老人医療NEWS第12号 |
老人保健施設には、看護職とは別に介護職の文字が法律上新しく参入してきたことは周知の通りである。両者の違いを一言でいうなら看護資格免許の有無によることは確かだ。そのため、老人保健施設は費用抑制の一つとして人件費節約を狙ったものだとか、看護婦確保難のためだろう、その結果は医療の質を低下させるのではないかなどの憶測さえ囁かれたが、果たしてどうであろうか。
医療法の看護助手とは、その意義・目的の上に違いがあるようだし、老人福祉法下の寮母等の呼称で馴染まれている職種とも、老人保健施設の介護業務は若干その意義・目的・手段の上で違いがあることに注目する必要がある。
そこで、何をもって介護と言うのか国語辞典を引いてみた。「介抱すること、看護すること」すなわち、看護の原点は介護そのものらしい。看護学大辞典を見れば「起居動作の介助や身の回りの世話」とある。最近では在宅介護、有料介護サービスなどの言葉も日常茶飯に用いられているが、食事や入浴介助、おむつ交換などの基本的生活に対する積極的援助を一般的には介護の概念とし、そこには誰もが「親身のお世話」を念頭に置いている。確かにこれは介護の必要条件である。ここで留意しなけれぱならないのは、家庭介護・施設介護のいつれの場合でも、善意をもって何でも彼でも援助する姿、密着し過ぎた援助には反省も必要ということである。そのために介護者の心身疲労を招くだけでなく、当の老人の自我を弱体化させ、感情・意欲・思考をも鈍化させるような悪循環を招きやすいからである。健常者から見れば、要援護老人の姿は危なっかしく、できそにないことばかり、まして、自助自立などは期待できないという先入観がある。しかし、たとえ寝たきり老人・痴呆老人といえども、自らの可能性をどこかに秘めている。それを引き出す『自助』『互助』の過程に積極的に取り組むことをもって介護の十分条件としている。その結果の期待が、家族との絆づくりになり、家庭復帰の道にも可能性が見出されようというものである。
老人保健施設の介護業務には、これらの努力過程が必要かつ十分条件として求められているのである。だからと言って介護職にその結果だけを求めることはできない。管理者のポリシー、看護やリハビリテーションスタッフ・ソーシャルワーカーのチームプレイ、併せて、家族の協力があってこそ、可能性も大きくなってくるのだが、その中心的存在として介護職の意義は極めて大きいのである。老人保健施設の運命を左右する介護職の教育研修はこれからの大きな課題となろうし、その波及効果は老人医療福祉のあり方にも一石を投じると言っても決して過言ではないと思う。
折りたたむ... 地元の公立高校の校歌には、
「ああ 悠久の天地かな八面山上 雲は行き矢作の流れ 水澄めり」
とあります。当院の所在する西尾市は、その歌の如く、市中を矢作川が流れ、徳川家康の生地岡崎の南に隣接する、人口約9万人の城下町です
当院は昭和52年9月1日に、19床の有床診療所として誕生しました。私は医者としては三代目にあたり、初代の祖父が開院した中澤医院(内科、小児科無床診療所)は父が跡を継ぎ、当院から車で3分のところに今も「注射をしない小児科医」として子供さんに喜ばれています。多くの場合は親の跡を継いで、内科か小児科をやるのでしょうが、私り場合は自分が好きな整形外科を選びました。現在地は常務理事である家内と結婚する時、若夫婦用の家を造ってやろうと両親が言ったのですが、彼女が「家はいらないから、開業用の土地を買って下さい。」と言ったのがきっかけで、買っておいてくれたものです。科の特性と市の特性(自動車保有率が対人口51%。一家に2台は当り前で、その家族の運転免許証数だけ車がある家もある)を考えての発言でした。
この発言がなかったら、父の医院を建て直して親子で中澤整形外科・内科医院という形でやっていたでしょうし、城下町の旧町並みの中では増床もできなかったことでしょう。車で3分とはいえ、離れた所で別の科を始めたのですから、初代同様の苦労をしてきたと思います。
