物状態」だと思っているからだ。植物なら、成長もするし花も咲く。しかし、実際に植物状態といわれている患者?をみると、とても成長しそうにないし花も咲きそうにない。ひどいことを言う奴だと思われても、私はそう思っている。

しかも、わが国の場合は、急性期病棟に終末期の患者が急性期患者と混在している。このことは「厚生の指標」〇五年三月号(厚生統計協会刊)の東京女子医大での医師・看護師のアンケート調査でも明らかだ。医師も看護師も、急性期病棟(一般病棟)は終末期患者が過ごす場として適切ではないと思い、一般病棟は終末期患者の家族への配慮ができにくいと思っている。また、そのことによるストレスや疲労が増していると感じている。

しかし、急性期病棟(一般病棟)における終末期患者は誰かに任せてしまいたいと思っている医師は十六%に過ぎないし、看護師に到っては八%しかいないのである。センチメンタルな私は、この論文をみて悲痛な思いがしたものだ。最近、医療療養病棟の経営が問題になっているが(特に今回の診療報酬改定後)、終末期患者といわゆる植物状態の患者の受け皿になったら、たいていの地域で百床ぐらいは満床になってしまうのではなかろうか。昨年、急性期病院に老人患者が増加していることが急性期病院の大問題だとキャンペーンをしたが(細々と)、このままいけばわが国の急性期病院の大きな問題になると思っている。

このことも、先述のふたつの問題、ピーターパン・メディシンズと老年医学の未成熟と関連するものと思う。いわゆる植物状態であろうと終末期であろうと、見殺しにすることは人道的にも倫理的にも許されるものではない。それは、医療が人を支配してしまうことになるからだという信念が、私にはある。事前指定書(AD)も、わが国では未成熟だ。また、たとえ事前指定書があっても家族のいのちに対する価値観はさまざまだ。尊厳死宣言やさまざまな方法は存在しているが、これらは強制できるものではない。また、会費などの金銭絡みでやるべきことではあるまい。私たちも、LMD(レット・ミー・ディサイド)の運動をやっているが、会費と強制、さらには登録料は絶対的に否定してきた。

ここに、老人専門医療が教育者として関わる必要を感じるのである。当会で実施されたセミナーにも参加させてもらったことがあるが、ひとのいのちへの価値観はさまざまだ。死生観はステレオタイプではなく、融通無碍であろう。しかし、猛烈な勢いで老人が増えるこの現実は、死が確実に増加することを意味している。ひとりの人間として、どのように死にたいのか(ということはどのように生きたいのか)を問う人は今後ますます増えると思う。

老人専門医療の経験者の人たちが、そこにあらゆる選択肢を提供することも、社会的に大いに意味のあることだと思う。折りしも、介護療養では「看取りの機能」が問われてきた。そのための「看取りの研修」の依頼があることはナンセンスな話だと、最近思う。看取りとは、そんなものではない。死を約束されているのが人間なのだから、しっかりと看取るのが介護施設だけでなく医療施設の役割だと思う昨今である。

ここで脱稿したのだが、富山県の射水市民病院で「呼吸器外し」があり(事件とは思わない)マスコミの記者の人によると「病院側が動揺しているのに読者は平静」が印象的だという。ウン、わかる話だね。

国民意識が変化している証だと思う。ただ、呼吸器外しは尊厳死でもなければ延命治療の中止でもないと私は思っている。一種の、あるいは善意の、医師による支配だと思うからだ。いろんな意見があってよいし、そこから新たなる「いのち」の問題が論議されることを期待する。(18/3)

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老人の専門医療を考える会 JAPAN ASSOCIATION FOR IMPROVING GERIATRIC MEDICINE