地方小都市で大きな企業もなく(上場会社は名証二部上場の一社だけ)、主たる産物は、お茶(抹茶は全国生産量の50%をしめる)鋳物類で、企業は大半トヨタ関連の下請け会社というのが、西尾市のイメージです。余り人口増の見込めない地域に、当時は人口10万に1つあれば良い、と言われていた整形外科が、市民病院まで含めると3つありました。それに加えて、土地取得から開院まで7年余り過ぎる間に、200m程の所で市民病院の勤務医が整形外科を開院することになったという情報が入り、急遽開業することにしました。その診療所の開院の半年後に、開院することができました。
今思い返せば、祖父の地で開業するのが当然という浪花節的な開業です。マーケットリサーチをすれば、不可と出るような地域で開業したのですから、よくこれ迄やってこれたものだと思います。52年といえぱ、高度成長も終わりを告げ、医療界も厳しくなり始めた頃です。
リハビリには勤務医の頃から興味を持っていましたから、整形外科の後療法としてのリハビリには当初から力を入れてきました。それが幸いしたのかも知れません。その当時はこの地域では、リハビリに注目している医療機関は少なかったものですから。
59年3月に診療所のままで法人化、61年に病院化し、名称を中澤整形外科・理学診療科病院と改めました。病院といっても40床のミニ病院ですが、その規模の割にリハビリのスペースが広くとってあります。施設解放の一環として、機能訓練室では診療終了後、健康づくりの各種教室、会議室では英会話などの文化教室を行っています。
PTを市の保健センターに派遣していたところ、内科的リハビリの外来患者の比率が増えてきました。また市内の特別養護老人ホームへは医師を派遣しております。
当院のもう一つの特長としては、外来患者数が多く病床稼動率の低さが上げられます。これは早く社会復帰させるのがリハビリだ、という基本姿勢を崩していないのが原因です。
このようなミニ病院ですが、63年度老人保健施設の補助対象として内示を受けました。愛知県は尾張と三河の二地方に分けられますが、三河部第一号の補助対象老人保健施設という栄誉ある責任を負うことになりました。
プロジェクトを進める内に、ハタと気づいたのが、寝たきり老人の処遇の知識がないことです。整形外科としては急性期、リハビリは急性(整形外科)、亜急性もしくは慢性(内科)としてやって参りましたし、慢性のリハビリ患者さんは外来でやって参りましたのが、思わぬところでネックになっております。スタッフが若いので、彼らとディスカッションし、試行錯誤しながら、フレキシブルに取り組んで、マイナスをプラスに転じようと努力しております。幸いにして老人の専門医療を考える会に入会させていただけましたので、先輩諸先生方に一つ一つ教えていただきながら、地域になくてはならぬ病院、老人保健施設として育っていきたいと存じます。
折りたたむ...老人医療へのニーズの多様化ということがよく言われるが、二ーズとエゴイズムとを区別して考えるべきではないかと思われることがある。本来のニーズに対応していくためにはそれぞれの年代や立場における価値観を把握し、その背景を考えた上で対処していくことが必要である。この点を踏まえ、老人医療の課題と今後の方向について述べたい。
以上の方向性を軸に、今後の課題としては、看護・介護、投薬等の診療報酬の適正な設定、定額支払い方式の導入、および在宅寝たきり老人の医療の推進等が考えられる。(昭和六十三年度総会記念講演より)
折りたたむ...呼吸不全とは肺での静脈血の酸素化が不十分な状態である。予備力の低下している高齢者では特にその影響は多臓器に及び生命の危険が高いため、早期の診断と適切な治療が必要である。
呼吸不全の基礎疾患で高齢者に多いのは、慢性閉塞性肺疾患、気管支喘息、気管支拡張症、肺炎、肺結核や胸膜炎後の低肺機能、心不全等である。呼吸不全の主症状は息切れ、特に労作時の呼吸困難であるため、訴えが十分できない患者の場合、かなり呼吸不全が進行し重篤になってから診断されることも少なくない。従って長期臥床患者などのハイ・リスク患者では、呼吸数、呼吸の様式、聴診所見(喘息、呼気延長等)などに十分注意する。また、呼吸不全の誘因としては下気道感染が最も重要であるから、痰量の増加や膿性痰の割合の増加が見られたらその他の炎症所見に異常がなくても抗生剤を投与する。また、吸入療法、吸疲療法等の理学療法による予防も大切である。
呼吸不全治療のポイントは低酸素血症の改善と肺胞換気量の確保である。前者には酸素投与と各種薬剤による換気血流比の改善が中心になる。酸素の投与はそれ自体が肺胞換気量を低下させることがあるため大変難しい。不用意な酸素投与はCo2ナルコーシスを惹起し、結果として人工呼吸器が必要となる。高齢者では脳梗塞などの合併症や離脱の困難さを考えるとレスピレーターの適応には制限があるので、こうしたことにならない注意が必要である。酸素の投与法としては動脈血ガス分折が可能であれば、投与前の炭酸ガス分圧が40torr 以下の場合1〜2リットル/分、45torr 以上では0.5〜1リットル/分を鼻カテールで投与し、1時間程度で再検し炭酸ガス貯溜がなく、酸素分圧が最低でも50〜60torrであることを確かめる。ガス分折が出来ない場合には、1リットル/分程度投与し臨床症状の悪化、とくに意識障害に気を付ける。
薬剤による低酸素血症の治療は肺胞低換気に対するそれと基本的には変わらない。即ち、気管支拡張剤、副腎皮質ホルモンが中心になるが、高齢者では心不全が合併することが多く、利尿剤、ジキタリス剤なども重要である。気管支拡張剤としてはテオフィリン剤、交感神経刺激剤等があり、後者は吸入剤として使用する事が多い。前者は、最近経口剤でもRTC療法といわれ有効血中濃度が保てる様になったが、増悪時にはそれでは不十分で静脈内投与が必要になる。この場合高齢者では不整脈、消化器症状などの副作用が出現しやすいから注意が必要である。また、シメチジン、エリスロマイシンなどテオフィリンのクリアランスに影響する薬剤を使用している場合には慎重に投与する。いずれにしても有効血中濃度域が狭いため、血中濃度のモニタリングが必要である。副腎皮質ホルモンは副作用を恐れ少量を投与するより30〜40mg/日を一週間程度で漸減し中止する方が効果が大きい。
その他、抗生剤、去痰剤等の補助的薬剤も重要である。そうした保存的治療により出来ればレスピレーターの装着を避けるが、やむをえない場合には高齢者といえどもその時期を逸しないようにすることも大切である。
折りたたむ...老人の専門医療を考ネる会では、5月22日、ナースエイド・セミナーを開催した。ナースエイドについては、これまであまり全国的な研修の機会に恵まれておらず、病院における介護の担い手として研修の場を強く求められるところであった。参加者は全国の病院より34名のナースエイドが集った。
今回は第1回ということであり、技術面ではなく「自分を観る」、そして人間関係をより豊かなものにする、ということにテーマがおかれた。講師には安部昌伊氏(株式会社アイ・ピー・ディー)を迎え、午前9時より午後4時まで、東京都新宿区にある老人の専門医療を考える会内会議室において開かれた。
セミナーは、まず自己紹介ゲームの導入部分から始まり、さまざまなエクササイズを通し、参加していく過程の中で、自分に気づき、相手に気づく、という積み重ねで進められた。当初は緊張気味であった参加者も時間が進むにつれ、活発な発言がでてきた。日常生活の中で気づかずに過ぎ去っていることに、少し立ち止まって観ることによって、人間としての"ゆとり"を取り戻したセミナーであったといえよう。 参加者からの第二回を、という要望もあり、技術面も含めた次回のセミナーへと続けていく考えである。
折りたたむ...5月29日午前9時より午後4時まで、老人の専門医療を考える会内会議室(東京都新宿区)において第1回栄養士セミナーが開催された。光風園院長木下毅氏の司会により、参加者22名が特に高齢患者に重点を置き、病院における食事サービスのあり方について検討した。
午前中は2時間にわたり、聖マリアンナ医科大学病院栄養部長・最勝寺重芳氏により「高齢者にとってよりよい食事とは」という演題のもとに講賛が行われた。同講演では、栄養士としての基本、老人食のイメージからの脱却等について熱く語られた。講演概略は、現代社会においては、人間の根本ともいえる食生活を画一化された考えで規制できるものではなく、個人を単位に食事サービスを考えていかねばならない。老人患者であれば、老人の特徴、疾患の特徴をよく知り、その上で個人差にどれだけ対応していけるのか。さらに、患者本人の食事への意向を加えての食事内容が求められる。そのためには、まず栄養士自身のプロ意識を養い、積極的姿勢で臨むことから始まる、と述べられた。
午後は、参加病院による事例発表と討議の場となった。 参加者の参加目的は、視野を広め情報収集と発想の転換を図る、というものが多く、事例発表では他院の現状を知り、情報交換ができたようである。
また、現在対処し改善しなければならない課題としては、メニューの充実、食事時間の適正化、適温給食、現場管理等があげられたが、いずれの課題についても実現方法については今後の検討項目として残されることとなった。
次回セミナーの企画にあたっては参加者の中から田尾郁恵(光風園)、坪井尚子(柴田病院)、成田順子(青梅慶友病院)の3名が世話役となり、実態調査等をすすめることとなった。
折りたたむ...5月21日(土)午後1時より、老人の専門医療を考える会事務所内(東京都・新宿区)において、老人の専門医療を考える会昭和63年度総会が開催された。
開会の辞に続き、故合瀬義晴先生(当会会員)のご冥福を願い、一分間の黙祷を捧げた。天本宏会長の挨拶では「昭和65年度に医療法および老人保健法の改正をひかえ、当会としても老人医療の実践者としての主張を打ち出していかねばならない。また、老人保健施設との機能の違いを明確にし、地域医療の推進にも努力されるよう望む」と述べられた。
議案審議は松川フレディ議長によって進められる。 まず、吉岡充事務局長より62年度事業報告・会計報告がなされた。続いて、南溢監事、小串安正公認会計士より監査報告が行われた。以上について、出席者全員の承認を得た。
次に、63年度事業計画案・予算案の審議に移った。今年度は、欧州老人施設の訪問、また、過去4回東京において開催してきた全国シンポジウムを札幌市において開催すること等、地域的にも広がりのある事業を行うこととし、午後3時に閉会となった。
折りたたむ...6月7日、厚生省の幹部級職員の人事移動が行なわれた。事務次官には、幸田氏から吉原健二氏にバトンタッチされ「吉原時代」が開始される。吉原氏は、初代の老人保健部長で、老健法の生みの親ともいわれる人物で、その手腕は高く評価されている。
新老人保健部長には多田宏(前職官房会計課長)、計画課長には高木俊明(保健医療局管理課長)、老人保健課長には野村瞭(岡山県環境保健部長)の各氏があてられた。また老人福祉課長には、これまでシルバーサービス室長であった辻哲夫氏が昇格した。
多田氏は、健康政策局総務課長時代に医療法改正に貢献、医療関係団体からも信頼されるほどの人物であり、高木、野村、辻の三課長も、その道のベテランである。特に野村課長は、精神保健課長時代に痴呆性老人対策に貢献、また健政局総務課長補佐時代には医療計画の医系技官のチームリーダーとしての経験もある。なお、前老人保健課長の小野昭雄氏は、薬務局生物製剤課長としてエイズ対策に取り組むことになった。また近藤純五郎計画課長は保険局企画課長へ、真野章老人福祉課長は、保険課長となった。保険局の近藤・真野コンビは、老人医療費対策コンビといってもよく、期待と不安が入りまじる。
7月5日、厚生省は、組織改革を行い、老人保健部と老人福祉課を統合し、大臣官房に老人保健福祉部を新設した。そして初代部長には多田氏が、企画、老人保健、老人福祉の三課長には、高木、野村、辻の三氏が横すべりした。
吉原新時代は、老人保健福祉時代といってもよく、老人の保健福祉施策が、厚生行政に占めるウェイトは、今後ますます高くなるであろう。襟を正し、兜の緒を締めることが必要であり、確実に当会の活動に期待が集まり、その活動が重要な時代を迎えるのである。
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